解除可能
薄暗い部屋の中央で、七枚の星札が宙に浮かんでいた。
窓は厚いカーテンで覆われ、昼間だというのに室内は夜のように暗い。わずかな明かりは、机の上に置かれた紫色の燭台と、ゆっくり回転する星札が放つ淡い光だけだった。
その下に、セレナ・ノクスは静かに座っている。緩く波打つ紫色の髪。赤みを帯びた褐色の肌。指先で細い銀糸を操るたび、宙に浮かんだ札の位置が入れ替わっていく。
机を挟んだ反対側には、三人の女が立っていた。
中央にいるのは、黒髪を短く切り揃えたミカゲ。
無駄のない細身の身体は、服の上からでも鍛えられていることが分かる。姿勢は真っすぐで、セレナが星札を読み終えるまで、微動だにしなかった。
右側には、小柄な狐の獣人——リュカ。
ぼさぼさの金髪を後ろで一本にまとめ、頭頂部から伸びた耳を忙しなく動かしている。ふさふさとした尻尾も、退屈そうに左右へ揺れていた。
左側には、桜色の髪を緩い三つ編みにしたハーフエルフ、アスタルテ。
仲間からは、アスターと呼ばれている。これから危険な任務へ向かうというのに、彼女だけは眠たげな目をしていた。
星札の一枚が、青白い光を放つ。その表面には、ぼんやりと人影が浮かんでいた。
鮮やかな赤い髪だけが、周囲の暗がりの中で妙にはっきりと見えていた。
「赤髪の青年」
セレナが穏やかな声で告げた。
「今回、私が視た未来に現れた人物です」
「そいつが今回の標的か?」
リュカが尋ねる。
「その可能性が高いと考えています」
セレナは星札へ視線を戻した。
「この青年は、古代遺跡の奥で星鍵を継承する可能性があります」
「可能性、ですか」
ミカゲが静かに聞き返した。
「ええ。未来視で視えるものは、必ず訪れる未来ではありません。あくまで、その時点で実現する可能性が高い未来です」
セレナの指が動き、青年の姿が浮かぶ星札の位置が変わった。
「誰かが異なる選択をすれば、そこから先の未来も変わることがあります。些細な行動が、思いがけない分岐を生むこともあるでしょう」
「じゃあ、その赤髪の奴が継承者になるとは限らないってこと?」
「そうですね」
セレナは頷き、星札を指先でなぞった。
「遺跡で特徴の一致する人物を発見したら、優先的に監視してください。ただし、見つけたからといって、すぐに拘束してはいけません」
「どうして?」
リュカの耳が、ぴくりと動く。
「今回の最終目標は、星鍵の継承を確認した後、その継承者の身柄を確保することです」
セレナは顔を上げ、三人を順に見渡した。
「継承が始まる前に対象を拘束してしまえば、私が視た未来とは異なる結果を招くかもしれません」
「なるほどねぇ」
リュカは腕を組んだ。
「じゃあ、そいつを見つけても、しばらくは放っておけってことか」
「必要に応じて接触しても構いません。ですが、継承の機会を奪うような行動は控えてください」
ミカゲが短く頷き、尋ねる。
「生死は?」
「必ず生かしたまま連れ帰って」
セレナの指が動き、別の星札が裏返る。
青白い光と崩れ落ちる石の天井。何かを縛りつける光の鎖。その奥に、銀髪の男が立っている。男の手には、炎のような輝きを帯びた銃が握られていた。
「同行者がいた場合も、危害を加えてはいけません。任務を妨害されたとしても、無力化までに留めなさい」
「一般人かもしれないから?」
リュカが首を傾げる。
「それもあります」
セレナは微笑んだ。
「必要のない血を流せば、それだけ未来が濁るもの」
「面倒な条件だねぇ」
「できないかしら?」
声は優しい。
だが、その笑みの奥にあるものを、リュカは読み取れなかった。狐耳がぴくりと動く。
「できないとは言ってないよ」
「青年が持っている小箱も、可能なら回収してください。ただし、箱よりも青年の身柄を優先すること」
ミカゲが短く頷いた。
「標的の確保を最優先。同行者は非殺傷。所持品の回収は、可能な範囲で」
「ええ」
「遺跡については何か」
「生きた罠が、今も残っています」
宙を漂っていた星札が、突然ばらばらに散った。セレナの紫色の瞳が、わずかに細められる。
「石の雨。閉ざされる道。青白い鎖……そして、銀髪の男」
「まーた、ずいぶん曖昧だなぁ」
リュカが頭の後ろで両手を組む。
「遺跡なんて、だいたい石だらけじゃない?」
「未来は、都合よく順番に並んではくれないの」
「その銀髪の男が敵なの~?」
アスターが、のんびりと尋ねた。
「分かりません」
「じゃあ味方かも?」
「少なくとも、あなたたちの味方ではないでしょうね」
「それは残念ですね~」
まったく残念そうではない声だった。セレナは、彼女へ視線を向ける。
「アスター」
「はい」
「光るものには、特に気をつけて」
アスターがゆっくり瞬きをした。
「遺跡で光るものを全部避けていたら、暗くて歩けなくなりませんか~?」
「そういうところを心配しているのよ」
リュカが吹き出した。ミカゲだけは笑わず、腰に差した短剣の位置を確かめている。
「出発します」
「気をつけて」
三人が背を向ける。
扉が閉まる直前、セレナはもう一度だけ呼び止めた。
「ミカゲ」
黒髪の女が振り返る。
「何でしょう」
「深追いはしないこと」
ミカゲは、ほんの一瞬だけ黙った。
「努力します」
それが、彼女なりの正直な返事だった。
◇
遺跡の奥へ進むほど、空気は冷えていった。外から差し込んでいた光は、とうに消えている。
代わりに壁面へ等間隔に埋め込まれた青白い魔石が、細い通路をぼんやりと照らしていた。石壁には無数の亀裂が走り、その隙間から伸びた細い根が、古びた石材を締めつけるように這っている。
人の手を離れて、どれほどの年月が流れたのか。それでも、この場所は死んではいない。
ミカゲは足を止めた。視線だけを、足元へ落とす。一見すれば何の変哲もない石床だった。だが、ほんのわずかに——一枚だけ、沈みが浅い。
「……」
ミカゲは無言のまま、その石を跨いだ。直後、背後でカチリ、と小さな音がした。
石壁の隙間から、黒ずんだ矢が数本飛び出す。だが、その頃にはもう、ミカゲの身体は射線の外にあった。
矢は反対側の壁へ突き刺さり、乾いた音を残す。彼女は振り返りもしない。
そのまま歩く。
数歩進んだところで、今度は天井から細かな砂が落ちてきた。ミカゲが横へ跳ぶ。
次の瞬間、先ほどまで彼女が立っていた場所へ巨大な石柱が落下した。
轟音。床が揺れ、古い埃が舞い上がる。
ミカゲは片腕で鼻元を覆いながら、細く息を吐いた。
「性格の悪い遺跡ですね」
独り言を残し、また進む。
罠そのものが特別精巧というわけではない。問題は、その配置だった。
床、壁、天井。視覚で判断できるものだけではない。魔力に反応するもの。重量に反応するもの。
さらには、一定の場所を通過したあと、数秒遅れて発動するものまで混ざっている。
規則性がない。まるで侵入者の癖を読み、それを嘲笑うために造られたようだった。
——もっとも。
ミカゲにとって、その程度は大した障害ではない。
彼女は足を止める。通路の先に淡い魔石の光を受けて、灰色の何かが横切っていた。
石の格子だった。天井から落ちた格子が通路を完全に塞いでいる。そして、その向こう側に人影があった。
いや。耳を見れば、人ではない。長く尖った耳と淡い水色の髪。細身の身体にまとった旅装は、埃に汚れてこそいるものの、布地も縫製も上質だった。
向こうもミカゲの存在に気づいたらしい。琥珀色の瞳がこちらを向く。
ミカゲは格子へ近づきながら言った。
「動かない方がいいですよ。何が起こるか分かりませんから」
女は小さく息を呑んだあと、頷いた。
「わかっています。……もしかして、解除できるのですか?」
「ええ。少し時間が掛かりますが、解除可能です」
ミカゲは腰の袋を開いた。
中から取り出したのは、掌に収まるほどの小さな円盤だった。
薄い金属板を何枚も重ね合わせたような形状をしており、その表面には細かな魔術文字が隙間なく刻まれている。中央には、淡く光る小さな魔石。
ミカゲは石格子の脇にしゃがみ込み、壁面へ円盤を押し当てた。
低い駆動音が鳴る。そして、円盤に刻まれた文字が、外側から順に青白く輝き始める。
古代術式を読み取り、構造を解析しているのだろう。
やがて光が中央へ集まった。二十秒ほど経った頃、壁の奥から何かが外れる音がした。
続いて、石格子がゆっくりと持ち上がっていく。
ゴゴゴゴ、と低い音が通路に響いた。
十分な高さまで格子が上がったところで、エルフの女が慎重にその下をくぐる。そして、ミカゲの前へ出た。
近くで見ると、その印象はいっそう強くなった。
——やはり、ただの旅人ではない。
姿勢や言葉遣い、身に纏う衣服。そして何より、接するときの所作。
このエルフの女は貴族か。いいや、それよりさらに上だろう。
ミカゲはわずかに目を細めた。
遺跡で閉じ込められているだけの冒険者なら、わざわざ助ける理由はなかった。そのまま通り過ぎるつもりだった。
だが、このエルフの女には——利用価値がある。
そんなミカゲの内心など知らず、女は丁寧に頭を下げた。
「助けてくださり、ありがとうございました。このお礼は、必ずさせてください」
「大したことはしていません」
ミカゲは淡々と答えた。手元を見る。
役目を終えた円盤には細かな亀裂が走っていた。端から少しずつ崩れ、灰色の粉となって床へ落ちていく。
「手持ちの解除装置の数が、一つ減っただけです」
そう言って、ミカゲは腰の袋を開いてみせた。中には、同じ形の解除装置がぎっしりと二十個ほど詰まっている。
エルフの女が目を丸くした。
「まあ。そんなにたくさん」
「ええ。ですので、気になさらないで結構ですよ」
「それでも」
エルフの女は微笑んだ。
「助けていただいたことに、お礼をさせてください」
ミカゲはしばらく彼女を見た。断ったところで、引き下がらないだろう。
「……それで貴女の気が、済むのであれば。 私はどちらでも構いません」
「稀有な方なのですね」
「……」
ミカゲは目を逸らした。なぜか、その笑顔を正面から見続ける気になれなかった。
短い沈黙が流れる。それを打ち切るように、ミカゲは尋ねる。
「それはそうと、どうしてこの遺跡に?」
「今日になって、町の精霊たちに異変が起きていることに気づいたのです」
エルフの女の表情から、先ほどまでの柔らかな笑みが少し消えた。
「昨日までは、何も変わった様子はなかったはずなのですが……この辺りの精霊たちが、何かに怯えているような、ひどく落ち着かない様子で」
彼女は遺跡の奥へ目を向ける。
「その気配を追っていくうちに、この場所へ辿り着きました」
「なるほど」
「貴女は?」
「任務のためです」
ミカゲの答えは短かった。それ以上説明するつもりはない。
エルフの女は一瞬、何かを考えるように黙った。
フィリアは思った。
——任務。つまり、この女性には指示を出している者がいる。遺跡そのものが任務地点だというなら、目的は探索か。あるいは、遺物の回収か。
もしかすると、珍しい古代遺物を集める収集家の依頼なのかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。だが、今はそれより重要なことがあった。
そして、フィリアにとって、この遺跡を訪れるのは初めてだった。
一度罠に掛かった。精霊の異変もまだ解決していない。だが、このまま引き返すという選択肢はない。そして幸運にも、目の前のこの女性なら、この遺跡の罠を解除できる。
フィリアは意を決した。
「最奥まで、ご同行をお願いしても、よろしいでしょうか?」
ミカゲは少しだけ考える。目的地は同じ方向、断る理由もない。
「そうですね。こちらとしても、特に問題はありません」
そして踵を返す。
「一緒に行きましょう」
「ありがとうございます」
二人の足音が、再び遺跡の奥へ消えていった。




