迫る足音
ふと、目が覚めた。
まだ見慣れない天井が、薄闇の向こうに浮かんでいる。
レインは寝台に横たわったまま、しばらく耳を澄ませた。
物音一つしない。エーベルの家は、すっかり寝静まっているらしい。窓から差し込む月明かりが、床に細長い四角形を描いていた。
「……眠れないな」
小さく呟き、掛布を退ける。
身体は軽かった。起きた直後に感じていた怠さも消え、頭は妙にはっきりしている。夕食をたっぷり食べたおかげか、それとも思っていた以上によく眠れたのか。
どちらにせよ、もう一度寝台に潜り込んでも、すぐには眠れそうになかった。
レインは右手を持ち上げた。月明かりの下で、指を開いたり閉じたりしてみる。
変わったところは、何もない。
フィリアの言葉が、頭の中に繰り返し浮かんでくる。
七つの星鍵を集め、星門を開く。世界の均衡を保つ。——世界を救う、なんて。
「……大それた話だよなあ」
レインは右手を下ろした。
遺跡で手にした星鍵は、魔力に近い形で体内に宿っているのだという。あれほどの痛みを伴って継承したのだから、何かしら変化があってもよさそうなものだ。
しかし、力が湧き上がってくるわけでも、魔力が溢れ出すわけでもない。身体を動かしてみても、以前と何ら変わらなかった。
「……肩透かし、だな」
未知の力を手に入れたつもりだったのだが。レインは小さく息を吐いた。
もう、寝つけそうになかった。
寝台を降り、身支度を整える。腰には、ガルドの短剣を差した。街を少し歩くだけなら、これで十分だろう。エーベルを起こさないよう、足音を抑えて部屋を出た。
◇
夜のベルクレストは、昼間とは別の町のようだった。
あれほど賑わっていた通りに、人影はほとんどない。店の扉は閉ざされ、家々の窓からも明かりが消えている。軒先に吊るされた灯りが、石畳をぼんやりと照らしていた。
道端に短く生えた草の周りを、小さな光の粒が漂っている。夜光虫だろう。昼間には目立たなかったその光が、今は足元のあちこちで瞬いていた。
近くの植え込みからは、夜鳴虫の声が聞こえる。葉を擦り合わせるような、細く、途切れがちな合唱だった。
レインは通りを歩きながら、昼間の出来事を思い出した。
冒険者ギルドを出たあと、後をつけてきた三人組。朱鷺色の髪に、やたらと銀の装飾品を身につけた男の顔が浮かぶ。
「……あいつら、どうしたかな」
ほかの若い冒険者を捕まえて、同じことを繰り返していなければいいが。財布から半分ほど抜き取るだけでは、少し足りなかったかもしれない。
まあ、今さら考えても仕方がない。レインは歩みを進めた。
門番や衛兵は、こんな時間でも仕事をしているだろう。夜更けに町の門や関所をうろついて、不審人物として呼び止められるのは面倒だった。そちらへは近づかず、町の中を適当に歩く。
やがて、見覚えのある建物が目に入った。冒険者ギルドだ。大きな扉は閉ざされ、窓にも明かりはない。
「さすがに、もう閉まってるか」
レインは建物の前で足を止めた。特に用事があったわけではない。
この町に来てから、まだ知っている場所も少なかった。ただ、昼間あれほど人の出入りがあった場所が、夜にはどうなっているのか、少し見てみたくなったのだ。
レインは扉を見上げ、それから来た道へ目を向けた。ずいぶん歩いた。そろそろ帰るか。そう思って踵を返したときだった。
——視線。
レインは歩き出しかけた足を、そのまま前へ運んだ。振り返らない。通りのどこかから、一人がこちらを見ている。歩き出しても、視線が離れない。
嫌な予感はした。だが、まだ判断はつかない。レインは通りの先にある路地へ曲がった。
◇
路地へ入ると、レインは駆け出した。背後で足音が速まる。
レインは角を曲がり、細い道を抜け、さらに別の路地へ入った。後ろの足音も、同じように進路を変える。距離が開かない。
「……相手も身軽だな」
小さく呟く。
町へ来たばかりで、道はまだよく知らない。曲がり角を選ぶたびに、その先が抜け道なのか行き止まりなのか、目で確かめる必要があった。
一方、追跡者は迷う様子もなくついてくる。レインは狭い路地を駆け抜けた。そのとき、前方の曲がり角の向こうから、別の足音が聞こえた。
——もう一人、いる。
レインは速度を落とさず、周囲を見た。左右には建物の壁。
先の道は細く、どこへ続いているのか分からない。後ろの一人を避けても、もう一人に進路を塞がれるかもしれない。このまま走り続ければ、挟み撃ちか、行き止まりでの戦闘になる。
狭い場所で戦うのは苦手ではないが、腰にあるのはガルドの短剣だけ。
「……仕方ないか」
レインは後ろの足音へ意識を向けた。まずは、あの身軽な一人をどうにかする。
路地の端に、空の金属缶が転がっていた。レインは駆けた勢いを殺さず、身体を旋回させる。
つま先で金属缶を拾い上げるように蹴った。缶が石畳を離れ、後方へ飛ぶ。
「うわっ!」
追跡者が声を上げた。レインは、その声を目がけて踏み込んだ。
腰からガルドの短剣を抜く。相手を斬るためではない。こちらへ近づかせないための牽制だった。
暗がりに、人影が浮かび上がる。頭には、獣の耳らしいものが見えた。
あと五歩。その瞬間、別の足音がレインのすぐ背後へ迫り、風を切る音が聞こえた。
「——っ!」
咄嗟に身をかわす。
突き出された拳が、頬のすぐ横を掠めた。
レインは踏み込んだ足を軸に身体の向きを変え、拳の持ち主へ向き直る。その顔を目がけ、短剣を斬り上げた。刃が届く前に、相手は身を翻して距離を取る。月光が、その姿を照らした。
やや背の高い、黒髪の女。
レインは目を細めた。見覚えがある。遺跡の奥で、フィリアを襲撃した女だ。
どうして、ここに——。
考える間もなく、横合いから足が伸びてきた。レインは半歩、身を引いた。蹴りは、目で追える速さだった。伸びてきた足首を掴み、その勢いを利用して身体を持ち上げる。
「えっ——?」
獣人の身体が、ふわりと浮いた。軽い。
レインは、そのまま黒髪の女へ投げつけた。
「うわあっ!?」
「……!」
二人の身体がぶつかり、石畳へ倒れ込む。レインは短剣を構えたまま、相手の出方を窺った。
獣人が起き上がり、頭に生えた狐の耳がぴくりと動いた。
「こいつ、強くないか!?」
その軽快な喋り方にも、聞き覚えがあった。
身動きできない黒髪の女が、深いため息をつく。
「……あなたが、手こずっているだけでは?」
「仲間に対して、そういうこと言う!?」
「事実を述べただけなんですが」
「さっきの見てた!? おれ、投げられたんだけど!」
「ええ。見ていましたよ。だから今、私の上に乗っているのでは」
「それは悪かったって!」
二人は、そのまま言い争いを始めた。
レインはしばらく様子を見ていたが、彼女たちがこちらを見ていないことに気づくと、短剣をそっと鞘へ戻した。
足音を抑え、路地の奥へ歩き出す。曲がり角まで来たところで、一度だけ背後を見た。まだ言い争っている。
レインは何も言わず、角を曲がった。そのまま夜の町へ、静かに姿を消した。




