表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

-ウシナウ-(1)

 夜のアレフは、昼間よりも音が近い。


 港の鎖が擦れる音。艦の汽笛。酒場から漏れる笑い声。遠くで誰かが怒鳴る声。

 それから、店の奥で皿を洗う水音。


 エヴァンは作業台の前に立っていた。昼間、駐屯軍の下士官が持ち込んだ注文書が、台の端に置かれている。


 硬焼きパン、百二十個。

 明日の朝まで。


 紙の上では、ただの数字だった。

 だが、その数字を粉と水と塩と火に戻していくのは、結局、彼の手である。


 エヴァンは粉袋を開けた。乾いた粉の匂いが立つ。


 小麦は、昔より悪くなった。粒が粗く、混ぜ物も少なくない。それでもパンにはなる。腹に入れば、兵士は文句を言わない。


 いや。

 言わなくなる。


 腹が空けば、人間は味よりも重さを選ぶ。


 エヴァンは水を加え、生地をこねた。掌の下で、重い塊が鈍く沈む。


 保存用のパンは、客に出すものとは違う。香りではない。柔らかさでもない。腐りにくく、割れにくく、背嚢の底で潰れても食えること。

 それが条件だった。


 彼はそれを知っている。

 知りたくて知ったわけではない。


 昔、そういうパンを食べたことがあるだけだ。


 水でふやかし、泥を払って、噛み砕く。

 味はしない。

 それでも腹には残る。


 戦場では、それだけで十分だった。


「エヴァン」


 背後から声がした。

 シャルルだった。


 振り向くと、彼女は袖を少し濡らしたまま立っている。皿洗いは終わったらしい。床に破片は見えない。


「終わったか」

「はい」

「割った皿は」

「二枚です」

「一枚じゃなかったのか」

「途中で増えました」

「増えたんじゃない。割ったんだ」

「結果としては、そうです」


 エヴァンは息を吐いた。


 シャルルは真面目な顔をしている。

 悪びれていない、というより、悪びれ方をまだ知らないように見えた。


 礼儀はある。

 会釈の角度も、椅子に腰掛ける姿勢も、妙に整っている。


 そのくせ、皿は割る。火加減を間違える。市場に行かせれば、釣銭を確かめず帰ってくる。


 うまく噛み合っていない。


 彼女の中には、よく磨かれた銀器と、底の抜けた桶が同じ棚に並んでいるようなところがあった。


「何を見ているのですか」

「袖が濡れてる」

「乾きます」

「風邪を引く」

「引きません」

「前もそう言って熱を出した」

「あれは偶然です」

「偶然が多いな」

「世界には偶然が多いのです」

「急に大きな話にするな」


 シャルルは自分の袖口を見下ろした。少し考え、それから素直に奥へ引っ込む。

 着替えに行ったのだろう。


 素直な時は、拍子抜けするほど素直だった。


 エヴァンは作業に戻った。こねた生地を切り分け、丸め、木板の上に並べる。窯の熱は安定していた。火は良い。人間よりは扱いやすい。


 手を出しすぎると駄目になる。放っておきすぎても駄目になる。

 けれど、火は嘘をつかない。


 薪が足りなければ弱る。

 空気が足りなければ燻る。

 ただそれだけだ。


 外では、風が鳴っていた。


 海からではない。

 北からの風だった。


 アレフの夜に、乾いた草の匂いが混じる。港町には似合わない匂いだった。


 シャルルが戻ってきた。薄い上着に着替え、髪を後ろで緩く結んでいる。髪を結ぶ手つきだけは、いつ見ても慣れていた。


 彼女は作業台の近くに立つ。


「何をすればいいですか」

「寝ろ」

「手伝います」

「言ってない」

「今、言いました」

「なら、言うな」

「もう言いました」


 エヴァンは彼女を見た。

 シャルルはまっすぐ見返してくる。


 引くつもりはないらしい。


「……粉を量れ」

「はい」

「こぼすな」

「努力します」

「努力じゃなくて、こぼすな」

「では、こぼしません」

「いい返事だ」


 エヴァンは秤を指で示した。


 シャルルは粉袋を慎重に開ける。以前、彼女は同じ動作で袋を倒し、店の半分を白くした。そのことを覚えているのか、今日は指先に余計な力が入っていない。


 木の匙で粉をすくる。秤に乗せる。少し多い。戻す。今度は少ない。足す。また多い。


 シャルルの眉間に、浅い皺が寄った。


 エヴァンは手を出しかけ、やめた。


 彼女は不器用だ。

 だが、できないことを、できないままにされるのを嫌う。


 何度か調整したあと、針が目盛りに合った。


 シャルルは静かに息を吐いた。


「できました」

「見れば分かる」

「褒めないのですか」

「粉を量っただけだ」

「私は、褒められて伸びる可能性があります」

「誰に吹き込まれた」

「魚屋の方です」

「あの親父……」


 エヴァンは額を押さえた。

 シャルルは少しだけ得意げだった。


 彼は短く言う。


「よくできた」


 シャルルは瞬きをした。

 それから、目を逸らす。


「……はい」


 小さな声だった。

 エヴァンは聞こえなかったふりをした。


 粉を受け取り、水を加える。シャルルは次の粉を量り始める。さっきより手際がよかった。少なくとも、粉袋を倒す気配はない。


 窓を、風が叩いた。


 古い枠が軋む。


 シャルルの手が止まった。


「どうした」


 エヴァンが訊く。


 彼女は窓を見ていた。顔色は変わっていない。だが、目だけが遠い。


「音が」

「風だ」

「違います」

「何が聞こえる」

「……分かりません」


 分からない、というには硬い声だった。


 エヴァンは窓の外へ目を向けた。


 通りは暗い。向かいの魚屋は閉まっている。街灯は角に一つだけ。燃料を節約するため、夜のアレフは明るくない。黄色い灯が、湿った石畳の上で頼りなく揺れている。


 誰もいない。


 見える範囲には。


 エヴァンは手を止めた。


「奥にいろ」

「またですか」

「まただ」

「私は邪魔ですか」


 その言葉は、静かだった。

 だから余計に、返事を選ばされた。


「違う」


 エヴァンは言った。


「邪魔じゃない」

「では、なぜ奥に行かせるのですか」

「危ないかもしれない」

「危ないなら、一人にしない方がいいのでは」

「屁理屈を覚えたな」

「エヴァンの影響です」

「俺はそんなこと教えてない」

「見て覚えました」


 シャルルは作業台の縁に手を置いた。粉のついた細い指。

 その手は、危険という言葉と似合わなかった。


 けれど本人は、そこに立っているつもりなのだろう。

 守られる側ではなく。

 隣にいる者として。


 エヴァンは短く息を吐いた。


「灯りを落とせ」

「はい」

「窓から離れろ」

「分かりました」

「声は出すな」

「努力します」

「そこは、分かりましたでいい」

「分かりました」


 シャルルはランプの火を小さくした。店内が暗くなる。

 窯の奥の赤だけが残った。


 エヴァンは作業台の下に手を伸ばす。


 古い拳銃がある。

 冷たい鉄の感触が、指先に触れた。


 嫌な重さだった。


 忘れたふりをしていた重さ。


 銃は、ただの道具だ。

 使う者が悪い。

 そう言う者は多い。


 だが、エヴァンにはそう思えなかった。


 道具には、それにふさわしい音がある。

 ふさわしい匂いがある。

 ふさわしい記憶がある。


 この鉄の塊は、人の手を勝手に昔へ連れていく。


 シャルルが拳銃を見る。


「それは」

「道具だ」

「パンを焼く道具ではありません」

「そうだな」

「人を撃つ道具ですか」


 エヴァンは答えなかった。


 答えないことで、十分だった。


 外の足音が聞こえた。


 一人ではない。

 二人。

 いや、三人。


 足音は抑えられている。だが、消しきれていない。石畳の上では、重さが残る。


 エヴァンは戸の横に立った。正面には立たない。

 銃口は下げたまま。


 息を整える。


 心臓の音が、やけに近かった。


 昔は、もう少し落ち着いていた。


 そう思いかけて、やめる。

 昔の自分を信用しない方がいい。


 足音が店の前で止まった。


 沈黙。


 戸は叩かれない。軍なら名乗る。客なら戸を叩く。

 どちらでもないなら、ろくなものではない。


 戸の向こうで、低い声がした。


 聞き取れない。

 英語ではない。

 アレフの在地語でもない。


 ロシア語か。


 エヴァンの指が、引き金にかかる。


 その時だった。


「夜分にすみませんっす」


 間の抜けた声がした。

 軽すぎる声だった。

 その場に似合わない。


「パン、まだ売ってるっすか」


 外の気配が変わった。


 戸の前にいた連中が、散る。

 一人が路地へ。

 もう一人が壁沿いに。


 短い舌打ち。

 駆ける足音。


 数秒で、通りはまた静かになった。


 エヴァンは戸を開けなかった。銃を構えたまま、待つ。


「あ、撃たないでくださいね。おれっち、客っす。善良な客っす」


 善良な客は、夜中に張り込みを散らしたりしない。


 エヴァンは鍵を外した。

 戸を少しだけ開ける。


 隙間の向こうに、ひとりの青年が立っていた。


 黒い髪。細い体。東洋風の顔立ち。

 衣服は旅人にも見え、僧にも見えた。肩から古い布袋を下げている。


 青年は、へらりと笑った。


「こんばんはっす」


 エヴァンは銃口を向けた。


「名を言え」

「榊原俊っす」

「何者だ」

「通りすがりの善良な仏僧っす」

「仏僧は夜中に他人の店の前で何をしている」

「パンを買いに」

「店は閉めた」

「ですよねえ」


 俊は両手を軽く上げた。

 敵意がないことを示す仕草。自然だった。


 自然すぎる。


「さっきの連中は何だ」

「さあ。物騒な人たちじゃないっすか」

「お前の仲間か」

「違うっす。おれっちは友達が少ないので」

「冗談を言うな」

「冗談しか言えない時もあるっすよ」


 俊は少しだけ首を傾げた。


 その視線が、一瞬、エヴァンの背後へ流れた。

 シャルルのいる方へ。


 エヴァンは戸の隙間を狭める。


「帰れ」

「忠告だけして帰るっす」

「いらない」

「その子、あまり目立たせない方がいいっすよ」


 エヴァンの指に力が入った。


 俊は笑みを消さない。

 ただ、声の調子だけが少し沈んだ。


「脅しじゃないっす。むしろ逆っす。たぶん親切で言ってる」

「たぶん?」

「自分の動機に自信が持てないことって、あるじゃないっすか」

「ない」

「強いっすねえ」

「お前は何を知っている」

「少しだけっす。知らないことの方が多い。大事なことほど、だいたい知らない」

「ふざけているのか」

「半分くらいは」


 俊は肩をすくめた。


 軽い。

 あまりに軽い。


 だが、完全な嘘の軽さではなかった。


「その子を連れて、この町を出る準備をした方がいいっす」

「理由は」

「ここが騒がしくなるから」

「北の連中か」

「それもあるっすね」

「他にもあるのか」

「あります」

「何だ」


 俊は黙った。


 初めて、答えなかった。

 その沈黙だけが、先ほどまでの声と違っていた。


「言えないのか」

「言っても、たぶん信じないっす」

「信じるかは俺が決める」

「その前に、おれっちが言うかを決めるっす」


 エヴァンは目を細めた。


「なら、帰れ」

「はいはい。帰るっす」


 俊は一歩下がった。


 その時、奥から声がした。


「待ってください」


 シャルルだった。


 エヴァンは振り返らない。振り返らず、俊の目だけを見る。

 俊の笑みが、少しだけ薄くなった。


 シャルルが店の奥から出てくる。


 足音は静かだった。

 不思議な歩き方だった。

 誰かに近づくというより、何かの前に立つような歩き方。


 彼女は戸の隙間から、俊を見た。


 俊も彼女を見た。


 しばらく、何もなかった。


 いや。

 何もないように見えただけだった。


 二人の間に、言葉にならないものが通り過ぎた。


 初対面の沈黙ではない。

 再会の沈黙でもない。

 もっと古く、もっと曖昧なもの。


 シャルルが口を開く。


「あなたは」


 声が少しだけ掠れていた。


「私を、知っているのですか」


 俊は困ったように笑った。


「さあ。どうっすかね」

「私は、あなたを知っている気がします」

「それは光栄っす」

「でも、思い出せません」

「思い出さなくてもいいこともあるっすよ」


 シャルルの眉が寄る。


「それを決めるのは、あなたですか」


 俊は答えなかった。


 エヴァンは、シャルルのその声を初めて聞いた気がした。


 静かだが、退かない声。

 普段の彼女ではない。


 皿を割り、粉の目盛りに苦戦し、甘いものを探す少女ではない。

 どこか別の場所に立っていた誰かの声だった。


 俊は小さく息を吐いた。


「そうっすね。決めるのは、おれっちじゃない」


 彼は懐から小さな紙包みを取り出し、戸口の前に置いた。


「これ、差し入れっす」

「何だ」

「お茶っ葉っす。眠れない夜にいいやつ」

「毒か」

「善良な仏僧は毒なんて盛らないっす」

「善良な仏僧は、自分で善良と言わない」

「厳しいっすねえ」


 俊はまた笑った。

 さっきより、薄い笑いだった。


「まあ、飲むかどうかは任せるっす。ただ、明日の朝まで戸締まりはちゃんとした方がいい。裏口も。あと、窓の掛け金、左側が緩いっすよ」


 エヴァンは顔をしかめる。


「なぜ知っている」

「見れば分かるっす」

「どこを見た」

「いろいろっす」


 俊は背を向けた。

 夜の通りへ歩き出す。


「榊原」


 エヴァンが呼んだ。


 俊は振り返らない。


「お前は何者だ」


 答えはすぐには来なかった。


 風が通りを抜ける。

 角の街灯が揺れる。


 やがて、声だけが返ってきた。


「まだ、名乗るほどの者じゃないっすよ」


 俊の姿は、路地の奥へ消えた。


 通りには夜の音だけが戻る。

 鎖の擦れる音。遠い笑い声。北からの風。


 エヴァンは戸を閉め、鍵をかけた。


 銃を下ろす。

 肩が強張っていることに、そこで気づいた。


 シャルルは床に置かれた紙包みを見ていた。


「触るな」

「触りません」

「本当に」

「はい」


 彼女は紙包みから目を離さない。


「エヴァン」

「何だ」

「私は、何者なのでしょう」


 皿を割った時の声ではなかった。

 甘いものを探す時の声でもない。


 もっと深いところから出てきた声だった。


 エヴァンは拳銃を作業台の上に置いた。

 それから、紙包みを拾う。


 軽い。


 本当に茶葉かもしれない。

 別の何かかもしれない。


「今は、シャルルだ」


 エヴァンは言った。


 シャルルは彼を見る。


「それだけですか」

「それだけで足りないか」

「分かりません」

「なら、今はそれでいい」


 シャルルは黙った。


 納得したわけではない。

 それでも、それ以上は問わなかった。


 エヴァンは紙包みを棚の上に置いた。

 飲むつもりはなかった。

 少なくとも、今夜は。


「作業を続ける」

「はい」

「お前は寝ろ」

「手伝います」

「今の話のあとでか」

「今の話のあとだからです」


 シャルルは作業台の前に戻った。

 粉の入った器を持つ。


 手は、ほんの少し震えていた。

 だが、器は落とさなかった。


 エヴァンは何も言わず、自分の作業に戻る。


 窯の火はまだ生きていた。

 赤い光が、二人の影を壁に映す。


 一つは大きく、少し歪んでいる。

 もう一つは細く、揺れている。


 外では、北風が吹き続けていた。


 夜はまだ、終わらない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ