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-セカイ-(1)

 人は、閉じた扉の向こうを神話と呼ぶ。

 ならば、開いた扉の向こうへ踏み込んだ者たちは、いずれ何と呼ばれるのだろう。


 開拓者か。

 侵略者か。

 迷い子か。

 あるいは、帰る場所を失った亡霊か。


 そのどれでもよかった。


 どの名を与えたところで、彼らが扉の向こう側に取り残された事実は変わらない。

 石の街を築き、旗を立て、畑を耕し、パンを焼き、子を産み、墓を掘る。そうして人は、どこであろうと自分たちの世界に変えていく。


 それが人間というものだ。

 そして人間というものは、いつだって自分たちが最初の発見者だと信じたがる。


 この世界にも、先に祈った者がいた。

 この世界にも、先に血を流した者がいた。

 この世界にも、先に王を戴き、神を恐れ、名を残さず死んでいった者たちがいた。


 それでも彼らはやって来た。


 鋼を持って。

 火薬を持って。

 国境線を引くための地図を持って。

 古い世界で使い古した理屈を、新しい世界へ持ち込んで。


 そして、二十二年後。


 扉は閉じた。

 実にあっけない幕切れだった。

 世界と世界を繋いでいた穴は、まるで最初から存在しなかったみたいに消えた。昨日までそこにあったものが、今日にはない。それだけの話だ。


 けれど、取り残された者たちにとっては違う。


 帰還は途絶えた。

 補給は途絶えた。

 本国の命令は、海の向こうどころか世界の向こうへ消えた。

 そこで初めて、彼らは気づいた。


 自分たちは異世界を手に入れたのではない。

 異世界に置き去りにされたのだと。


 僕は、それを見ていた。


 ドイツ人が東へ進むのを見た。

 ソビエトの赤い旗が荒野に立つのを見た。

 日本人が北方の国々と笑顔で握手しながら、机の下で軍刀の柄に手を添えるのを見た。

 イギリス人が砦を築き、アメリカ人が港を広げ、フランス人が失った土地の名前をまだ捨てられずにいるのを見た。

 魔王領の使節が、沈黙のまま彼らを見下ろしていたことも知っている。


 誰もが正しい顔をしていた。

 それが一番、始末に悪い。

 正義を名乗る者は、たいてい自分の手を汚していることに気づかない。

 平和を語る者は、たいてい誰かの土地を踏んでいる。

 祈りを掲げる者は、たいてい神の名を借りて自分の願いを押し通す。


 でも、まあ。


 そんなことは今さらだ。

 人間はそういうものだし、天使も悪魔も、さほど変わりはしない。


 僕は長く生きすぎた。

 だから、人の営みを見ても、大抵のことでは驚かない。


 王が娘を捨てることも。

 議会が少女を旗にすることも。

 兵士が命令ひとつで村を焼くことも。

 父が泣きながら子を遠ざけることも。

 どれも、この世界では珍しい話ではなかった。


 ただ、一つだけ。


 どうしても分からないことがある。

 なぜ、僕は彼女を守らなければならないのか。

 それだけは、今も分からない。




 ティファレト。




 その名を口にするとき、人は声を低くする。


 祝福だと言う者がいる。

 王権の証だと言う者がいる。

 災厄の種だと言う者がいる。


 どれも間違いではない。

 けれど、どれも正しくはない。


 彼女はただの少女だった。


 寒いと震え、腹が減ると不機嫌になり、知らない場所では黙り込む。

 誰かに名前を呼ばれると、少しだけ目を上げる。


 それだけの少女だった。


 だが世界は、そういう見方をしない。

 世界は彼女を器と呼ぶ。

 象徴と呼ぶ。

 火種と呼ぶ。

 交渉材料と呼ぶ。

 誰も、彼女の手が冷たいことなど気にしない。


 だから僕は、たぶん、そこに苛立っていたのだと思う。

 もっとも、僕にそんな感情が残っているのなら、の話だけど。


 アレフの朝は、パンの匂いがする。

 港町にしては妙な匂いだ。

 潮と油と鉄錆に混じって、焼き上がった小麦の匂いが細い路地に流れていく。湿った石畳の上を、まだ薄い朝日が斜めに照らしている。港では水夫たちが低い声で罵り合い、遠くでは艦の汽笛が寝ぼけた獣みたいに鳴った。


 そこに、ひとりの男がいる。


 エヴァン・グレイソン。

 元米陸軍少尉。

 戦場から逃げた男。

 あるいは、戦場に置き忘れられた男。


 彼はまだ知らない。


 自分が拾った少女の名が、どれほど重いか。

 自分の焼くパンの匂いが、彼女にとってどれほど救いになるか。

 自分がもう一度、戦場に戻ることになるか。


 知らないままでいることは、幸福だ。

 けれど、幸福というものは、たいてい長く続かない。


 扉は閉じた。

 世界は切り離された。

 列強は飢え、魔王領は沈黙し、北方諸国は互いの喉元に刃を置いている。


 その中心に、ひとりの少女がいる。


 そして彼女の傍らに、パン屋の男がいる。


 これは偶然ではない。

 少なくとも、僕はそう思っている。


 ただし、運命などという言葉は使いたくない。

 あれは便利すぎる。

 誰かが失敗した理由にも、誰かが死んだ理由にも、誰かが誰かを見捨てた理由にも使えてしまう。


 だから、こう言おう。


 始まりは、まだ名前を持たない。

 影だけが先に伸びている。


 荒野の上に。

 砦の壁に。

 港町の石畳に。

 そして、あの男と少女の足元に。


 やがて彼らは走ることになる。

 国境を越え、戦火を越え、誰かが引いた線を踏み越えて。


 その先に救いがあるかは分からない。

 僕にも分からない。


 分からないから、見届けるしかない。

 そういう役目なのだろう。


 たぶん。

 きっと。

 あるいは、最初からそれすらも、誰かに仕組まれていたのかもしれない。


 ――まあ、いい。

 物語は、もうじき始まる。


 影法師はまだ、振り返らない。

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