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-ニチジョウ-(2)

 最初の客が来たのは、朝の鐘が鳴る少し前だった。


 港の荷役夫が二人。

 硬い黒パンを四つと、少し安い丸パンを六つ。金を置き、挨拶もそこそこに出ていく。


 次に来たのは、近所の老婆だった。

 彼女はいつも同じパンを買う。白パンを一つ。歯が悪いから硬いものは食べられない。それを知っているので、エヴァンは少し柔らかく焼いたものを奥から出した。


「あら、シャルちゃん。今日も綺麗ね」


 老婆が言う。

 シャルルは少し困った顔をした。


「ありがとうございます」

「いい子ねえ」


 老婆は笑った。

 シャルルはますます困った顔をした。


 エヴァンは紙袋にパンを入れながら、何も言わなかった。

 以前のシャルルなら、綺麗と言われても返事ができなかった。今は返事をする。少しぎこちないが、それでも返事をする。


 この町で、彼女は少しずつ形を得ている。

 名前だけではなく、呼ばれ方を得ている。

 シャルちゃん。

 嬢ちゃん。

 エヴァンのところの子。


 どれも正確ではない。

 だが、悪くはなかった。

 正確すぎる名前は、時に人を縛る。


 エヴァンはそれを知っている。

 少尉。

 艇長。

 生存者。

 逃げた男。

 どれも、彼を正しく呼んでいた。


 正しく呼んでいたからこそ、嫌だった。


「エヴァン」


 老婆が帰ったあと、シャルルが声をかけてきた。


「何だ」

「私は、綺麗なのですか」


 エヴァンはパンを棚に並べていた手を止めた。

 質問の意図を考える。

 彼女の表情は真面目だった。

 そこに照れも、期待もない。少なくともエヴァンにはそう見えた。単に言葉の意味を確かめているだけなのだろう。

 だから、彼も事実として答えた。


「整ってはいる」

「それは綺麗とは違うのですか」

「似たようなものだ」

「では、綺麗なのですね」

「そうなんじゃないか」

「曖昧です」

「俺に聞くな」

「なぜですか」

「そういうことを言うのが得意な顔に見えるか」


 シャルルはエヴァンの顔をじっと見た。

 長い沈黙。


「見えません」

「だろうな」


 エヴァンは作業に戻った。

 シャルルもそれ以上は言わなかった。

 ただ、少しだけ首元の髪を触っていた。

 その仕草が何を意味するのか、エヴァンは考えないことにした。


 昼前になると、店は少し混んだ。

 軍の下士官が注文の確認に来た。明日の朝までに保存用の硬焼きパンを百二十個。量が多い。通常の駐屯軍用ではない。

 エヴァンは帳簿に数字を書きながら、下士官を見た。


「急だな」

「命令だ」

「前にもそれは聞いた」

「なら、今回も同じだ」


 下士官は疲れた顔をしていた。

 年はエヴァンより少し上。髭を剃る暇がなかったのか、顎に無精髭が残っている。軍人にしてはだらしないが、今のアレフでは珍しくない。


「何かあったのか」


 エヴァンは訊いた。

 自分から軍の話を振るのは久しぶりだった。

 下士官は一瞬だけエヴァンを見た。

 それから、店の奥にいるシャルルへ視線を移した。

 エヴァンはその視線が気に入らなかった。


「噂だ」


 下士官は声を落とした。


「赤い連中が動いてる。北の方でな」

「ソ連か」

「そう呼んでいいのかも分からん。こっち側に残った連中は、もう本国の命令なんざ受けちゃいないだろ」

「どこも同じだ」

「違いない」


 下士官は乾いた笑いを漏らした。

 笑っているのに、目は笑っていない。


「とにかく、パンは頼む。硬くていい。日持ちすれば味は問わない」

「兵隊向けならいつものことだ」

「助かる」


 下士官は代金の一部を前払いし、店を出ていった。

 シャルルが奥から出てくる。


「赤い連中とは、何ですか」

「北の軍隊だ」

「敵ですか」

「今のところはな」

「今のところ?」

「敵味方は、命令で変わる」


 シャルルは分かったような、分からないような顔をした。


「では、エヴァンの敵ですか」


 その問いに、エヴァンはすぐには答えなかった。

 窯の中でパンが焼けている。

 表面が膨らみ、細い裂け目ができていた。そこから湯気と香ばしい匂いが立ち上る。


「俺はもう兵隊じゃない」


 エヴァンは言った。


「では、敵ではないのですね」

「向こうがそう思うかは別だ」


 シャルルは黙った。

 彼女は時々、そういう顔をする。

 何かを探している顔だ。

 記憶の中か、言葉の奥か、それとも自分でも分からないどこかか。

 エヴァンはその顔を見ると、余計なことを言えなくなる。


「心配するな」


 だから、そう言った。

 言ってから、失敗したと思った。

 心配するな、という言葉ほど信用できないものはない。

 シャルルは彼を見た。


「心配しているように見えましたか」

「少しな」

「そうですか」


 彼女はしばらく考えてから、言った。


「では、心配しています」


 エヴァンは返事に困った。

 結局、何も言わずにパンを取り出した。


 焼きたての匂いが店に広がる。

 シャルルはその匂いに少しだけ目を細めた。

 そういう顔をすると、年相応に見える。

 あるいは、それより少し幼く見える。

 少なくとも、国家や軍隊や戦争という言葉とは、まるで釣り合わない。

 エヴァンは熱い鉄板を作業台に置いた。


「触るなよ」

「分かっています」

「前にもそう言って触った」

「あれは確認です」

「熱いかどうかをか」

「はい」

「見れば分かる」

「見ただけでは分かりません」

「分かれ」


 シャルルは少し不満そうにした。

 それから、熱いパンをじっと見つめた。

 手を伸ばしはしなかった。


 エヴァンはそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 その時だった。

 店の外に、見慣れない男が立っていた。


 通行人ではない。

 パンを買いに来た客でもない。


 男は向かいの建物の陰に立ち、こちらを見ていた。帽子を深くかぶり、灰色の外套を着ている。アレフでは珍しくない格好だ。珍しくないからこそ、目立たない。


 だが、立ち方が違った。

 兵士の立ち方だった。

 重心が後ろに逃げていない。逃げるためではなく、踏み込むための姿勢。


 エヴァンはその男を見た。


 男もこちらを見ていた。

 正確には、エヴァンではなく。


 シャルルを。


「エヴァン?」


 シャルルが彼の視線を追おうとした。


「見るな」


 エヴァンは短く言った。

 シャルルの動きが止まる。


「奥へ」

「なぜですか」

「いいから」


 声が強くなった。

 シャルルは何か言いかけたが、言わなかった。

 店の奥へ下がる。

 エヴァンは何事もなかったように、棚のパンを整えた。作業台の下には、古い拳銃が隠してある。軍を辞めた時に持ち出したものではない。アレフでは、金さえ払えば古い銃くらい手に入る。


 ただ、使いたくはなかった。

 使えば、戻る。

 あの音に。

 あの匂いに。

 あの夜に。


 エヴァンは手を伸ばしかけ、止めた。

 外の男はもういなかった。

 通りには、荷車と魚屋と、昼前の客がいるだけだった。


 エヴァンはしばらく外を見ていた。

 窯の火が、背後で小さく爆ぜた。

 その日の夕方、アレフには妙な風が吹いた。


 海からではない。

 北からの風だった。

 砂と乾いた草の匂いを含んでいて、港町の空気には馴染まなかった。

 店を閉める頃、シャルルは入口の横に立っていた。

 夕陽が彼女の横顔を照らしている。

 長い睫毛の影が、頬に落ちていた。


「今日は、早く閉めるのですね」

「注文が多い。夜に焼く」

「手伝います」

「邪魔をしないならな」

「邪魔はしません」

「前もそう言った」

「あれは、予想外でした」

「粉袋を破るのがか」

「はい」


 エヴァンはため息をついた。

 シャルルは真面目な顔をしている。

 冗談ではないのだ。

 だから困る。


「皿を洗っておけ」

「分かりました」


 シャルルは奥へ向かった。

 その背中を見送りながら、エヴァンは店の戸に鍵をかけた。

 木製の戸は古い。

 鍵も頼りない。

 本気で破ろうと思えば、すぐに破れる。

 それでも、閉めるという行為には意味があった。


 外と内を分ける。

 店と家を分ける。

 今日と明日を、かろうじて分ける。


 エヴァンは鍵をかけ終え、振り返った。

 奥から、皿の割れる音がした。


「シャルル」

「……不可抗力です」


 即答だった。


「まだ何も言ってない」

「言われる前に言いました」

「そうか」


 エヴァンは額に手を当てた。

 その時、外で誰かの足音が止まった。


 店の前だ。

 客なら戸を叩く。

 軍なら名乗る。


 だが、その足音はどちらもしなかった。

 ただ、止まった。


 エヴァンは動かなかった。

 奥で、シャルルも動きを止めている気配がした。


 沈黙。

 長い沈黙だった。

 やがて、足音は遠ざかった。


 エヴァンはゆっくりと息を吐いた。

 そして作業台の下に手を伸ばした。

 古い拳銃の冷たい感触が、指先に触れた。


 嫌な重さだった。

 忘れたふりをしていた重さ。

 もう必要ないと思っていた重さ。

 シャルルが奥から顔を出した。


「エヴァン」

「何だ」

「私は、何かしましたか」


 エヴァンは拳銃から手を離した。

 振り返る。

 シャルルは割れた皿の破片を片手に持っていた。何かを手伝おうとして、余計に危なっかしくなっている。

 彼女は不安そうな顔をしていた。

 皿を割ったことではない。

 もっと別のものに対して。


「何もしてない」


 エヴァンは言った。


「本当に?」

「ああ」

「では、なぜあの人たちは私を見るのですか」


 エヴァンは答えられなかった。

 シャルルは続けた。


「私は、何かを忘れているのですか」


 その声は静かだった。

 責めているわけではない。

 怖がっているわけでもない。

 ただ、自分の中に空いた穴の縁を、そっと指でなぞるような声だった。


 エヴァンはしばらく彼女を見ていた。

 そして、ゆっくりと言った。


「忘れているんだろうな」

「思い出した方がいいのでしょうか」

「分からない」

「エヴァンにも?」

「俺にも」


 シャルルは目を伏せた。

 手の中の皿の破片が、夕陽を受けて白く光った。


「なら、今は思い出さなくてもいいです」

「なぜ」

「今の私は、ここにいますから」


 エヴァンは何も言わなかった。

 窯の中で、火がまた小さく爆ぜた。

 その音だけが、二人の間に落ちた。

 外では、北からの風がまだ吹いていた。

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