精霊たちの訴え
同じ頃、門前町ベルクレストにて。町の中央から少し離れた、静かな通り。
一般の冒険者が利用する場所よりも上等な旅宿で、フィリアは遅い朝食を取っていた。磨き上げられた木の床と白い布が掛けられた食卓がある。客室へ続く階段の前には宿の従業員が立ち、出入りする者へ目を配っている。宿泊料は少々高い。
その分、清潔さと警備の確かさは申し分なかった。フィリアの前には、柔らかな白いパンと野菜のスープ、切り分けられた果物が並んでいる。
向かい側の椅子は空いていた。その椅子の後ろに、一人の男が立っている。淡い光が映る銀髪、顔に残る複数の傷。長い外套の下には、二丁の魔導拳銃が隠されていた。
「クロード」
フィリアは、手にしていたパンを皿へ戻した。
「何でしょうか」
「座ってください」
「護衛中です」
「ここは王宮ではありません」
フィリアは向かいの椅子を指す。
「それに、宿の食堂で一人だけ立っているほうが目立ちます」
「問題ありません」
「私が、問題だと言っているのです」
クロードは答えなかった。フィリアは椅子を、もう一度指さした。
「同じ席で食事をしてもよいと、何度言えば分かるのですか?」
「立場は場所によって変わるものではありません」
「|私が、許可しています」
「フィリア様が許しても、私が良しとしません」
いつものやり取りだった。フィリアは小さく息を吐き、スープへ視線を戻した。
「頑固ですね」
「それは、すでに承知しています」
「直すつもりは?」
「ありません」
「そうですか」
返事が早すぎる。フィリアは少しだけ頬を膨らませた。クロードは見て見ぬふりをしている。
そのとき、開いた窓の外から羽音が聞こえた。一羽の伝書鳩が、窓枠へ降り立つ。脚には、小さく巻かれた紙が結ばれていた。
クロードの表情が変わった。ほんのわずかに目を細めただけだ。だが、長い時間を共に過ごしてきたフィリアにはその変化が分かった。クロードは伝書鳩から紙を外し、内容へ素早く目を通す。
「何かありましたか?」
「王都方面の連絡役からです」
「悪い報せですか?」
「確認が必要です」
クロードは紙を折り、外套の内側へしまった。
「少し、外します」
「私も、行きます」
「必要ありません」
即座に拒まれた。フィリアは眉を寄せる。フィリアは言った。
「内容すら聞かされていないのに、必要かどうかなんて判断できないはずです」
「だからこそ、私が先に確認します」
クロードは食堂の出口へ目を向けた。
「戻るまで、町を出ないでください」
「遺跡の確認は?」
「私が戻ってからです」
「ですが、ここまで来た目的は——」
「フィリア様」
低い声だった。怒鳴っているわけではない。それでも、反論を許さない響きがある。
「ラディア遺跡は、罠だけが機能し続けていると聞いています。単独で入るべき場所では、ありません」
「分かっています」
「必ず、町でお待ちください」
「……分かりました」
フィリアが答えると、クロードは一度だけ頷いた。そのまま足早に食堂を出ていく。そして、扉が閉じた。
たった一人残された彼女は向かいの空いた椅子と、護衛の彼のために用意させた手つかずの食事を見比べる。
「まったく、もう。……いつものことですが、彼は」
小さく呟いた。
クロードは、朝から何も口にしていない。それでも、空腹で倒れる心配はしていなかった。獣人の血を引くクロードは、人間よりも遥かに身体が頑丈だ。
二晩ほとんど眠らずに歩き続けても、顔色一つ変えない。多少の怪我や疲労など、本人が問題として認識していないことさえある。
フィリアが心配しているのは、身体のことではない。何も話さないこと。自分の中ですべてを抱え、必要だと判断したことしか口にしないこと。
人間よりも長い時間を生きるフィリアにとっても、クロードは幼い頃からそばにいた存在だ。それでも、彼の心には、フィリアにも触れさせない場所が残されている。
「私では、頼りになりませんか?」
空いた椅子へ問いかける。当然、答えは返ってこなかった。
◇
部屋へ戻ったフィリアは、旅装へ着替えた。淡い水色の髪を目立たせないよう、冒険者風のローブを羽織る。深めにフードをかぶり、長い耳も隠した。精霊杖は布で包み、一見しただけでは高価な品だと分からないようにする。
「町を出てはいけない、とは言われましたが」
鏡の前で身なりを整える。
「町の中を歩いてはいけないとは、言われていません」
自分へ言い聞かせるように呟いた。クロードが戻ってくるまで、部屋でじっと待つつもりはない。もちろん、遺跡へ向かうつもりも——今のところはない。
「仕方ありません。何もせずに待つのは苦手ですので、おとなしく、町の散策でもしましょう」
フィリアは宿を出た。
通りには、多くの人々が行き交っている。荷物を運ぶ商人、買い物籠を下げた住民、依頼へ向かう冒険者たち。フィリアはフードの下から、興味深そうに町並みを眺めた。
かつて王女として暮らしていた頃は、町を自由に歩くことなどできなかった。城の外へ出るときは、必ず何人もの護衛がついた。今もクロードという護衛がいることに変わりはない。
ただ、旅に出てからは、普通の人々の暮らしを近くで見る機会が増えた。店先へ並ぶ果物、商品を値切る主婦、そして走り回る子供たち。どれも、かつてのフィリアには遠いものだった。
そのとき、道端に立つ一本の木から、小さな光が舞い上がった。淡い緑色の光が葉の間を落ち着きなく飛び回っている。木に宿る、風の精霊だった。
「どうしたのですか?」
フィリアが足を止める。人間たちには聞こえないほど小さな声が、葉擦れの音へ混じった。一つではない。通りに植えられた木や花壇の草花、水路を流れる水の中からも声を響かせている。町のあちこちにいる精霊たちが、同じ方角へ意識を向けている。
南東。ラディア遺跡の方角だった。
「何かあったのですか?」
フィリアは目を閉じ、精霊たちの意思へ触れる。伝わってくるのは、言葉ではない。怯えや困惑の感情。遠くで何かが目覚めようとしているような、かすかな震え。そして、その周囲から声が消えていく感覚。
「遺跡で、異変が……?」
フィリアは南東の空を見上げた。クロードの言葉が頭をよぎる。——『戻るまで、町を出ないでください』
「分かっています」
誰に聞かせるでもなく答える。
「一人で入るつもりなど、ありません」
だが、精霊たちは落ち着かない。淡い光がフィリアの周囲を巡り、何度も南東へ向かって飛ぶ。呼んでいる。急いでほしいと訴えている。何かが起きる前に。声が完全に消えてしまう前に。
「……入口を、確認するだけです」
フィリアは小さく呟いた。
「町から、それほど離れてはいません。遺跡へは入らず、外から様子を見るだけなら……問題ありませんよね?」
風の精霊は肯定するように、南東へ飛んでいった。もちろん、本当に肯定したのかどうかは分からない。フィリアはそれを、自分にとって都合よく解釈した。




