一章〜非望〜 千七十五話 琥珀の輝き
最後の楔とされている男性──その印付は、背中側の腰の中央付近にあった。その位置的に、アレルは相手が女性でなくて良かったと思うが、こんな時にそんな事を思えるなんて意外と余裕が残っているなとも感じる。
そんな訳で、三度目となった楔からの解放を前にしたアレルは、左手に込める魔力を調節していく。可能な限り負担を掛けず、速やかに解放出来る様にと。
「──ッ!?」
そうして、印付へアレルが左手で触れると男性は糸の切れた操り人形の様に、一言も声を発する事もなくその場へ倒れ込む。そんな男性を、アレルは仰向けに寝かせると、流石に三度目ともなると慣れが出てくるなと感じる。
そして、これで楔となる者がいなくなった靄はどうなるのかとアレルは周囲へ目を向け始める。
最後の楔が無くなり、周囲の靄と瘴気はそれなりに薄くなっていく。それに伴い、周囲の人々の叫び声は相変わらずうるさいが例えようのない不快感の様なものも感じられなくなる。
ただ、一つだけ気になるのは楔とされたまま命を絶たれた人のいた場所で、そこからは靄の中央に向かって渦を巻いて周囲の靄が集められているみたいに見える。
「······野郎」
その状況に、幽鬼君主が靄の中央部で回復に努めていると確信が持てたアレルは、渦巻いた靄が向かう先を睨みながら呟く。
しかし、今のまま靄の中央部へ向かう事は難しく、意識を失っているとはいえ幻覚から脱せたか判らないヘルマンを放置する訳にはいかない。仮に、未だ幻覚に囚われたままだとしたら、目を覚ました後で再び周囲の人達を魔物と勘違いして傷付けかねない。
その可能性がある以上、アレルは一度ヘルマンを担いで靄の外へ出る事を考える。ただ、それでまたも幽鬼君主へ回復する暇を与えてしまう事に、アレルは耐え難い苛立ちを覚える。
それでも、倒す事よりも守る事を優先したいアレルは、逸る気持ちに刃を突き立て騎士剣を鞘に納めると横たわるヘルマンの腕を取り肩に担ぐ。
歩きながら、アレルはその肩にヘルマンが身に着けている鎧のズシリとした重さを感じる。
そうして、ヘルマンの足先で石畳を削るみたいに音を立てつつ、薄くなったとはいえ未だ視界が悪い靄の中を中央部を避けて脱出を目指す。叫び声を上げる人々の合間を縫いながら進むも、アレルはそれを止める事の出来ない現状に歯噛みする。
思い返せば、幻覚に囚われたヘルマンを止められずに二人の命を失わせてしまった。それ以前に、人々を守ろうと幽鬼君主の支配に抗っていたアンドレの事もむざむざ死なせてしまった。その後悔が、申し訳なさが、何一つ覆す事の出来なかった自身の無力さが、肩に掛かる重さを実際のものより重く感じさせる。
──何故、救いたいと願ったものから先に指の隙間からこぼれ落ちていくのだろう?
そんな疑問が、アレルの心に突き刺さり痛みを与えてくるが、今は後悔に沈む時でもないし弱気に潰されると瘴気の影響に呑まれてしまう。
なればこそ、今はやるべき事だけに目を向けてこれ以上は何一つ失わない様にしようと気持ちを切り替える。そうして、アレルはコンラートと別れて靄の中へと突入した辺りまでやって来る。
「······いけるか?」
まずは、何もせずにそのまま靄を抜けようと歩いていくが、とっくに抜けられる距離を歩いても靄を抜けられる気配を感じられない。その事から、やはり幽鬼君主が作り出した靄は内から外に出られない結界の様なものだとアレルは推測する。
ただ、アレルにはその幽鬼君主の本体と目される普通には視えない影を斬った経験がある。それならば、同様にして結界にだって綻びを作る事も出来る筈だと、アレルはヘルマンを担いだまま右手だけで騎士剣を抜く。
そして、アレルは騎士剣へ魔力を流した後で、靄の内外を隔てる境界を風詠で探る。続けて、その境界だと思わしき部分へ向けて騎士剣を二度振ってみる。
「······駄目か」
見ると、騎士剣がなぞった部分の靄だけは払われるが、直ぐに周囲の靄が剣筋状に削られた欠損を埋めてしまう。それを踏まえると、単に魔力を込めただけでは効果が薄い事を知る。
なので、アレルはアンドレの魂を解放させた時の事を振り返る。
枯渇しかけた闘気、纏わせた魔力で無理矢理動かした身体、そして両者を使用したと思われる『荒ぶる魂』が身体を通して使った能力の影響。
それらの事から、アレルは自身が望む事をするには『荒ぶる魂』を刺激すると忠告された、魔力と闘気の同時使用が必要なのだと考える。
「それでも······」
不意に、『荒ぶる魂』へ抱いている不安が頭を過ぎる。
ただ、必要だというのであればやるしかないと、今度こそ『荒ぶる魂』が自身へ牙を剥く可能性すらも受け止めてアレルは魔力と闘気の併用を覚悟する。
光の刃のアマデウスの忠告──既にそれぞれとして独立したものではなく己の中で混合させたものを作り出す、その言葉通りにアレルは魔力と闘気の両者を生み出すと聞いた魂へと意識を集中させる。
とはいえ、それがどこかも解らないアレルではあったが、解らないなりに魂と似て非なるものという認識で目を閉じて風詠を己の内側へと向けてみる。すると、不確かではあるものの僅かに流れの様なものを感じられる部分に気付く。
魂──そこを流れると言われる霊子。
今、感じているものがそれであるならば、何をどうすればそれを自在に操作出来る様になるのだろうか。操作出来たとして、果たして魔力でも闘気でもない何かを生み出す事が出来るのだろうか。
そう思うアレルは、一つやっていない事があったのを思い出す。幽鬼君主の本体、その影の様に視える手を斬り落とした際に意識した事──断ち切る意思。
それを意識した瞬間、アレルが知覚していた流れがより大きな何かへ僅かに拡がる感覚がした。
「──ッ!?」
その、あまりに鮮烈な感覚にアレルは慌てて目を開き、意識を己の内側へと向ける事を止めてしまう。
だが、そうして不意に開いた目には正面に立ち塞がる靄に、それまでは視えていなかった亀裂の様なものが映る。亀裂は小さなものであったが、本能的にそれが靄が作り出す結界の脆い部分なのだと解る。
ただ、それが解るのと同時に今の状態が長く続かないのも理解出来たアレルは、今の状態が維持出来ている間に靄をどうにかしなければと騎士剣を握る右手に力を入れる。
そして、間髪入れずに靄の表面を揺らいで動く亀裂へと騎士剣を振るうアレルの瞳は、幽鬼君主の本体を斬り裂いた時と同様に琥珀の輝きを宿していた。




