嘘は駄目
フィリアが詠唱を始めるより早く、ミカゲが床を蹴った。
靴底が石を擦る。黒い影が間合いを詰め、振り抜かれた拳がフィリアの顔へ迫った。
「……っ!」
眼前で、鋭い光が弾けた。
拳は届かない。フィリアとミカゲの間に、薄く透き通った防壁が広がっていた。
ミカゲは弾かれた腕を引き、すぐさま構え直す。
その間に、フィリアは杖の先を石床へ向けた。
「大地に宿りし——」
短い詠唱に応じ、ミカゲの背後で石の継ぎ目が盛り上がる。
湿った土と苔を押しのけ、地面から人の手に似たものが伸びた。五本の指が開き、ミカゲの足首へ迫る。
ミカゲは振り返りもせず、足を跳ね上げた。踵が土の指を砕く。続けて踏みつけると、手首から先が崩れ、石床の上へ土塊が散らばった。
「無駄です」
フィリアは杖を握り直した。今度は、床の広い範囲が低く唸る。
先ほどよりも大きな土の手が、ミカゲの背後から立ち上がった。太い指が天井へ向かって開き、その身体ごと掴もうと迫る。
だが、手が閉じるより先に、ミカゲは一歩踏み込んでいた。
拳を腰の位置へ引く。靴底が石床を強く捉え、腰から肩へと力が伝わった。放たれた一撃が、土の手の掌を打ち抜く。
鈍い破裂音とともに亀裂が走った。太い指が折れ、掌が割れ、巨大な手は支えを失って崩れ落ちる。土の破片が石床を跳ねた。
「ま、待ってください!」
フィリアの声が、落下する土塊の音に重なった。
「せめて理由だけでもっ——」
ミカゲは答えない。砕けた土の間を抜け、フィリアへ迫った。
フィリアが杖を持ち上げる。その先がミカゲを捉えるより早く、拳が突き出された。
再び、守護精霊の防壁が二人の間に現れる。青白い光が弾け、拳を押し返した。ミカゲの腕がわずかに揺れる。
しかし、彼女はすぐには退かなかった。もう一撃。防壁が光を散らす。
さらに踏み込み、拳を振るう。先ほどまで腕へ返ってきた衝撃が、打ち込むたびに弱くなっていた。
ミカゲの口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「……なるほど」
初めて相手にする精霊術師だったが、どうやら防壁にも限界があるらしい。
フィリアは杖を胸元へ引き寄せた。
足元で、先ほど砕けた土が再び動き始める。だが、その形が整う前に、ミカゲが距離を詰めた。
フィリアの身体が石床へ傾く。片手が床につき、杖の先が硬い石を叩いた。
ミカゲは彼女を見下ろした。
「一人で行動するとは、浅慮でしたね」
フィリアが顔を上げる。
「このようなことがあると、想像は容易いはずですが。次からは、単独行動を取るのをやめた方がよろしいかと」
ミカゲは、静かに拳を構えた。
「まあ。次があるのかは分かりませんが」
◇
レインたち四人は、古びた石造りの通路を進んでいた。
先頭を歩くレインの手には、一枚の地図がある。
冒険者のトーマから譲り受けたものだ。簡単な通路の形と、確認済みの罠の位置が書き込まれている。
レインは地図と足元を見比べながら歩いた。
印のついた石床を避け、壁際の仕掛けを迂回する。時折、後ろの三人へ足を置く場所を示した。
「そこ、踏まないで」
「分かってるって」
リュカが軽く跳んで、レインの足跡を辿る。
その後ろから、アスターがゆったりと歩いてきた。
「この地図、便利ですね~」
「だろ? 譲ってもらえて助かったよ」
レインは地図を持ち直す。
この先には、一本の長い通路が延びているらしい。やや狭いが、そこを抜ければ広い部屋へ出られる。
地図を折ろうとした、そのとき。レインの手が止まった。
通路の奥から、何かが聞こえた。硬いものを打ちつけるような、鈍い音。
間を置いて、もう一度。微かに人の声も混じっている。
「……?」
レインは顔を上げ、奥へ耳を澄ませた。争っているのだろうか。
そう思った直後、今度は甲高い声が響いた。悲鳴に似ていた。
レインは地図へ素早く視線を落とした。通路の形と罠の位置を確かめ、記憶する。
それから、地図をミーナへ差し出した。
「これ、持ってて」
「え?」
「先に行く」
「えっ、何かあったの?」
答える代わりに、レインは駆け出した。
「ちょっと、レイン!?」
ミーナの声が背後から追いかけてくる。
だが、レインは振り返らず、長い通路を駆け抜けた。
リュカは遠ざかる背中を見送り、ミーナへ顔を向ける。
「どうした?」
「急に、どうしたんだろう……?」
ミーナも通路の奥を見つめた。
◇
通路の先で、視界が大きく開けた。広い石室だった。
高い天井から水滴が落ち、石の継ぎ目には鮮やかな緑色の苔が生えている。
そのやや奥に、二人の女がいた。一人は、髪まで黒い、黒装束の女。もう一人は、蒼い髪をした、白いローブ姿の女だった。
白いローブの女は、床に片手をついている。黒装束の女は、そのすぐ前に立ち、彼女を見下ろしていた。
レインは歩調を落とした。どう見ても、穏やかな話し合いの最中ではない。仲間割れだろうか。
二人の見た目は、ずいぶん対照的だった。もっとも、服装だけで仲間かどうかは分からない。
レインは二人へ歩み寄った。先に気づいたのは、黒装束の女だった。
彼女が顔をこちらへ向ける。わずかに目を見開いたように見えた。
「あー……横槍を入れるつもりはないんだけど——」
「たっ、助けてください!」
細く澄んだ声が、レインの言葉を遮った。
床に手をついた女が、こちらを見上げていた。近づいてみると、長く尖った耳が見える。エルフだ。
黒装束の女の雰囲気が、変わった。レインはそれを感じ取るより先に、腰の短剣へ手を伸ばしていた。柄を握る。湾曲した刃を鞘から引き抜き、逆手に構えた。
相手の手には、硬い手甲がある。細身の身体。わずかに開いた足。こちらへ顔を向けたまま、少しも動こうとしない。
レインは歩を進めた。女との距離は、まだある。
正面から突っ込めば、あの拳をまともに受けることになるだろう。
ならば、背後へ回る。レインは斜めに踏み出し、女の視線から外れるように走った。
天井から、一滴の水が落ちる。石床で小さく弾けた、その瞬間。レインは地面を蹴った。
黒装束の女が身体を向ける。真正面から迎え撃つつもりらしい。
レインは、そこへは入らなかった。身を低くし、女の側面へ滑り込む。逆手に握った短剣を、脇腹へ向けて突き入れた。
鋭い金属音が響く。刃先を止めたのは、右手の手甲だった。その向こうで、女の肩が動く。
反対側から拳が来た。レインは頭を引き、身体を捻る。
拳が、頬のすぐそばを通り過ぎた。風が髪を乱す。
続けざまに、二撃目。レインは一歩退き、短剣を返した。手甲と刃がぶつかる。
鈍い衝撃が柄から手首へ伝わった。女は間を与えず踏み込んでくる。
短剣の方が、手甲よりも遠くまで届く。だが、女の拳は速かった。振り抜かれてから避けようとしていては、間に合わない。
レインは女の肩と足の動きに目を据え、拳が伸びるより先に身をずらした。正面を外れる。女が向き直る。その動きに合わせ、今度は逆側へ回り込む。
湾曲した刃が黒い衣服を掠めた。女の拳が追ってくる。レインは身を沈め、石床すれすれの位置から短剣を突き上げた。またしても、手甲に弾かれる。
「……っ」
女が一歩、踏み込んだ。
レインは後ろへ跳んだが、着地した途端、脇腹に痛みが走った。小さく息を詰める。動くほど、痛みが増している。
女はすぐに距離を詰め、連撃を繰り出してきた。
一撃を躱す。二撃目を短剣で受け流す。三撃目が肩先を掠めた。このまま避け続けても、先に動けなくなるのはこちらだ。
レインは短剣を握り直した。多少の傷は覚悟するしかない。女の次の一撃を引きつけ、その懐へ踏み込もうとした。
そのときだった。黒装束の女が、ふいに手を止めた。
「……?」
レインが目を上げる。
女は地面を蹴り、二人の間に距離を作った。
「これぐらいで、いいでしょう」
そう告げると、くるりと背を向けた。
レインは短剣を構えたまま、その背中を見送った。黒装束の女は、一度も振り返らずに石室を出ていく。
ちょうど入口へ辿り着いたミーナたちの横を、何事もなかったかのように通り過ぎていった。
誰も、すぐには口を開かなかった。やがて、レインは短剣を下ろした。
「……ふぅ」
息を吐き、空いた手を脇腹へ当てる。
触れたところに痛みはある。深く息を吸うと、少し奥まで響いた。
「レイン!」
ミーナが駆け寄ってくる。
「大丈夫!?」
「少し休めば大丈夫だろ、たぶん」
「たぶんって……」
ミーナは眉を寄せた。
レインの額には汗が浮かんでいる。呼吸も心なしかいつもより乱れている。
すると、白いローブの女が駆け寄ってきた。
「あの……!」
女はレインの前で立ち止まり、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。本当に、助かりました」
「いや、まあ……無事でよかったよ」
女は頭を下げたまま、顔を上げない。レインは少し待った。まだ上げない。どうしたものかとミーナへ目を向ける。ミーナも、困ったように女を見ていた。
レインはもう一度、女へ視線を戻した。白いローブの肩が、小さく震えている。
「……もう、大丈夫だから」
そう声を掛けても、女はすぐには動かなかった。レインは返す言葉を探しながら、入口の方へ目を向けた。
そこには、リュカとアスターが立っていた。先ほど出ていった黒装束の女。そして、この二人。
レインはリュカへ顔を向けた。
「なあ。さっきの女は、あんたたちの仲間じゃないのか?」
「ち、違うに決まってるだろ!」
リュカの耳が跳ねた。
「あんな物騒な女、知り合いにいるわけないって~!」
「ふうん……」
レインは、今度はアスターを見る。
「って言ってるけど、嘘じゃないんだよな?」
「嘘……?」
アスターはゆっくり瞬きをした。
「嘘をつくのは、駄目だと思います」
「……ん?」
話が噛み合っていない気がした。
隣では、リュカが慌ただしく尻尾を揺らしている。
「ばっ、馬鹿! 嘘なわけないだろ!」
リュカが声を張り上げた。
「あんな女、仲間にいたら、とっくの昔に殺されてるよ! おれたちが!」
アスターが首を傾げる。
「ミカゲは、そんなことしません」
しん、と石室が静まり返った。天井から落ちた水滴が、石床を叩いた。
レインはアスターを見た。
「……ミカゲって?」
アスターが口を開きかける。そのとき。
「リュカ! アスター!」
鋭い声が、入口から響いた。
振り返る。
そこには、先ほど立ち去ったはずの黒装束の女がいた。
「その男を捕らえなさい!」
女が駆け出す。
レインは、思わず自分を指さしかけた。
——え、なんで俺?
リュカの耳がぴんと立つ。アスターも、入口へ顔を向けた。
レインは短剣を握り直す。その瞬間。
『——継ぐ者よ』
声が、聞こえた。近くでも、遠くでもない。
冷たい石室の空気を通り抜け、耳の奥へ直接触れてくるような声だった。
『こちらに来い』
レインは振り返った。石室の奥。行き止まりに見えていた、大きな石の壁。
そこに、黒い隙間が生じていた。重い石が音もなく左右へ退き、その向こうに暗い空間が口を開けている。
——いつの間に。考える間にも、背後から足音が迫った。
「ミーナ! こっちだ!」
レインは、傍らのエルフへ手を伸ばした。
「えっ——?」
驚く彼女の身体を抱え上げ、開いた石壁へ向かって駆け出す。
「レイン!?」
ミーナの声が追いかけてくる。
レインは振り返らなかった。暗い空間へ、身を躍らせた。




