生け捕り
ミカゲが先に動いた。石畳を蹴り、間合いを詰めてくる。
レインは半身を引いた。顔の横を拳が通り抜け、遅れて風が頬を撫でる。続く一撃を屈んでかわし、横へ跳んだ。
「……っ」
靴底が石畳を擦る。
ミカゲは踏み込んだ足を軸に身体を回し、すかさず追撃してきた。
レインはさらに一歩、後ろへ下がった。
遺跡で交戦したときとは違い、脇腹に痛みはない。
息を吸っても、身体を捻っても、動きを妨げるものはなかった。それでも、ミカゲの拳をまともに受けるわけにはいかない。
彼女の両手には手甲がある。短剣で受け止めたところで、力負けするだろう。
レインは刃先を低く構え、彼女の足元へ視線を走らせた。
——こいつが、三人の中のリーダー格か。遺跡でも、ほかの二人へ指示を出していた。
三人すべてを倒す必要はない。目の前の女を無力化できれば、逃げる隙くらいは作れるはずだ。
だが、その方法が今は見つからない。
腰にあるのは、ガルドの短剣だけ。使い古した柄は傷みが進んでいる。
これで相手を打てば、今度こそ形を失ってしまいそうだった。かといって、手甲を構えたミカゲの正面へ飛び込むのも得策ではない。
もう一度、拳が迫る。レインは左へ身をずらし、短剣を閃かせた。
ミカゲは刃を警戒して腕を引く。その隙に、レインは間合いを広げた。
——足元を崩すか。
拳で打ち合うより、足技の方が自信はある。
足を払って体勢を崩し、鳩尾か首筋へ打撃を入れる。短剣は相手の注意を引くために使えばいい。
レインは、次の踏み込みに備えた。
「ちょこまかと、すばしっこいですね」
ミカゲが言った。表情はほとんど変わらないものの、呼吸はわずかに速くなっている。
「それだけが取り柄なもんでね」
レインは口元を緩めた。
ミカゲが一歩退いた。呼吸を整えるためか、先ほどより間合いが広がる。
——今しかない。
レインは短剣を引き、地面を蹴ったそのとき。横合いから、激しい水音が響いた。
「——うわっ!?」
顔を向けるより先に、大量の水がレインの頭へ吹きつけた。視界が白く弾ける。
身体ごと横へ押し流され、レインは足を滑らせた。咄嗟に地面へ手をつき、転倒を防ぐ。
頭から肩へ、冷たい水が流れ落ちていった。
「……なんだよ、今の」
濡れた前髪を払い、水が飛んできた方向を見る。
路地の先に、一人の女が立っていた。桜色の髪。小振りな杖を掲げている。
遺跡で出会った三人組の、残る一人。アスターと呼ばれていた女だった。
「あっ、よかった。ちゃんと止まってくれましたね~」
彼女は杖を下ろし、にこりと笑った。
その声に、ミカゲが顔を向ける。
「……私にも、かかったのですが」
黒髪の先から、ぽたり、と水滴が落ちた。
レインだけでなく、ミカゲも水を浴びたらしい。肩や手甲から水が滴り、足元の石畳を濡らしていた。
「……どうして水なんですか? もっと他にあるでしょう」
ミカゲの声に、抑揚はほとんどなかった。
「だって、可哀そうなんだもん~」
アスターは悪びれた様子もなく、そう言った。
「標的に対して、可哀そう、ですって……?」
ミカゲの眉間に、深い皺が刻まれる。レインは二人を交互に見た。
今なら、ミカゲの懐へ踏み込めるかもしれない。濡れた足元に気をつければ、体勢を崩すこともできそうだ。
——でも、なんだか、やりづらいな……。
短剣を構え直した、そのときだった。小さな影が横から飛んでくる。
レインは手首を返し、刃の腹でそれを払った。乾いた音を立て、小石が石畳を跳ねる。
「……今度は石?」
投げられた方を見ると、狐の耳を持つ獣人が立っていた。先ほどの追跡者、リュカだ。
彼女は手の中の小石を一つ、軽く放り上げている。
「——二人とも」
ミカゲが口を開いた。リュカとアスターが、同時に顔を向ける。
「……ふざけてませんよね。まさか」
「ふ、ふざけてるわけないだろ!」
リュカが声を上げた。
「生きて捕らえなくちゃだから、本物の刃を向けるわけにはいかないだろっ」
「わたしだって真面目ですっ!」
アスターも杖を握ったまま、身を乗り出す。
「セレナの言うとおりに、血を流さないよう一生懸命やってるんですっ」
「いーや。おまえは私情挟んでるだろ、絶対!」
「挟んでません~!」
「さっき可哀そうって言ってただろ!」
「それとこれとは別ですーっ!」
ミカゲは二人を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
レインは、そっと短剣を下ろした。
——ほんとに、仲がいいんだろうな。
こんな状況で言い争えるのだから、少なくとも息は合っているのかもしれない。
レインは一歩、後ろへ下がった。誰もこちらを見ていない。さらに一歩。
水を吸った外套が少し重かったが、走れないほどではなかった。レインは足音を抑え、その場を離れた。
「あっ」
背後から、リュカの声がした。
「また逃げた!」
レインは速度を上げた。だが、路地の先へ抜けようとしたところで、詠唱が聞こえてきた。
「大地に眠る土の力よ。この地に結び立て——≪巨岩壁≫!」
アスターの声だった。
次の瞬間、レインの目の前で石畳が震えた。
「……っ!」
地面から、巨大な岩の壁がせり上がる。鈍い地鳴りとともに岩塊が積み重なり、路地を塞いだ。レインは急停止した。
壁は左右の建物に迫るほど大きく、簡単に回り込めそうにない。背後から足音が近づいてくる。
レインは振り向いた。ミカゲの拳が、すぐそこまで迫っていた。咄嗟に身体の向きを変え、その軌道から逃れる。
拳がレインの横を通り過ぎた。直後、凄まじい破砕音が響いた。
ミカゲの拳が、目の前の岩壁に突き刺さっていた。岩に亀裂が走る。
拳の周囲から石片が弾け、壁の一部が砕け落ちた。崩れた破片が石畳に散らばり、乾いた音を立てて転がっていく。
レインは砕けた壁を見つめた。
「……まじ?」
思わず、言葉が漏れた。あれをまともに食らっていたら。
遅れて、近くの民家に明かりが灯った。一つ、また一つ。大きな音を聞きつけたのか、路地に面した窓が、次々と明るくなっていく。
ミカゲは岩壁から拳を引き抜き、周囲へ目を向けた。
「……非常に、まずいですね」
アスターも、灯りのついた窓を見上げた。それから、レインへ視線を戻す。
「……仕方ありません。許してくださいね」
彼女は、にこりと微笑んだ。
「……?」
レインは眉を寄せた。その表情の意味を考える間もなく、アスターが杖を掲げる。
「大地に眠る土の力よ。掴み取れ――≪土掌≫!」
——また、あれか。
レインは足元へ意識を向けた。
さっきは地面から伸びた土の手に足首を掴まれた。今度は、現れる瞬間に躱せばいい。
石畳が動く気配を待つ。だが、足元には何も起きなかった。
代わりに、すぐ背後で岩の軋む音がした。振り返りかけた瞬間、砕け残った岩壁から二本の土の腕が伸びた。
太い指が左右からレインの腕を掴む。
「なっ……!」
引き剥がそうとしたが、土の指はびくともしない。両腕を左右に引かれ、身体が岩壁へ押しつけられた。レインは足を踏ん張った。短剣を握る右手にも、力が入らない。
目の前に、ミカゲが立っていた。彼女はレインを見据えたまま、一歩近づく。
「……へ?」
レインの口から、間の抜けた声がこぼれた。
ミカゲが拳を引く。先ほど岩壁を砕いたときとは違い、踏み込みは浅かった。
レインは首を動かそうとした。だが、岩壁に押しつけられた身体は、ほとんど動かない。
手甲に覆われた拳が、一点を通すかのようにこめかみへ打ち込まれた。
細く鈍い打撃だった。目の前のミカゲの姿が、ぐらりと揺れる。指先から力が抜け、握っていた短剣が石畳へ落ちた。乾いた音が、やけに遠く聞こえた。
レインの意識は、そのまま暗闇へ沈んでいった。




