背く拳
互いに名と職業を明かした二人は、遺跡のさらに奥へと足を進めていた。
ミカゲは拳闘士。フィリアは精霊術師。
簡単な自己紹介を終えたあとは、ミカゲが先導する形で探索が続いている。
通路は奥へ進むにつれて狭くなり、ところどころで天井が低くなっていた。石壁には細かな亀裂が走り、その隙間から伸びた木の根が、石材を押し広げるように這っている。
先を歩くミカゲが、ふと足を止めた。
「少しお待ちください」
フィリアが頷くのを確認すると、ミカゲは通路の先へ視線を向けた。
床に並ぶ石材は、どれも同じ大きさに切り揃えられている。踏みつけられた跡も、削られた形跡もない。
だが、今までの経験から、この遺跡に見た目だけで判断できるほど親切な仕掛けがないことは、十分に理解していた。
ミカゲが一歩踏み出すと、足元で微かな音が鳴った。
次の瞬間、通路の両側から鋭い石の槍が突き出した。
ミカゲは即座に地面を蹴り、身を翻す。槍の穂先が衣服の端を掠め、その背後で重い石同士が衝突する音が響いた。
着地と同時に、後方のフィリアへ手を向ける。
「そこは踏まないようにしてください」
「は、はい」
フィリアは慎重に頷いた。
ミカゲが踏んだ石床を避け、壁際へと足を運ぶ。
長い髪が肩から滑り落ちないよう片手で押さえながら、裾をわずかに持ち上げる。そして、足元を確かめるように、一歩ずつ進んでいった。
その歩き方には、妙な上品さがあった。危険な遺跡の中だというのに、荒々しい動作が少しも見られない。
ミカゲは通路の先で足を止め、彼女が追いついてくるのを待った。
「……ありがとうございます」
「いえ。先へ進みましょう」
フィリアが隣へ並んだところで、ミカゲは再び歩き始める。
それからも、似たようなことが何度か繰り返された。
突然沈み込む床。頭上から落下する石塊。何の前触れもなく壁から飛び出す刃。
ミカゲにも、そのすべてを事前に見抜くことはできなかった。
しかし、罠が作動するたびに素早く反応し、最小限の動作で躱していく。
フィリアは、その背中を追いながら、同じ場所を踏まないよう慎重に進んだ。
時折、ミカゲが足を止める。フィリアが追いつく。
そしてまた、二人は歩き始める。その繰り返しだった。
やがて、二人の前に大きな空間が現れた。
◇
通路を抜けた先には、それまでとは比較にならないほど広い石室があった。
天井は高く、壁面から幾本もの太い石柱が伸びている。
足元には、規則正しく切り揃えられた石材が敷き詰められ、その継ぎ目には鮮やかな緑色の苔が生えていた。
石柱の根元には、ところどころ細い木の根が露出している。
遺跡の上に広がる森林から染み込んだ水が、長い年月をかけて石材を湿らせているのだろう。
天井から、ぽたり、と水滴が落ちた。澄んだ水が石床に弾け、湿った苔の上へ小さな飛沫を散らす。その音は、広い室内へ静かに響き渡った。
ミカゲは室内を見渡しながら、ゆっくりと歩を進める。
苔に覆われた床には、微かに湿り気があった。長く人が足を踏み入れていないのか、乱れた形跡は見当たらない。
部屋の奥に、ひときわ大きな石の壁があった。周囲の石材とは異なり、長方形の縁取りが施されている。まるで、巨大な扉を模したかのような造りだった。
ミカゲは近づき、その表面を調べ始めた。
石の継ぎ目は見当たらない。取手も、鍵穴もない。壁の周囲に仕掛けられた解除装置らしきものも、確認できなかった。
拳で軽く叩いてみる。硬い石の感触が、手甲越しに伝わってきた。叩いた音は重く、奥に空洞があるのかどうかさえ判然としない。
周囲を調べても、壁を動かすための仕掛けは見つからなかった。少なくとも、人の力でこじ開けられるような造りではない。
「どうやら行き止まりのようですね」
ミカゲは石壁を見つめたまま言った。
しかし、返事はなかった。
振り返ると、フィリアは部屋の中央で、落ち着きなく辺りを見回していた。何かを探すように視線を巡らせ、石柱の裏へ回り込み、また戻ってくる。
やがて、大きな石壁の前へと歩み寄った。
「……あの」
フィリアは石壁を見上げ、小さく声を掛けた。
返事はない。
今度は片手を伸ばし、指先を石の表面へ添えた。淡い緑色の光が、彼女の手元に集まっていく。
風の精霊術。微かな風が石壁の表面を撫で、苔の葉先を揺らした。だが、それだけだった。
続いて、土の精霊術を試みる。石壁の周囲に小さな光が浮かび、規則的に並んだ石床へと吸い込まれていく。しかし、壁が動く気配はない。
フィリアは手を下ろした。今度は、傍らに寄り添う守護精霊へ何事かを尋ねる。
しばらく、その返答を待つように黙っていたが、やがて小さく首を横に振った。
「……ふぅ」
口元から、控えめなため息が漏れる。フィリアは石壁を見上げたまま、困ったように呟いた。
「おかしいですね……まだ奥があるはずなのですが」
その言葉に、ミカゲが反応した。
「貴女は奥に何があるのか、知っているのですか?」
「はい」
フィリアは頷いた。
「星鍵と呼ばれる古代の遺物が、この奥に眠っている、と」
——星鍵。
ミカゲは、その言葉を聞き逃さなかった。やはり、このエルフの女は当たりだった。古代エルフの王族の血を引く者。そして、秘術の使い手。
セレナから聞かされていた情報と、目の前の女の特徴は一致している。その人物が、こんな危険な遺跡に姿を現した。しかも、たった一人で。
ミカゲはフィリアの横顔へ視線を向けた。
「町の中の精霊たちに異変が起きていることには、今日、気づきました」
フィリアは石壁を見つめながら続ける。
「昨日までは、異常などなかったはずです。ですから、今日、この遺跡を訪れれば、星鍵を手に入れられると思ったのですが……」
言葉の終わりとともに、彼女の眉尻が下がった。口元へ片手を添え、思案するように首を傾げる。
ミカゲは、その様子を横目に眺めていた。ふと、一つ気になったことがあった。
「そういえば貴女は、お一人なのですね」
「……え?」
フィリアが顔を向ける。
王族の血を引く者が、終始一人で行動しているとは考えにくい。
今は単独で探索しているようだが、もともと同行者がいたのではないか。
「旅のお連れの方はいらっしゃらないのですか?」
「……彼は、所用があると言って、先に出ていきました」
フィリアは、少し言いにくそうに答えた。
「では、勝手にここへ?」
「……っ」
彼女の肩が、わずかに揺れた。
「許可がないのは確かですが、勝手、と言われると……」
フィリアは視線を泳がせる。
「違うはず……です……」
言葉が進むにつれて、声は次第に小さくなっていった。ついには足元へ視線を落とし、黙り込んでしまう。
ミカゲは何も言わず、その様子を眺めていた。
しばらくして。
「……しかし」
フィリアが顔を上げた。
「問題はありません」
「問題は、ないのですか?」
「はい」
今度は、はっきりと頷いた。
「確かに罠には掛かってしまいましたが、情報通り魔物もおらず、怪我は一つもしていませんから」
先ほどまでの弱々しい声は、どこへ消えたのか。フィリアは背筋を伸ばし、自信に満ちた様子で言葉を続けた。
「クロードに怒られることは避けられないでしょうが、大事には至っていません。だから、何一つ、問題はないことなのです」
「……なるほど」
ミカゲは短く相槌を打った。
問題がないと言い切るには、いささか無理がある状況だった。
現に、彼女は石格子に閉じ込められていたのだ。もっとも、本人はすでに、そのことを大した問題とは考えていないらしい。
「クロード、と言うのは?」
「まあ。ごめんなさい、私の護衛のことです」
フィリアは口元へ片手を添えた。
「少し過保護なところもあるのですが、優秀な護衛なんです」
「それは、羨ましいことです」
ミカゲは微かに笑みを浮かべた。もっとも、それは愛想笑いに過ぎなかった。
「ち、違うんです」
フィリアが慌てたように両手を振った。
「自慢しようと思って言った訳ではなく……」
「ええ。分かっていますよ」
「本当ですか?」
「もちろんです」
ミカゲは穏やかに答えた。
フィリアはほっとしたように胸元へ手を添え、小さく息を吐いた。
その傍らで、ミカゲは再び石壁へ目を向ける。扉らしきものはある。しかし、開く気配はない。
ただ待っていれば開くというものでもないだろう。何より、ここに長く留まることには別の危険があった。
——護衛。
フィリアの話が事実なら、遅かれ早かれ、この場所へ彼女を探しに来るかもしれない。
古代エルフの王族に仕える護衛。当然、相応の実力を持っていると考えるべきだ。
その人物が、見知らぬ女と行動を共にするフィリアを発見すれば、こちらの素性を疑う可能性がある。
最悪の場合、黒月の人間だと察しがつくかもしれない。戦闘になったとしても、対抗手段はある。
だが、任務とは無関係な場所で、余計な騒ぎを起こすことは避けたかった。
——血を流してはいけません。
セレナの言葉が、脳裏をよぎる。
今回の任務は、星鍵の継承を見届け、その継承者を生きたまま確保すること。未来視に現れたのは、赤髪の青年だった。
しかし、ここまで進んでも、その青年は現れていない。星鍵も見つからず、目の前には開かない石壁があるばかり。
——どこかで、選択を間違えたのでしょうか。
ミカゲは、ここへ至るまでの行動を振り返った。
最初に思い浮かんだのは、石格子に閉じ込められていたフィリアの姿だった。あのとき、彼女を助けなければ。自分が彼女を解放したことで、本来とは異なる出来事が生じたのではないか。
あるいは。遺跡の途中に残してきた、リュカとアスタルテ。二人を待たず、先へ進んでしまったことが原因なのかもしれない。三人で行動していれば、赤髪の青年と遭遇する機会があったのではないか。
どちらか一方か。それとも、両方か。
セレナは言っていた。未来視で視えるものは、必ず訪れる未来ではない。
その時点で実現する可能性が高い未来であり、そこへ至るまでの選択によって、結果は変わり得るのだと。
ならばどこかで、違う分岐を選んでしまったのかもしれない。
ミカゲは、石壁の前に立つフィリアへ視線を移した。古代エルフの王族の血を引く、秘術の使い手。今回の任務における標的ではない。
だが、星鍵について何らかの情報を持っていることは、彼女自身の発言からも明らかだった。
ここで何の成果もなく帰還することだけは、避けたい。黒月におけるセレナの立場にも関わる。
現場での判断を任されているのは、アスタルテでもリュカでもない。部隊長である自分だ。
ミカゲは、もう一度石壁を見つめた。待ち続けたところで、扉が開く保証はない。
護衛がやって来れば、フィリアを連れて帰る機会さえ失うかもしれない。
ふと、一つの考えが浮かんだ。
——そうだ。この女を、攫ってしまえば。
ミカゲはフィリアの横顔を見た。継承者は現れなかった。しかし、目の前には古代エルフの血を引く秘術の使い手がいる。
星鍵を求め、この遺跡を訪れた人物だ。彼女を確保しておけば、利用できるかもしれない。
あるいは、継承者を手に入れるための手掛かりにもなるだろう。それならば、何も得ずに引き返すよりは、はるかにましだ。
ミカゲは静かに息を整えた。
——決めました。
フィリアへ向き直る。その華奢な身体へ、拳を叩き込むことには抵抗があった。
ミカゲの拳は、相手を容易に傷つける。不用意に力を込めれば、取り返しのつかないことにもなりかねない。
狙うなら、首筋。意識を奪うために必要なだけの、一撃で済ませる。時間は掛けない。抵抗する隙も与えない。
ミカゲは、ゆっくりと歩き始めた。
石壁へ向き直っていたフィリアが、その足音に気づく。
「……ミカゲ、さん?」
フィリアが振り返った。近づいてくるミカゲを見て、わずかに身を引く。
ミカゲは答えなかった。
一歩。また一歩。フィリアとの距離を詰める。
無駄な抵抗はさせない。時間を掛けず、正確に捉える。自分なら、できる。
ミカゲは呼吸を整え、拳を握った。
そして。間合いに入った瞬間、床を蹴った。
——一撃。
拳がフィリアの細い首筋へと伸びる、その刹那。
何かが弾けた。激しい光が、ミカゲの視界を真っ白に染め上げる。
「……っ!」
伸ばした腕に、凄まじい衝撃が走った。拳が、届かない。
光の中で身体を押し返され、ミカゲは反射的に地面を蹴った。後方へ跳び退き、着地と同時に拳を構える。石床を擦る靴底の音が、室内に鋭く響いた。
やがて、白く染まった視界が徐々に戻ってくる。
目の前には、先ほどと変わらず、エルフの女が立っていた。しかし、その手には杖が握られていた。フィリアは両手で杖を構え、ミカゲを見つめている。
その琥珀色の瞳が、微かに揺れていた。
「どう、して……ですか……!」
細く澄んだ声が、広い石室に響き渡る。その声は、震えていた。
ミカゲは拳を構えたまま、彼女を見据えた。先ほどまで浮かべていた愛想笑いは、もうない。
「答えるつもりは、ありません」
冷たい声が、二人の間に落ちた。




