要らぬ気遣い
黒月の根城は、古城を思わせる造りだった。壁も床も黒に近い濃灰色。
使われている石材は黒玄石という種類であった。硬質で、長年踏まれ続けた場所だけが鈍い艶を帯びている。
セレナの部屋を出ると、廊下にはほとんど明かりがなかった。空気も少し冷たい。おそらく地下なのだろう。
床の中央には、紺色の絨毯が敷かれている。石の色に溶け込むような落ち着いた色合い。しっかりと編まれた上等な品だった。
しばらく歩き、階段を上がる。途端に、光が差した。
「……眩し」
レインは左目を細めた。
地上へ出たらしい。吹き抜けとなった通路へ朝の光が注いでいる。
床は変わらず黒玄石。ただし、絨毯は階段を出たところで途切れていた。
何人かとすれ違う。全員、女だった。
黒装束の者。商人のような服装。旅人風。装いは様々だった。
誰も声は掛けてこない。ただ、視線だけは向けられた。
興味を示す者や警戒がこもった目を向ける者。遠巻きにこちらを見ながら、何か囁き合っている者もいた。レインは気にせず歩いた。
やがて、一人の女とすれ違う。全身黒ずくめだが、ミカゲたちではない。
片腕がなく、目にもほとんど光がない。一瞬、視線が合うが、女はそのまま通り過ぎた。
隣を歩いていたセレナの歩調が、ほんの少し乱れた気がした。レインは彼女を見る。セレナは振り返らなかった。
知り合いなのだろうが、お互いに会釈もしない。そのまま先へ進んだ。レインは何も聞かなかった。
再び階段を降りる。今度の絨毯は、深紅だった。黒玄石の廊下の中で、その色だけが妙に浮いている。
やがて、豪華な扉の前で足を止めた。隙間から明るい光が漏れている。中からは、男と何人かの女の笑い声が聞こえた。
セレナが扉を三回、軽く叩く。
「私です」
「おお。セレナか。よし、入れ」
男の声が響いた。
セレナが扉を開く。レインは、入った瞬間に眉を寄せた。
匂いがきつい。煙草と香水、そして酒。それらが混じり合い、鼻の奥へまとわりつく。
絨毯も椅子も深紅の天鵞絨。硝子張りの棚には、酒瓶や煙草が並べられていた。
部屋の奥の大きな椅子に、一人の男が座っている。五十代ほどだろうか。小太りで豪華な衣装に身を包んでいた。残った金髪を香油で整えている。男の粘り付くような視線は、レインではなく、セレナに向いていた。
その左右には、派手なドレスを身にまとった女が四人。胸元や首筋には宝石が光っていた。朝だというのに、今から夜会でも始めそうな格好だった。
彼女たちの視線は、レインに刺さっていた。なんだか、目を合わせない方がいい気がした。
セレナは男の前へ進み、片膝をつく。
「グレゴル様。ご用命通り、継承者を連れて参りました」
男——グレゴルは、ねっとりと笑った。
「相変わらず、美しいなあ。セレナは」
口を開いたが、任務についてではない。グレゴルは身体を少し前へ傾け、セレナの髪へ手を伸ばした。
「未来視などという、よく分からん能力さえなければなぁ」
指が髪を撫でる。
「儂の妻にでもしてやりたかったのだが。この世は、ままならないものよなぁ」
「あらぁ、グレゴル様」
傍にいた派手な女の一人が笑った。
「あたしたちを侍らせておいて、よくそんなことが言えるものねぇ」
周囲から控えめな笑いが起こる。
——なんなんだ、この空間は。
レインは黙って眺めていた。
ふと、セレナの動きが止まっていることに気づく。
グレゴルの手が、髪から顎へ移る。そして顎から、首筋へ。
その間セレナは微動だにしなかった。息でも止めているのだろうか。頭を垂れているため、表情までは見えなかった。
レインは動いた。
男とセレナの向かい合った側面から手を伸ばし、グレゴルの手首を掴む。
「嫌がってるみたいだけど?」
部屋の空気が止まった。グレゴルが顔を上げる。
「なんなんだあ、貴様はぁ」
眉間と額に深い皺が寄る。男は掴まれた腕を乱暴に引いた。
だが、レインの手を振りほどけるほどの力はなかった。
「離せ!」
「いや、だったら先に——」
グレゴルが空いた拳を振り上げる。レインは手を離し、一歩、二歩と後ろへ下がった。
男の拳が空を切った。
「おっ——」
勢いだけで前へ出たグレゴルの身体が傾いた。不安定になった体重に、足元がついてこない。
近くにいた女の一人へ、そのままもたれかかり、女の悲鳴が聞こえた。
「ぎゃっ!」
「ぐう」
男の声も漏れる。
レインはその姿を見た。
「……それって、本気?」
挑発するつもりはなかった。
ただ、あまりに動きが悪かったので、つい口から出てしまった。
体勢の低くなったグレゴルと目が合う。白目は血走っていた。
——いや、最初から少し濁っていた気もするが。まあ、そこは今は気にしなくていいだろう。
男の身体を支えている女は迷惑そうな声を上げていたが、ほかの女たちは一切声を出さなかった。先ほどまでの空気が嘘のように凍りついている。
グレゴルは近くの酒瓶を掴んだ。ゆっくり、もったりとした動きで立ち上がる。
「貴様……」
手が震えていた。
怒りなのか、悔しさなのか。そのどちらもなのか。ふしゅうふしゅうと、荒い息が漏れている。
レインは黙って男を見た。——さて、どうしたものか。こちらから殴りかかるのは、何か違う気がした。
ふと、セレナを見る。彼女は五歩ほど離れたところに立っていた。
こういう時、どうすればいいのかわからないのだろう。その場に立ち尽くし、ただ、グレゴルを見ていた。
絨毯が擦れた音が聞こえた。男が手に持った酒瓶を振り上げる。
「をおおぉっ!」
突き出された瓶を、レインは横へ避けた。そのまま懐へ入り込む。
男に近づいた瞬間、酒の臭いがさらに濃くなった ——この部屋の酒臭さ、こいつが大元か。
すれ違いざまに、レインは背中を軽く蹴った。
「ぐおっ⁉」
グレゴルが前へ倒れる。酒瓶が床へ落ちた。甲高い音が響き、瓶が砕け、酒が絨毯へ広がった。
レインは倒れたグレゴルを見下ろした。
「急に動くと、危なくないか?」
純粋な気遣いのつもりだった。
だが、グレゴルがそれを、そう受け取るはずもなかった。
「セレナァ‼」
怒声が部屋に響く。
「そいつを独房に閉じ込めておけ‼」
誰も身動き一つせず、声も出さなかった。誰もが静まり返った部屋の中にいた。
やがて、「……はい」というセレナの細く震えた返事だけが、深紅の部屋に落ちた。




