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-ニチジョウ-(1)

 夜明け前のアレフは、いつも海の匂いがした。


 潮の匂い、濡れた木材の匂い、古い石畳に染みついた煤の匂い。それから、遠く港で焚かれる石炭の代替燃料の、鼻の奥に残る鈍い臭気。


 エヴァン・グレイソンは、その匂いで目を覚ます。


 正確には、目覚まし時計の音で起きたわけではない。

 彼の寝台の横に置かれた古い目覚まし時計は、今日も律儀に鳴る時刻を少しだけ間違えていた。五分早い。あるいは十分遅い。日によって違う。持ち主に似て、時間に対して誠実なふりをしているだけなのかもしれなかった。


 エヴァンは薄い毛布の中でしばらく天井を見ていた。

 漆喰の天井には小さな染みがある。雨漏りの跡だ。直さなければならないと半年ほど前から思っているが、まだ直していない。

 雨が降るたびに鍋を置けば済む。

 少なくとも今のところは。


「……朝か」


 声に出してから、彼はようやく起き上がった。


 部屋は冷えていた。

 アレフは港町で、日中は湿気を含んだ空気が肌にまとわりつくが、夜明け前だけは妙に寒い。異世界だから、というより、海と山に挟まれた地形のせいだろうとエヴァンは考えている。


 この世界の人間は何かと神秘や魔力のせいにしたがる。

 エヴァンはそういう説明を好まなかった。

 理由があるなら理由を探せばいい。

 理由が分からないなら、分からないまま扱えばいい。

 それだけの話だった。


 彼は寝台から足を下ろし、床に置いた靴を履いた。踵が少し潰れている。新しい靴を買う余裕がないわけではないが、まだ履ける物を捨てる理由もなかった。

 上着を羽織り、狭い階段を降りる。


 一階は店になっている。

 店といっても、洒落た看板があるわけではない。表に木製の板が一枚吊られていて、そこに白い塗料で「BREAD」と書かれているだけだった。文字は少し剥げている。雨と潮風と、店主の無精のせいである。

 窯の前に立つ。


 昨日のうちに灰は落としてある。薪の残りを確かめ、乾いた細枝を奥に組む。火打ち石を打つと、鈍い火花が散った。


 一度ではつかない。

 二度目も駄目だった。

 三度目で、ようやく細い煙が上がった。


 エヴァンは膝をつき、息を吹き込む。

 小さな火が、窯の奥で身じろぎした。眠っていた獣が目を開けるように、赤い舌を伸ばして枝を舐める。


 火が安定するまで待つ。

 その時間が、エヴァンは嫌いではなかった。

 何もしないわけではない。だが、何かを急ぐ時間でもない。火は急かせば消える。見ていなければ拗ねる。手を出しすぎても駄目で、放っておきすぎても駄目だ。


 人間よりは扱いやすい。

 そう思ったところで、二階から床板の軋む音がした。


 ぎし。


 少し間を置いて、また、ぎし。


 それから、何かが壁にぶつかった音。


「……起きたか」


 エヴァンは窯から目を離さずに呟いた。

 返事はない。


 もう一度、床板が鳴る。

 やがて階段の上に、白い寝間着姿の少女が現れた。


 シャルル・ラピス。


 それが彼女の名だ。

 少なくとも、本人が覚えていた名前はそれだけだった。

 年齢は分からない。本人も知らない。見た目だけなら十代半ばほどに見えるが、この世界の在地人は地球人と成長の仕方が違う場合がある。エヴァンはそれを深く考えないことにしていた。


 考えたところで、分からないものは分からない。

 シャルルは階段の途中で立ち止まり、眠そうに目をこすった。

 長い髪が肩から滑り落ちる。朝の光をまだ受けていないせいで、色は薄い金にも、灰にも見えた。


「おはよう」


 エヴァンが言った。

 シャルルは何も言わなかった。


 そのまま階段を降りてくる。

 寝起きの彼女は、いつも少し危うい。足元を見ていない。意識が半分ほど夢の中に残っている。初めの頃は階段から落ちかけることもあったので、エヴァンは彼女が降りてくる間、窯の火よりもそちらに注意を払うようになった。


 本人には言っていない。

 言えば、きっと不満そうな顔をする。

 最後の段を降りたところで、シャルルは店の奥に置いてある作業台へ向かった。


 そこには昨夜の売れ残りが一つ置かれている。

 黒パンだった。

 表面が硬く、客には少し評判が悪い。だが腹持ちはいい。港湾労働者や兵士には売れる。味ではなく、量と値段で選ばれるパンだった。


 シャルルはそれを手に取り、何の断りもなくかじった。

 硬い音がした。


「それは朝食じゃない」


 エヴァンが言う。

 シャルルは口を動かしながら、彼を見た。


「では、何ですか」

「売れ残りだ」

「売れ残りなら、食べても問題ありません」

「商品だ」

「昨日の?」

「昨日の」

「では、売れ残りです」


 シャルルはもう一口かじった。

 エヴァンは少しだけ彼女を見て、それから窯に薪を足した。


「歯を折るぞ」

「折れません」

「そうか」

「はい」


 会話はそこで終わった。

 シャルルは作業台の端に腰をかけ、両手で黒パンを持って食べ続けた。眠たげな顔をしているくせに、食べる手だけは迷いがない。


 エヴァンは粉袋を開け、計量を始める。

 小麦粉は昔より高くなった。ゲートが閉じる前は、アレフにも地球側からの物資が流れ込んでいた。小麦、砂糖、酵母、工具、弾薬、新聞、安い煙草、よく分からない流行歌のレコード。


 今は違う。

 何もかも、この世界の中で賄わなければならない。

 アレフの周辺にも畑はある。だが十分ではない。内陸の農村から運ばれる小麦は、軍が優先的に買い上げる。民間に回る分は質も量も落ちる。


 それでもパンは焼ける。

 水を入れ、塩を入れ、酵母を加え、手でこねる。

 手のひらに粘る生地の感触を確かめながら、エヴァンは無言で作業を続けた。


 シャルルはいつの間にか黒パンを食べ終えていた。

 それから、棚の方を見た。


「ないぞ」


 エヴァンが言った。


「まだ何も言っていません」

「顔に書いてある」

「どのように」

「甘いものはない、と」


 シャルルはしばらく黙った。

 そして、少しだけ顔を背けた。


「……顔に書かれるのは、不便です」

「便利だろ。俺には」

「私には不便です」

「そうか」


 エヴァンは生地をまとめ、布をかぶせた。

 発酵を待つ。

 この待ち時間にも、やることはいくらでもある。店先の掃除。昨日の売上の確認。水汲み。薪の整理。配達分の注文書の確認。


 シャルルは手伝うこともある。

 手伝わないこともある。

 手伝った結果、余計な仕事を増やすこともある。


 今日の彼女は、しばらく作業台に座ったままだった。


 窓の外が少しずつ明るくなっていく。

 港町の朝は早い。

 石畳の向こうから、荷車を押す音が聞こえた。馬の蹄。誰かの咳。遠くの英語混じりの怒鳴り声。アレフには色々な言葉が混ざっている。英語、スペイン語、フランス語、在地語、それから日本語やドイツ語もたまに聞こえる。


 世界の端の港町にしては、騒がしい。

 世界から切り離された町にしては、まだ生きている。


 エヴァンは店の戸を開けた。

 湿った朝の空気が流れ込む。

 表の石畳はまだ薄暗い。向かいの魚屋の親父が、木箱を店先に並べていた。片腕で箱を持ち上げ、もう片方の手で煙草を咥えている。器用なものだった。


「朝から辛気臭い顔だな、エヴァン」


 魚屋の親父が声をかけてきた。


「いつも通りだ」

「それが辛気臭いって言ってんだよ」

「魚の匂いよりはましだ」

「言うじゃねえか、パン焼き」


 親父は笑った。

 エヴァンは返事をせず、店の前を掃いた。夜の間に溜まった砂と葉を端へ寄せる。潮風が吹くたびに、どこからか細かい砂が入り込む。掃いても掃いてもなくならない。


 シャルルが店の奥から出てきた。

 いつの間にか寝間着から普段着に着替えている。

 白いブラウスに、少し大きめのスカート。どちらもエヴァンが古着屋で買ったものだ。サイズは合っていない。だが、彼女は文句を言わない。


 最初の頃は、服の着方すら怪しかった。

 それが記憶喪失のせいなのか、彼女の育ちのせいなのか、エヴァンには分からない。

 ただ、今は自分で着られる。

 それで十分だった。


「嬢ちゃんも起きたか」


 魚屋の親父が片手を上げた。

 シャルルは少しだけ会釈した。

 愛想はない。

 けれど、以前よりはましだった。半年前は会釈もしなかった。相手の顔を見て、何をすればいいのか分からないという目をしていた。


「相変わらず別嬪だなあ。エヴァン、お前にはもったいねえ」

「そういう話を朝からするな」

「照れるなよ」

「照れてない」

「奥さんに怒られるぞ」


 エヴァンは箒を止めた。

 シャルルも止まった。

 魚屋の親父だけが、楽しそうに煙草を揺らしている。


「違う」


 エヴァンが言った。

 一拍遅れて、シャルルも言った。


「違います」


 親父はますます笑った。


「息ぴったりじゃねえか」

「魚を並べろ」

「へいへい」


 エヴァンは掃除を再開した。

 シャルルはしばらく親父を見ていたが、やがて小さく首を傾げた。


「エヴァン」

「何だ」

「奥さんとは、どういう意味ですか」


 魚屋の親父が噴き出した。

 エヴァンは箒を握ったまま、わずかに目を閉じた。


「今聞くな」

「では、あとで聞きます」

「あとでも聞くな」

「なぜですか」

「必要ない」

「必要かどうかは、聞いてから判断します」


 シャルルは真面目だった。

 こういう時の彼女は、冗談を冗談として受け取らない。言葉をそのまま受け止める。だから周囲は面白がる。エヴァンは困る。


 魚屋の親父は腹を抱えて笑っていた。

 朝からよく笑えるものだ、とエヴァンは思った。

 ただ、その笑い声は嫌いではなかった。


 店に戻ると、窯の温度が上がっていた。

 生地も膨らみ始めている。


 エヴァンは手を洗い、作業に戻った。シャルルは店先の椅子に座り、開店前の通りを眺めている。

 彼女は時々、そうして何もせず外を見ている。

 何を見ているのか訊いたことがある。

 分かりません、と答えた。

 分からないものを見ているのか、と訊いたら、たぶん、と返ってきた。

 それ以来、エヴァンは訊いていない。


 通りには兵士の姿もあった。

 アメリカ軍の制服。正確には、かつてのアメリカ合衆国の制服を元にした、アレフ駐屯軍の制服だ。ゲート閉鎖後、地球側の国名や制度はあちこちで歪んだ。アメリカも例外ではない。

 それでも星条旗は港に揚がっている。

 少し色褪せた旗だった。


 兵士たちは二人組で通りを歩き、港の方へ向かっていた。普段よりも足取りが速い。腰の銃も、今日は飾りではなさそうだった。

 エヴァンはそれを横目で見た。

 見るだけだった。


「エヴァン」


 シャルルが言った。


「兵隊が多いです」

「港町だからな」

「昨日より多いです」


 エヴァンは返事をしなかった。

 シャルルはもう一度、通りを見た。


「何かあるのですか」

「さあな」

「知らないのですか」

「知る立場にない」

「昔は、知る立場だったのですか」


 エヴァンの手が止まった。

 ほんの一瞬だけだった。

 シャルルは彼を見ていない。通りを見たままだ。

 だから、それに気づいたのかどうかは分からなかった。


「昔の話だ」


 エヴァンは言った。


「そうですか」


 シャルルはそれ以上、聞かなかった。

 聞かないことが、彼女なりの気遣いなのか。

 単に興味が失せただけなのか。

 エヴァンには分からない。

 だが、そのどちらでも構わなかった。

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