一章〜非望〜 六百三十話 郷愁か未練かそれとも······
アリシアとの話が一段落し、ラスクで口の中が乾いたアレルは一人で部屋を出て一階へ水差しをもらいに行く。カウンターにはまだミゲルがいたので、その旨を伝えると直ぐに水差しとコップを乗せたトレイを持たせてくれた。
そうして、再び部屋へと戻るアレルだったのだが、少しアリシアの事を考えてしまう。どういう訳だか、アリシアはこんな自分の事をまるで大切な存在であるかの様に扱ってくれる。出会いから数日、たったそれだけの期間しか一緒にいないはずなのに、そうしてくれる理由がアレルには解らない。しかし、日数だけでいうなら自身もアリシアと同様に、数日だけでアリシア達に対して大切な存在だと思う様になっている。
そのせいか、アレルは不意に期待してしまう。アリシアも、自身と同じく自分の事を大切な存在と思ってくれているのではないかと。
だが、それだけは無いとアレル自身が強く否定する。そんな逆説的に、人の想いなんて推し量るものではないとアレルは馬鹿な考えを頭の中から追い出す。
願えるならば、アリシアが本来いるべき場所へ帰るその瞬間まで支えてやりたい。けれど、それが無理な事は先程の話でも解る通り、アリシアとは育ってきた環境が違い過ぎる。何より、そのアリシアには諦めるなと言っておきながら、自身はこうして心の奥底から湧き上がる願いを必死に押さえつけて無理矢理諦めようとしている。
そんな人物は、アリシアの傍にはいてはならないんだとアレルは自らに言い聞かせる。それに、そんな理由を探さなくてもお前には大切な存在との絆を打ち壊した知らない過去もある。だから、尚の事アリシアの傍にいてはならないんだと、願いを諦める事さえもアレルは正当化していく。
早ければアエシュドゥス、どんなに望もうともそこから先も自身がアリシアと共にいる想像が出来ない。だからきっと、そこが自分達の終着点なのだと思うアレルは、そこまではきっちり送り届けなければならないと固く誓う。
そうして戻って来た部屋の前、アレルは両手が塞がっている為にノックをしづらくなっている。その上、足などでノックをすればアリシア達からは注意もされてしまうので、考えた末にアレルは精神感知を使う。
(瑠璃、アリシアが扉を開けてくれる様に誘導出来ないか?)
──はい、お任せ下さい!
アレルの頼みに、まるで待ってましたと言わんばかりの反応で瑠璃が返事を返してくる。そして、少しすると扉越しにアリシアの声が聞こえてくる。
「······もしかして、アレル?」
「ああ、少し両手が塞がっててさ」
「じゃあ、今開けるね」
ガチャリと、扉が開かれると今度はちゃんとローブを着てフードを被った状態のアリシアが顔を出す。
「ありがとな」
「ううん」
部屋の中へ入ると、パッとアリシアの影から瑠璃が姿を現す。そんな瑠璃へ、アレルは精神感知で声を掛ける。
(瑠璃も、ありがとな)
──いえいえ。
瑠璃は、そう答えつつヒラヒラとアレルの肩へ止まりに来る。それに、アレルは笑みを返しつつ手にしているトレイをテーブルの上に置く。
その後で、扉の施錠をしたアリシアがフードを脱ぎながら椅子に座りに来る。
「ねえ、アレルはルリちゃんに何か言ったの?」
「いや、扉の前で手をこまねいていたら瑠璃から助けようかって声を掛けてくれたんだよ。······それより、誰かも判ってないのに名前を呼ぶのは良くないな。オレオレ詐欺に引っ掛かるぞ」
「何それ?」
アリシアは、聞き慣れない言葉に可愛らしく首を傾げながらもコップに水を注いでくれる。その様子からは、悩んでいる気配は感じられない。
その事に安堵しつつ、アレルはふざけ始めたからにはやり切らないとなと頭を切り替える。
「ほら、さっきのアリシアみたいについ知り合いの名前を呼んで確かめる事ってあるだろ? それを利用して、主にお金を騙し取る俺の世界で横行している犯罪行為の名称なんだ。だから、うっかりなアリシアは気を付けろよ」
「それ、アレルの世界での話でしょ? 私、もしアレルの世界に行ったとしても、そんなのに引っ掛からないもん!」
不満げな表情をしながらも、アリシアは椅子に座ったアレルに水を差し出す。それを受け取ったアレルは、一口水を飲みながら世間知らずのアリシアが元の世界に来たら他にも大変な事がありそうだと笑う。
「もうッ、何で笑うの?」
「ハハッ、何でだろうな?」
ブスっと、あからさまに不機嫌になるアリシアを見て、アレルはやはりアリシアと過ごす時間は楽しいなと感じる。こんな風に、一方的に楽しむのは良くないと解ってはいるのだが、先程の悩みが霧散したのを感じるアレルは増々良くないなと思う。
──ルリは、別に良いと思いますよ。それより、ルリは主様の世界に行ったら気を付ける事はありますか?
そこへ、瑠璃がそんな事を言ってくるので、アレルは少し考えながらも精神感知を使う。
(そうだな······瑠璃は、取り敢えず俺から離れない様にする事かな?)
──はい、その時は全力で頑張ります!
瑠璃の張り切りとは裏腹に、アレルは内心元の世界に瑠璃を連れて行ったら、昆虫研究者やら珍しいもの好きな連中やらと気を付けるものばかりで気が気がじゃなくなると思う。ただ、元の世界でもアリシアや瑠璃と一緒ならば、変わらずに楽しく過ごせるだろうなとも思う。
しかし、元の世界では自身が裏切ってしまった誰かがいる訳で、何をしたのかすら忘れてしまった自身にはそんな資格は既に無いとアレルは自身を戒める。
「······ねえ、やっぱり帰りたい?」
そこへ、郷愁に駆られていると思ったのか、アリシアがどこか不安そうな表情で訊ねてくる。
帰りたいかと、もしも直ぐに還れる状況で訊かれたなら自分はどうするのだろうかと、アレルはアリシアの顔を見ながら考えてしまう。アリシア達に肩の瑠璃、他にもこの世界で出会い助けてくれた人達に何一つ返さないままに元の世界へ還る。そのもしもを考えた瞬間、アレルは自身の胸がざわめくのを感じた。
それが、一体何を起点としたものなのかは判らない。アリシアや瑠璃との別れを拒むものなのか、はたまた恩知らずのまま還る事を気持ち悪く感じているのか、それとも自身が壊してしまった存在がいる元の世界へ還りたくないだけなのか。アレルには、そんな細かい事が自身の事なのに上手く理解する事が出来ない。
それでも、その胸のざわめきが今はまだ還りたくないという感情を含んだものなのだけは理解出来た。なので、アレルは不安そうな表情を浮かべるアリシアへ無理に笑みを作る。
「大丈夫だよ、今はまだ還りたいなんて思えないからさ」
「そう······なの? 無理してない?」
「してないよ。大体、アリシア達の依頼を中途半端に放り出す訳にはいかないからな。それが終わるまでは、岩にしがみついてでも残るよ」
アリシアへそう答えると、アレルはラスクを一枚食べてからコップに残っていた水を全て飲み干す。それから、アレルは椅子から立ち上がると自身のベッドへと足を向ける。
「じゃあ、俺はそろそろ浴室を使わせてもらうよ。アリシアも、食べ過ぎには気を付けろよ」
「うん······」
アリシアの返事を受けて、アレルは自身の荷物から浴室で使うものを手にする。そこで、肩にいた瑠璃も空気を読んでアリシアの方へと飛んでいく。
そうして、アレルはアリシアへ説明出来ない感情を抱えたまま、それについて訊ねられない様にまるで逃げ込むみたい浴室へ入るのであった。




