伸びた手の先
「あっ、待て!」
背後から声が響いた。
レインは振り返らず、夜の路地を駆け抜けた。
先ほどの二人とは、いくらか距離を取れている。あのままエーベルの家まで辿り着ければ、ひとまずは逃げ切れるだろう。
ただ、一つ気掛かりなことがあった。
遺跡で出会った黒月の連中は、三人組だったはずだ。さっきは黒髪の女と、狐の獣人だった。もう一人いたはずだ。どこに潜んでいるのだろうか。
レインは足を緩めず、薄暗い曲がり角を抜けた。今は身体に負傷はない。足取りも軽かった。
昼間、遺跡で気を失う前に味わった激痛が、嘘のように消えている。フィリアの治療術と、エーベルの美味い食事のおかげだろうか。どちらにせよ、二人には感謝しなければならない。
レインは呼吸を整え、先ほどの交戦を思い返した。黒髪の女は、拳による近接戦闘。狐の獣人も、蹴りを繰り出してきた。
——では、三人目は?
暗殺組織と聞けば、短剣や毒を使う者が真っ先に思い浮かぶ。もう一人も近接戦闘を得意としているのだろうか。いや、今は考えても仕方がない。どんな相手だろうと、やるべきことは変わらない。全力で逃げるだけだ。
足元に、何かの気配があることに気づく。
「……?」
人ではない。
何と表現すればいいのか分からなかった。禍々しいというほどでもない。ただ、踏み出した先に、何かがある。
——罠か?
着地する寸前、レインは咄嗟に足先をずらした。だが、逃がしたはずの足が、何かに引っ掛かる。
「っ……!」
身体が前へ傾いた。レインは地面に片手をつき、転倒を防いだ。すぐに足を引こうとする。動かない。
「……なんだ?」
視線を落とす。足首を、土の塊が掴んでいた。
——いや、違う。
その物体は、地面から生えた手の形をしていた。五本の指が足首に絡みつき、レインが引いても離れようとしない。
「これって——」
言いかけて、口を閉じる。こんなところで立ち止まっている場合ではない。
レインは足首を捻り、土の指を振りほどこうとした。
その瞬間、背中に重い衝撃が走った。
「ぐっ……!」
身体が前方へ投げ出される。レインは地面に手をつき、肩から転がって勢いを殺した。
石畳の硬さが、外套越しに伝わってくる。そしてすぐに立ち上がった。
足首を掴んでいた土の手は、いつの間にか消えていたことに気づく。レインは短く息を吐き、背後を振り返った。
月明かりの届く路地に、一人の女が立っている。やや背が高く、短く切り揃えた黒髪。
遺跡でフィリアを襲い、つい先ほども拳を交えた女だった。女はゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
「……俺、あんたに何か恨みでも買ったっけ」
レインが尋ねると、女は足を止めた。
「いいえ。恨みはありません」
落ち着いた声だった。
「ですが、ただ、任務のためです」
「……へえ。任務ねぇ」
レインは女の背後へ、ちらりと目を向けた。狐の獣人の姿は見えない。
土の手が何だったのかも、まだ分からなかった。
「でも、三人がかりはずるくないか?」
レインがそう言うと、女はわずかに沈黙した。それから、静かに答える。
「貴方に不利があったことは認めます。ですが結果さえ伴えば、こちらとしては問題がないことです」
「……それも、まあ、そうか」
レインは苦笑した。
相手の言い分はもっともだった。こちらも、逃げるためなら手段を選んでいられない。
女は動かない。レインもまた、その場に立ったまま、彼女を見据えた。
夜風が路地を抜け、二人の外套をかすかに揺らす。
レインは右手を下ろした。指先が、腰に差した短剣の柄に触れた。




