滅びの国の王女
見知らぬ天井があった。
レインはしばらく、それを見上げていた。
淡い色の天井板。壁際から差し込む橙色の光。どこかで、木製の家具が小さく軋む音がした。
身体を動かそうとして、背中が柔らかなものに沈んでいることに気づく。
寝台だ。しかも、ずいぶん寝心地がいい。
「……どこだ、ここ」
上半身を起こすと、掛布が胸元から滑り落ちた。
部屋には、寝台と衣装棚、それに小さな卓が一つあるだけだった。
調度品は少ないが、どれもよく手入れされている。床には埃もなく、窓辺に置かれた水差しまで、きれいに磨かれていた。いわゆる客室、というものだろうか。
窓の外では、建物の屋根が夕陽に照らされていた。どうやら、もう夕刻らしい。
レインは掛布を退け、寝台の端に腰掛けた。足を床につける。身体が少し重い。
最後に覚えているのは、遺跡の奥で手にした鍵と、右腕に巻きついた光。
そのあと、全身を焼かれるような痛みが走って——。
「……ああ、そうだ」
レインは右手を開いてみた。手の中に、鍵はなかった。
腕にも、見える範囲に変わったところはない。
部屋の外から、話し声が聞こえた。
一つはミーナの声。もう一つは、遺跡で出会ったエルフの少女、フィリアのものだ。
ほかに、男の声が二つ。聞き覚えはなかった。
レインは立ち上がり、部屋を出た。
◇
扉の先には、短い廊下が続いていた。
木の床板と白く塗られた壁。開いた窓からは町の生活音が入り込み、外を通る荷車の車輪が、かすかに響いている。
どうやら、町中の民家らしい。レインは話し声のする方へ歩いた。
廊下の奥に扉が一つある。
その取手へ手を伸ばしたところで、扉が先に開いた。
「わっ!」
出てきたミーナと、危うくぶつかりそうになる。
彼女はレインの顔を見るなり、目を丸くした。
「レイン!」
「ああ」
「もう大丈夫なの?」
ミーナの眉が下がる。心配そうな顔だった。
レインは自分の身体を見下ろした。
今のところ、少し怠いだけだ。倒れる前に感じた激しい痛みもない。
「たぶんだけど……寝すぎて、なんか怠い」
ミーナは一度瞬きをした。
「それって、いつものことじゃない?」
「そういえば、そうかもな」
「もう!」
口では呆れたように言いながら、ミーナの表情が少し緩んだ。
「ほら、こっち。みんな待ってるよ」
彼女に促され、レインは扉の向こうへ入った。そこは居間だった。
低い机を挟むように、上質な長椅子が置かれている。棚には食器が並び、窓辺には小さな鉢植えが飾られていた。
長椅子には、フィリアと金色の長髪をした男が、向かい合うように座っている。
もう一人。フィリアの背後に、銀髪の男が立っていた。
顔にはいくつもの傷があり、腕を組んだまま、こちらをじっと見ている。
レインが部屋へ入ると、真っ先にフィリアが立ち上がった。
「レインさん!」
彼女は小走りで近づいてくる。
「お身体は、もう大丈夫なのですか?」
「ちょっと怠いだけで、あとは何ともない」
「そうですか……」
フィリアは胸元へ手を添え、ほっと息をついた。
その後ろから、金髪の男が声を掛けた。
「ひとまず、座ったらどうだい?」
穏やかな声だった。
「いや、俺は別に立ったままでも——」
「駄目!」
ミーナがレインの腕を引いた。
「まだ起きたばっかりでしょ。座って!」
「はいはい」
レインは抵抗するのをやめ、空いている長椅子へ腰を下ろした。
金髪の男は頷いた。
「さて。何から話そうか」
◇
まず、レインが気を失ったあとのことを聞いた。
鍵から放たれた光がレインの身体を包み、彼が倒れたあと、フィリアは《蒼天秘術》という術を使ったらしい。
その後、遺跡へ駆けつけたのが、今ここにいる二人の男だった。
銀髪の男がクロード。金髪の男がエーベル。
どちらも、身に纏う気配は静かだが、どこか奥底が知れない。今のレインにはそんな表現しか思いつかなかった。
二人は、ミカゲと呼ばれていた黒装束の女たちを追撃し、クロードが意識を失ったレインを抱えて遺跡を出たという。
彼らはかなり腕が立つらしい。
「……あんたが運んでくれたのか」
レインがクロードを見る。
「ああ」
「重かっただろ。悪いな」
「……お前くらいなら、問題ない」
クロードは短く答えた。
フィリアが、すかさず口を開く。
「クロード。もう少し、言い方というものが——」
「事実を述べただけです」
「……もう」
フィリアは小さくため息をついた。
レインは二人のやり取りを眺め、それからエーベルへ顔を向けた。
「それで、ここは?」
「僕の家だよ。遺跡から運び出したあと、ひとまず休ませる場所が必要だったからね」
「そっか。世話になったな」
「気にしなくていいよ」
エーベルは気さくに答えた。それから、フィリアへ視線を送る。
「ここからは、君に説明してもらった方がいいだろう」
「……はい」
フィリアは膝の上で両手を重ねた。その表情が、少し改まる。
「レインさん。遺跡で、あの鍵を手にされましたね」
「ああ。そういえば、あれ、どこへ行ったんだ?」
レインは右手を開いてみた。遺跡で握ったはずの鍵は、もうそこにはない。
「星鍵は、今も貴方の中にあります」
「……俺の中?」
「はい。継承を終えた星鍵は、元の形を失い、魔力に近い状態で継承者の体内に宿るのです」
レインは自分の右腕へ目を落とした。
光が皮膚の下へ潜り込み、全身を灼くような痛みが走ったことを思い出す。
「なるほど。あれ、そういうことだったのか」
「はい。貴方は、星鍵の継承者に選ばれたということになります」
「……選ばれた、か」
レインは、その言葉を繰り返した。
——いや。
あの鍵は、問いかけてきた。
血を流しても、奪われても、最後に一人残されても、なお生きることを選ぶのか、と。
そして、自分は答えた。「選ぶ」、と。
「選ばれた」のではなく、自分で「選んだ」。頭の中を過ぎったが口にはしなかった。
今、その話をわざわざ言う必要もない。
フィリアは、言葉を選ぶようにゆっくりと話を続けた。
星鍵は全部で七つあること。
彼女が使った《蒼天秘術》は、星鍵の継承者と深く関わる秘術であること。
そして、自分はその秘術を受け継ぐ、唯一の使い手なのだということ。
「それから……」
フィリアは一度、クロードを見た。
クロードは黙って頷いた。
「私は、かつて存在したアルシェリア王国の王女です」
「……アルシェリア?」
レインは、その名を口の中で繰り返した。聞き覚えがある。
古代から続いた、エルフたちの王国。長い間、ほかの種族を受け入れない閉鎖的な国だったが、ある国王が方針を改め、多様な種族に門戸を開いたという。
その改革は、遠く離れたグランセイルでも話題になったらしい。
もっとも、レインがそれを知ったときには、王国はすでに滅びていた。
幼い頃、王都の通りでエルフを見かけたガルドが、ふと思い出したように話してくれたのだ。
改革を進めた王のことも、その後に帝国との国交が破綻し、アルシェリアが滅亡したことも、すべてガルドの口から聞いた昔話だった。
「ああ……知ってるよ。昔、ガルドから聞いたことがある」
「ガルド……?」
「俺が小さい頃に世話になった人。王都でエルフを見かけたとき、アルシェリアの話をしてくれたんだ」
レインはフィリアへ目を戻した。
「ほかの種族を受け入れるようになったんだろ? それで、グランセイルでも話題になったって」
「はい。それは、父が進めた改革です」
「……父?」
「アルシェリアの、最後の国王でした」
レインは、改めてフィリアを見た。
ガルドが何気なく語っていた、遠い国の王。その娘が、今、目の前に座っている。
「……そうだったのか」
フィリアは小さく頷いた。
レインが知っているのは、遠くの国まで伝わってきた話だけだ。王国がどのような場所だったのかも、そこで何が起きたのかも、詳しくは知らない。
フィリアは膝の上で重ねた手に目を落とし、それから顔を上げた。
「私には、果たさなければならない使命があります」
その声に、レインは姿勢を正した。
フィリアは、星鍵の継承者とともに七つの星鍵を集め、星門を開くことが自分の使命なのだと語り始めた。
星鍵の継承者とともに、七つの星鍵を集めること。
そして、星門を開き、世界の均衡を保つこと。
そこまで説明すると、彼女はレインへまっすぐに向き直った。
「どうか、私に協力していただけませんか」
先ほどよりも、少し硬い声だった。
「残る六つの星鍵を、私とともに探してほしいのです」
レインは、すぐには答えなかった。
世界の均衡。世界の平穏。ずいぶん大それた話だ。
スラムで暮らしていた頃は、世界がどうなろうと知ったことではなかった。
その日を無事に終えて、帰る場所があれば、それでよかった。
レインは隣へ目を向けた。ミーナが、こちらを見ている。
黙って返事を待つ彼女の顔には、少しだけ不安の色があった。
次に、フィリアを見た。彼女はそれ以上、言葉を重ねない。
琥珀色の瞳が、ただまっすぐにこちらへ向けられている。意識しなければ、そのまま目の奥に吸い込まれてしまうのではないか。今までにない妙な感覚だった。
レインは小さく息を吐いた。——そんな目を向けられて、断れるわけないだろ。
それに、星鍵を受け入れると決めたのは、他でもない自分自身だ。
「……分かった」
フィリアが、わずかに身を乗り出す。
「それでは——」
「ああ。協力するよ」
その瞬間、フィリアの表情がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます、レインさん!」
隣では、ミーナも嬉しそうに笑っている。
「よかった!」
「なんでお前まで、そんなに嬉しそうなんだよ」
「だって、フィリアさんと一緒に旅ができるんでしょ?」
「……そうなるな」
レインは、もう一度フィリアを見た。
出会ったばかりだというのに、ミーナはすっかり彼女を気に入ったらしい。
王女と聞いても、妙に偉ぶったところはない。
物腰は柔らかく、誰に対しても丁寧に接する。周囲から大切に守られて育った、育ちのいいお嬢さん。
レインには、そんなふうに思えた。




