継承の選択
暗闇を抜けると、再び石室が現れた。
先ほどの部屋よりも狭く、四方を灰色の石壁に囲まれている。天井は低く、壁に刻まれた古い文様が、わずかな光を受けて浮かび上がっていた。
中央には、腰の高さほどの台座が一つ。それ以外に、目立ったものは見当たらない。
レインは床を蹴って勢いを殺し、抱えていたエルフの少女をそっと下ろした。
「……っと」
少女の足が石床につく。
少し遅れて、ミーナが部屋へ駆け込んできた。
「レイン!」
「ああ。ちゃんと来たな」
レインは片手を上げた。
そのまま何事もなかったように立っていようとしたが、脇腹に鋭い痛みが走った。
「……っ」
思わず身体を折り、痛む場所を押さえる。息を吸おうとすると、また痛む。
「ミーナ。今、正直に言うと……」
「え?」
「……割と。今まで。……感じたことのない痛みがする」
言葉の合間に、ひゅう、と大げさな呼吸音が混じった。
レインの顔から血の気が引いている。
大きく息を吸えば脇腹が痛み、痛みを避けようと呼吸を浅くすれば、今度は息苦しくなった。
「レイン——」
「そのまま、動かないでください」
ミーナの言葉を遮ったのは、エルフの少女だった。
少女はレインのそばへ寄り、手にした杖を彼の脇腹へ向ける。
そして唱えた。
「生命を司る精霊よ。その慈愛をもって、傷つきし者に安らぎを与えたまえ。——≪癒光≫」
杖の先に、淡い緑色の光が灯る。
光は細かな粒となって宙を漂い、やがてレインの脇腹へ集まっていった。薄い布を通り抜け、肌の奥へと染み込んでいく。
冷たい水に触れたような感覚が広がった。
レインは息を止めた。
光の粒が一つ、また一つと消えていく。
最後の光が失われたところで、少女は杖を下ろした。
「……もう、大丈夫だと思います」
レインはしばらく黙っていた。
脇腹に当てた手を、ゆっくりと動かす。擦ってみる。軽く押してみる。
「……あれ?」
何ともない。恐る恐る、深く息を吸い込んだ。痛みは戻ってこなかった。
「……え?」
レインはもう一度、脇腹を押さえた。それでも痛まない。
どうにも信じられず、外套を脱いで、下に着ていた薄布を脇腹までまくり上げる。
「ひゃ……っ」
エルフの少女の方から、奇妙な声が聞こえた。
レインは気にせず、先ほどまで痛んでいた場所を確かめようと、包帯を解く。
目立った傷も、腫れもない。指先で肌を押してみても、痛みはまるでなかった。
「治ってる……?」
「わ、私が治しましたから、治っています」
少女は両手で顔を覆っていた。ただし、指の隙間から、ちらちらとこちらを見ている。
「こんな一瞬で? すごいな、あんた」
「……あ、ありがとうございます」
レインはもう一度脇腹を確かめてから、薄布を下ろした。
外套を羽織り直すと、少女の両手も顔から離れていた。
そこで、ミーナが身を乗り出した。
「もしかして、魔法使いなんですか?」
エルフの少女はミーナへ顔を向け、柔らかく微笑んだ。
「そうですね。かなり近しい存在だと思います。精霊術師——聞いたことはありますか?」
「精霊……」
ミーナは目を丸くした。
「ほんとにいるんですね。童話の中だけの存在だと思ってました」
「ええ。本当に彼らは存在しています」
少女は杖を胸元へ寄せた。
「もちろん、この遺跡の中にも」
「へえ……」
ミーナは石室を見回した。
壁の文様。中央の台座。薄暗い部屋の隅。
しばらく眺めてみたものの、彼女の目に精霊の姿は映らなかったらしい。
ミーナは少し残念そうな顔で、少女へ向き直った。
「そういえば、まだ名前を聞いてませんでしたね」
少女が丁寧に頭を下げた。
「フィリアと申します。先ほどは、本当にありがとうございました」
「俺はレイン。こっちはミーナ」
「よろしくお願いします!」
ミーナが元気よく頭を下げる。
「お二人は、冒険者なのですか?」
「まあ、そんなところかな」
レインが答えると、ミーナは嬉しそうに腰の鞄を探った。
「そうだ! これ!」
取り出したのは、手に入れたばかりの冒険者証だった。
ミーナが差し出すと、フィリアは興味深そうにそれを覗き込む。
「まあ。冒険者証ですね」
「こっちが私ので、こっちがレインの!」
「おい、俺のまで勝手に出すなって」
レインは苦笑しながらも、ミーナの手元に並んだ二枚をフィリアへ見せた。
フィリアは一枚ずつ眺め、小さく頷いた。
続いて、彼女が遺跡を訪れた経緯を話し始めた。町の精霊たちに異変が起きていること。
その気配を追って、この遺跡へ辿り着いたこと。
奥へ進もうとしたところで罠に掛かり、通りかかった女性に助けられたこと。
そして、その女性と一緒に最奥まで来たものの、突然襲われたこと。
「……あの方が、どうしてあんなことをしたのか、私には分かりません」
フィリアは杖を持つ手を見つめた。少しの沈黙が落ちる。
やがて彼女は顔を上げ、レインへ向き直った。
「それから……ごめんなさい」
「ん?」
「私のせいで、怪我を悪化させてしまいました」
フィリアは、もう一度深く頭を下げた。
「いや、気にしなくていいよ。もう治してもらったし」
「ですが……」
フィリアは顔を上げた。
「治せるのだとしても。——痛みは。痛いのは、誰もが嫌なものですから」
レインは口を開きかけた。しかし、返す言葉が見つからなかった。
——気にしなくていいって、言ってるんだけどな……。
少女の表情は、まだ晴れない。
レインは石室を見回した。
「あー……そういえば、この部屋」
フィリアとミーナが顔を向ける。
「出ようと思っても、さっきの部屋に戻るしかないみたいだな」
入口の方を見る。
レインたちが通ってきた開口部は、今は元の石壁へ戻っていた。
部屋の中央に台座があるだけで、ほかに出口らしいものは見当たらない。
「そうですね……」
フィリアも石壁を見つめた。
その間に、ミーナが中央の台座へ歩いていく。
「何だろ、これ」
台座の表面には、浅い窪みがあった。
ミーナは身を屈め、そこに刻まれた文様を眺める。
ふと、何かに気づいたように顔を上げた。
「レイン! この台座の窪み、ちょうど嵌まりそう!」
「ああ、そういえば……忘れてた」
レインは腰の鞄を開いた。中から取り出したのは、小さな古い箱だった。
表面には、台座とよく似た文様が刻まれている。
「それは……?」
フィリアが尋ねた。
「たぶんだけど、かつて、この遺跡から持ち出された物」
レインは小箱を片手に、台座へ近づく。
フィリアも、その後ろを追った。
「待ってください」
「ん?」
「何が起きるか分からないので、危ないと思います」
フィリアは、小箱と台座を交互に見た。
「もし、また罠だったら……」
「……それは、そうだけど」
レインは窪みに視線を落とす。
「このまま、この部屋に閉じ込められてるのも、つまらなくないか?」
「つまらない、ですか……?」
「ああ」
レインは小箱を指先で軽く持ち上げた。
「この部屋に入る前、声が聞こえたんだよ。こっちに来いって」
「声……?」
「俺たちを招き入れた主が、この部屋にいる。なら、そのもてなしを受け入れるのは、客人としてのマナーじゃないか?」
レインはいかにも、もっともらしく言った。
だが本音は別のところにあった。目の前に鍵穴があれば、こじ開けたくなる。形の合う窪みがあれば、そこに何かを嵌め込んでみたくなる。盗賊とは、そんなものだ。
——とはいえ、そう正直に言ったところで、このエルフの少女が納得するとも思えなかった。
フィリアは、しばらく考え込んでいた。
やがて、小さく頷いた。
「たしかに、貴方の仰るとおりかもしれません」
「……え?」
「そうですね。たしかに。本当に。そんな気がしてきました。客人としてのマナーは軽んじてはいけないものです」
——いや、納得するのかい。
レインはフィリアを見た。彼女は真面目な顔で、台座へ視線を向けている。
レインは小さく息を吐き、ミーナを呼んだ。
「じゃあ、行くぞ」
「うん!」
ミーナは台座から一歩退いた。レインは小箱を持ち直し、窪みの上へかざす。
縁に刻まれた文様が、ぴたりと重なった。
そのまま、ゆっくりと嵌め込むと、小さな音がした。
次の瞬間、部屋中の文様が一斉に青白く輝いた。
「わっ……!」
ミーナが声を上げる。
光は石床の溝を走り、壁を這い上がり、天井の文様へと広がっていった。無数の線が石室を巡り、再び中央の台座へ集まってくる。
最後に、すべての光が小箱へと流れ込んだ。
箱の表面に、一筋の光が走った。そこから細い継ぎ目が生まれ、ゆっくりと蓋が持ち上がる。
レインは目を細めた。
箱の中に収められていたのは、一つの鍵だった。掌に収まるほどの長さ。
複雑に枝分かれした歯が、淡い光を帯びている。その輝きは一定ではなく、呼吸するように揺れていた。
レインは右手を伸ばした。鍵を掴み、箱から取り上げる。
背後で、フィリアが息を呑んだ。
「……これが、星鍵」
その声は、ひどく小さかった。
レインは鍵を目の高さまで持ち上げ、複雑な歯の形を眺めた。
そのとき、声が響いた。
『——ようやく、辿り着いた』
「……?」
レインは顔を上げた。
部屋の中を見回す。いるのは、ミーナとフィリアだけだ。
二人とも、こちらを見ている。
『——継ぐ者よ』
再び、声。耳から聞こえてくるのではない。頭の内側へ、直接言葉が落ちてくるようだった。
レインは、手にした鍵を見下ろした。
「……呼んだのは、お前か?」
ミーナとフィリアが顔を見合わせる。
「レイン?」
ミーナが尋ねたが、レインの耳には届かなかった。
『——欠けた器よ。それでもなお、星を望むか』
レインは眉を寄せた。欠けた器。星を望む。どうにも意味が掴めない。
『——汝は、奪われし星を求めるか』
「……聞き方が曖昧すぎるだろ」
思わず、声が出た。
ミーナが一歩、近づこうとする。その腕を、フィリアがそっと制した。
レインは鍵を見つめたまま、次の言葉を待つ。
淡い光が、指の間で揺れていた。
『——血を流しても。奪われても。終わりの果てに、ひとり残されても』
声が続く。
『——汝は、なお生を選ぶか』
レインの指が止まった。それまでの問いとは違う。最後の言葉だけは、はっきりと分かった。
生きるか、死ぬか。この鍵は、そう尋ねている。なぜ、そんなことを聞くのか。
……何のために? 理由も、声の正体も分からない。
ただ、鍵はレインの手の中で静かに光り続けていた。
ふと、過去の記憶が蘇る。
ガルド。ネロ。ミーナの姉、リシェル。失ったものの名を、一つずつ思い浮かべる。
忘れたことはない。あの日、何が起きたのか。自分が何をできず、何を失ったのか。
ときおり記憶を辿り、そのたびに胸を締めつけられた。
忘れてしまえば、あの過ちまでなかったことにしてしまう気がした。
だから、忘れなかった。
自分の力が足りなかった。もっと上手く立ち回れていれば。もっと早く気づいていれば。そんな考えは、今でも消えない。
そしていつしか、失うことが恐ろしくなった。
仲間を。住民を。自分の手が届く場所にいる人々を。
守れるものなら、守りたかった。これまで手の届く限り、そうしてきた。
それはこれからも、きっと変わらない。
レインは手の中の鍵を見つめた。
もし、守れるだけの力があれば。あのとき届かなかった手を、次は届かせられるかもしれない。
たとえ星が終焉を迎えたとしても、たった一人で生き残ろうなどとは思わない。
だが、目の前の鍵には、それを可能にするほどの力があるのかもしれない。
その力を、自分が手にできるのなら。
レインは小さく息を吸った。
「……選ぶよ」
鍵の光が、ひときわ強くなった。
『——ならば、受け取れ』
声が、石室の隅々まで満ちていく。
『——汝が背負う、最初の星を』
音が消えた。ミーナの声も。フィリアの足音も。
天井から落ちる水滴の音さえ、遠ざかっていく。
レインの手の中で、鍵が眩い光を放った。
その光が束となり、右腕へ巻きついてくる。
「……?」
光の帯は、皮膚をすり抜けた。
次の瞬間、腕の内側を灼かれるような痛みが貫いた。
「ぐっ……!」
レインは膝を折りかけた。だが、腕に絡みついた光はほどけない。
皮膚の下を這うように肩へ進み、胸元へと広がっていく。
『——痛みを恐れるな。星を継ぐ者よ』
声が響いた。
『——その身が砕けようとも、鍵は汝を離さない』
「……ッ、あ……‼」
右腕から肩へ。肩から胸へ。光は一気に全身を巡った。身体の奥を、無数の熱い刃が駆け抜けていく。
レインは声にならない叫びを漏らし、床へ崩れ落ちた。
視界の端で、誰かが駆け寄ってくる。淡い蒼色の髪が揺れた。
「レインさん——!」
フィリアの声が、聞こえた気がした。
それを最後に、レインの意識は途絶えた。




