-ウシナウ-(1)
夜のアレフは、昼間よりも音が近い。
港の鎖が擦れる音。艦の汽笛。酒場から漏れる笑い声。遠くで誰かが怒鳴る声。
それから、店の奥で皿を洗う水音。
エヴァンは作業台の前に立っていた。昼間、駐屯軍の下士官が持ち込んだ注文書が、台の端に置かれている。
硬焼きパン、百二十個。
明日の朝まで。
紙の上では、ただの数字だった。
だが、その数字を粉と水と塩と火に戻していくのは、結局、彼の手である。
エヴァンは粉袋を開けた。乾いた粉の匂いが立つ。
小麦は、昔より悪くなった。粒が粗く、混ぜ物も少なくない。それでもパンにはなる。腹に入れば、兵士は文句を言わない。
いや。
言わなくなる。
腹が空けば、人間は味よりも重さを選ぶ。
エヴァンは水を加え、生地をこねた。掌の下で、重い塊が鈍く沈む。
保存用のパンは、客に出すものとは違う。香りではない。柔らかさでもない。腐りにくく、割れにくく、背嚢の底で潰れても食えること。
それが条件だった。
彼はそれを知っている。
知りたくて知ったわけではない。
昔、そういうパンを食べたことがあるだけだ。
水でふやかし、泥を払って、噛み砕く。
味はしない。
それでも腹には残る。
戦場では、それだけで十分だった。
「エヴァン」
背後から声がした。
シャルルだった。
振り向くと、彼女は袖を少し濡らしたまま立っている。皿洗いは終わったらしい。床に破片は見えない。
「終わったか」
「はい」
「割った皿は」
「二枚です」
「一枚じゃなかったのか」
「途中で増えました」
「増えたんじゃない。割ったんだ」
「結果としては、そうです」
エヴァンは息を吐いた。
シャルルは真面目な顔をしている。
悪びれていない、というより、悪びれ方をまだ知らないように見えた。
礼儀はある。
会釈の角度も、椅子に腰掛ける姿勢も、妙に整っている。
そのくせ、皿は割る。火加減を間違える。市場に行かせれば、釣銭を確かめず帰ってくる。
うまく噛み合っていない。
彼女の中には、よく磨かれた銀器と、底の抜けた桶が同じ棚に並んでいるようなところがあった。
「何を見ているのですか」
「袖が濡れてる」
「乾きます」
「風邪を引く」
「引きません」
「前もそう言って熱を出した」
「あれは偶然です」
「偶然が多いな」
「世界には偶然が多いのです」
「急に大きな話にするな」
シャルルは自分の袖口を見下ろした。少し考え、それから素直に奥へ引っ込む。
着替えに行ったのだろう。
素直な時は、拍子抜けするほど素直だった。
エヴァンは作業に戻った。こねた生地を切り分け、丸め、木板の上に並べる。窯の熱は安定していた。火は良い。人間よりは扱いやすい。
手を出しすぎると駄目になる。放っておきすぎても駄目になる。
けれど、火は嘘をつかない。
薪が足りなければ弱る。
空気が足りなければ燻る。
ただそれだけだ。
外では、風が鳴っていた。
海からではない。
北からの風だった。
アレフの夜に、乾いた草の匂いが混じる。港町には似合わない匂いだった。
シャルルが戻ってきた。薄い上着に着替え、髪を後ろで緩く結んでいる。髪を結ぶ手つきだけは、いつ見ても慣れていた。
彼女は作業台の近くに立つ。
「何をすればいいですか」
「寝ろ」
「手伝います」
「言ってない」
「今、言いました」
「なら、言うな」
「もう言いました」
エヴァンは彼女を見た。
シャルルはまっすぐ見返してくる。
引くつもりはないらしい。
「……粉を量れ」
「はい」
「こぼすな」
「努力します」
「努力じゃなくて、こぼすな」
「では、こぼしません」
「いい返事だ」
エヴァンは秤を指で示した。
シャルルは粉袋を慎重に開ける。以前、彼女は同じ動作で袋を倒し、店の半分を白くした。そのことを覚えているのか、今日は指先に余計な力が入っていない。
木の匙で粉をすくる。秤に乗せる。少し多い。戻す。今度は少ない。足す。また多い。
シャルルの眉間に、浅い皺が寄った。
エヴァンは手を出しかけ、やめた。
彼女は不器用だ。
だが、できないことを、できないままにされるのを嫌う。
何度か調整したあと、針が目盛りに合った。
シャルルは静かに息を吐いた。
「できました」
「見れば分かる」
「褒めないのですか」
「粉を量っただけだ」
「私は、褒められて伸びる可能性があります」
「誰に吹き込まれた」
「魚屋の方です」
「あの親父……」
エヴァンは額を押さえた。
シャルルは少しだけ得意げだった。
彼は短く言う。
「よくできた」
シャルルは瞬きをした。
それから、目を逸らす。
「……はい」
小さな声だった。
エヴァンは聞こえなかったふりをした。
粉を受け取り、水を加える。シャルルは次の粉を量り始める。さっきより手際がよかった。少なくとも、粉袋を倒す気配はない。
窓を、風が叩いた。
古い枠が軋む。
シャルルの手が止まった。
「どうした」
エヴァンが訊く。
彼女は窓を見ていた。顔色は変わっていない。だが、目だけが遠い。
「音が」
「風だ」
「違います」
「何が聞こえる」
「……分かりません」
分からない、というには硬い声だった。
エヴァンは窓の外へ目を向けた。
通りは暗い。向かいの魚屋は閉まっている。街灯は角に一つだけ。燃料を節約するため、夜のアレフは明るくない。黄色い灯が、湿った石畳の上で頼りなく揺れている。
誰もいない。
見える範囲には。
エヴァンは手を止めた。
「奥にいろ」
「またですか」
「まただ」
「私は邪魔ですか」
その言葉は、静かだった。
だから余計に、返事を選ばされた。
「違う」
エヴァンは言った。
「邪魔じゃない」
「では、なぜ奥に行かせるのですか」
「危ないかもしれない」
「危ないなら、一人にしない方がいいのでは」
「屁理屈を覚えたな」
「エヴァンの影響です」
「俺はそんなこと教えてない」
「見て覚えました」
シャルルは作業台の縁に手を置いた。粉のついた細い指。
その手は、危険という言葉と似合わなかった。
けれど本人は、そこに立っているつもりなのだろう。
守られる側ではなく。
隣にいる者として。
エヴァンは短く息を吐いた。
「灯りを落とせ」
「はい」
「窓から離れろ」
「分かりました」
「声は出すな」
「努力します」
「そこは、分かりましたでいい」
「分かりました」
シャルルはランプの火を小さくした。店内が暗くなる。
窯の奥の赤だけが残った。
エヴァンは作業台の下に手を伸ばす。
古い拳銃がある。
冷たい鉄の感触が、指先に触れた。
嫌な重さだった。
忘れたふりをしていた重さ。
銃は、ただの道具だ。
使う者が悪い。
そう言う者は多い。
だが、エヴァンにはそう思えなかった。
道具には、それにふさわしい音がある。
ふさわしい匂いがある。
ふさわしい記憶がある。
この鉄の塊は、人の手を勝手に昔へ連れていく。
シャルルが拳銃を見る。
「それは」
「道具だ」
「パンを焼く道具ではありません」
「そうだな」
「人を撃つ道具ですか」
エヴァンは答えなかった。
答えないことで、十分だった。
外の足音が聞こえた。
一人ではない。
二人。
いや、三人。
足音は抑えられている。だが、消しきれていない。石畳の上では、重さが残る。
エヴァンは戸の横に立った。正面には立たない。
銃口は下げたまま。
息を整える。
心臓の音が、やけに近かった。
昔は、もう少し落ち着いていた。
そう思いかけて、やめる。
昔の自分を信用しない方がいい。
足音が店の前で止まった。
沈黙。
戸は叩かれない。軍なら名乗る。客なら戸を叩く。
どちらでもないなら、ろくなものではない。
戸の向こうで、低い声がした。
聞き取れない。
英語ではない。
アレフの在地語でもない。
ロシア語か。
エヴァンの指が、引き金にかかる。
その時だった。
「夜分にすみませんっす」
間の抜けた声がした。
軽すぎる声だった。
その場に似合わない。
「パン、まだ売ってるっすか」
外の気配が変わった。
戸の前にいた連中が、散る。
一人が路地へ。
もう一人が壁沿いに。
短い舌打ち。
駆ける足音。
数秒で、通りはまた静かになった。
エヴァンは戸を開けなかった。銃を構えたまま、待つ。
「あ、撃たないでくださいね。おれっち、客っす。善良な客っす」
善良な客は、夜中に張り込みを散らしたりしない。
エヴァンは鍵を外した。
戸を少しだけ開ける。
隙間の向こうに、ひとりの青年が立っていた。
黒い髪。細い体。東洋風の顔立ち。
衣服は旅人にも見え、僧にも見えた。肩から古い布袋を下げている。
青年は、へらりと笑った。
「こんばんはっす」
エヴァンは銃口を向けた。
「名を言え」
「榊原俊っす」
「何者だ」
「通りすがりの善良な仏僧っす」
「仏僧は夜中に他人の店の前で何をしている」
「パンを買いに」
「店は閉めた」
「ですよねえ」
俊は両手を軽く上げた。
敵意がないことを示す仕草。自然だった。
自然すぎる。
「さっきの連中は何だ」
「さあ。物騒な人たちじゃないっすか」
「お前の仲間か」
「違うっす。おれっちは友達が少ないので」
「冗談を言うな」
「冗談しか言えない時もあるっすよ」
俊は少しだけ首を傾げた。
その視線が、一瞬、エヴァンの背後へ流れた。
シャルルのいる方へ。
エヴァンは戸の隙間を狭める。
「帰れ」
「忠告だけして帰るっす」
「いらない」
「その子、あまり目立たせない方がいいっすよ」
エヴァンの指に力が入った。
俊は笑みを消さない。
ただ、声の調子だけが少し沈んだ。
「脅しじゃないっす。むしろ逆っす。たぶん親切で言ってる」
「たぶん?」
「自分の動機に自信が持てないことって、あるじゃないっすか」
「ない」
「強いっすねえ」
「お前は何を知っている」
「少しだけっす。知らないことの方が多い。大事なことほど、だいたい知らない」
「ふざけているのか」
「半分くらいは」
俊は肩をすくめた。
軽い。
あまりに軽い。
だが、完全な嘘の軽さではなかった。
「その子を連れて、この町を出る準備をした方がいいっす」
「理由は」
「ここが騒がしくなるから」
「北の連中か」
「それもあるっすね」
「他にもあるのか」
「あります」
「何だ」
俊は黙った。
初めて、答えなかった。
その沈黙だけが、先ほどまでの声と違っていた。
「言えないのか」
「言っても、たぶん信じないっす」
「信じるかは俺が決める」
「その前に、おれっちが言うかを決めるっす」
エヴァンは目を細めた。
「なら、帰れ」
「はいはい。帰るっす」
俊は一歩下がった。
その時、奥から声がした。
「待ってください」
シャルルだった。
エヴァンは振り返らない。振り返らず、俊の目だけを見る。
俊の笑みが、少しだけ薄くなった。
シャルルが店の奥から出てくる。
足音は静かだった。
不思議な歩き方だった。
誰かに近づくというより、何かの前に立つような歩き方。
彼女は戸の隙間から、俊を見た。
俊も彼女を見た。
しばらく、何もなかった。
いや。
何もないように見えただけだった。
二人の間に、言葉にならないものが通り過ぎた。
初対面の沈黙ではない。
再会の沈黙でもない。
もっと古く、もっと曖昧なもの。
シャルルが口を開く。
「あなたは」
声が少しだけ掠れていた。
「私を、知っているのですか」
俊は困ったように笑った。
「さあ。どうっすかね」
「私は、あなたを知っている気がします」
「それは光栄っす」
「でも、思い出せません」
「思い出さなくてもいいこともあるっすよ」
シャルルの眉が寄る。
「それを決めるのは、あなたですか」
俊は答えなかった。
エヴァンは、シャルルのその声を初めて聞いた気がした。
静かだが、退かない声。
普段の彼女ではない。
皿を割り、粉の目盛りに苦戦し、甘いものを探す少女ではない。
どこか別の場所に立っていた誰かの声だった。
俊は小さく息を吐いた。
「そうっすね。決めるのは、おれっちじゃない」
彼は懐から小さな紙包みを取り出し、戸口の前に置いた。
「これ、差し入れっす」
「何だ」
「お茶っ葉っす。眠れない夜にいいやつ」
「毒か」
「善良な仏僧は毒なんて盛らないっす」
「善良な仏僧は、自分で善良と言わない」
「厳しいっすねえ」
俊はまた笑った。
さっきより、薄い笑いだった。
「まあ、飲むかどうかは任せるっす。ただ、明日の朝まで戸締まりはちゃんとした方がいい。裏口も。あと、窓の掛け金、左側が緩いっすよ」
エヴァンは顔をしかめる。
「なぜ知っている」
「見れば分かるっす」
「どこを見た」
「いろいろっす」
俊は背を向けた。
夜の通りへ歩き出す。
「榊原」
エヴァンが呼んだ。
俊は振り返らない。
「お前は何者だ」
答えはすぐには来なかった。
風が通りを抜ける。
角の街灯が揺れる。
やがて、声だけが返ってきた。
「まだ、名乗るほどの者じゃないっすよ」
俊の姿は、路地の奥へ消えた。
通りには夜の音だけが戻る。
鎖の擦れる音。遠い笑い声。北からの風。
エヴァンは戸を閉め、鍵をかけた。
銃を下ろす。
肩が強張っていることに、そこで気づいた。
シャルルは床に置かれた紙包みを見ていた。
「触るな」
「触りません」
「本当に」
「はい」
彼女は紙包みから目を離さない。
「エヴァン」
「何だ」
「私は、何者なのでしょう」
皿を割った時の声ではなかった。
甘いものを探す時の声でもない。
もっと深いところから出てきた声だった。
エヴァンは拳銃を作業台の上に置いた。
それから、紙包みを拾う。
軽い。
本当に茶葉かもしれない。
別の何かかもしれない。
「今は、シャルルだ」
エヴァンは言った。
シャルルは彼を見る。
「それだけですか」
「それだけで足りないか」
「分かりません」
「なら、今はそれでいい」
シャルルは黙った。
納得したわけではない。
それでも、それ以上は問わなかった。
エヴァンは紙包みを棚の上に置いた。
飲むつもりはなかった。
少なくとも、今夜は。
「作業を続ける」
「はい」
「お前は寝ろ」
「手伝います」
「今の話のあとでか」
「今の話のあとだからです」
シャルルは作業台の前に戻った。
粉の入った器を持つ。
手は、ほんの少し震えていた。
だが、器は落とさなかった。
エヴァンは何も言わず、自分の作業に戻る。
窯の火はまだ生きていた。
赤い光が、二人の影を壁に映す。
一つは大きく、少し歪んでいる。
もう一つは細く、揺れている。
外では、北風が吹き続けていた。
夜はまだ、終わらない。




