一章〜非望〜 千七十二話 否定と嫌悪
そうして、最後の楔となっている人の元へと向かう途中、アレルは一人の血溜まりに沈む女性の姿を目にする。それは、おそらく先程ヘルマンが幽鬼君主だと思い込んで殺してしまった人で、靄を維持する為の楔とされていた人の一人なのだろう。
その証拠に、周囲の靄が濃くなっている上に渦を巻いて靄の中央へ流れているのが視える。
(······すみません)
時間がないのを言い訳に、その場を走り去る後ろめたさからアレルは心の中で女性に対して謝罪する。本来なら、何かしらの弔いをしてやりたい所だが、それをしていたらヘルマンが最後の一人を殺してしまうかもしれない。
そんな焦燥感から、アレルは何の配慮も出来ずに通り過ぎる事に罪悪感を抱いてしまう。それでも、これ以上の犠牲は出さないようにと何度も同じ事を自らに言い聞かせようとするアレルの心に、既に新たな犠牲を出しておいて何をという感情が湧き上がる。
自己否定の言葉──それは、自らの行いを肯定しない事で敢えて己を守ろうとしている表れなのか、それとも罪の意識から逃れようとしてしまう甘えに対する戒めなのか。
本当の所なんて解らないままに、その言葉は更にアレル自身の事を本当はどうでもいい事に傷付いてるフリをする偽善者と罵ってくる。そう、自分はたった一つの約束すら守れない嘘つきなのだからと、覚えていない記憶からの言葉まで引用しアレルの心を抉る。
「······これが、偽善だって事ぐらい解ってるッ」
それでも、例えその想いが本当に自分の心から出てきた訳ではない偽物であったとしても、それで救える何かがあるならば自分は拳も握るし剣だって手に取ってみせる。
そう抗う事で、アレルは瘴気の影響なのか普段よりも聞こえやすくなっている自己否定の声を振り切り、ヘルマンも向かっているであろう最後の楔となっている人の元へと急ぐ。
「見つけたぞ! 今度こそ、お前が本物だな!」
そこへ、アレルが向かう少し先から聞き覚えのあるヘルマンの声が聞こえてくる。その内容から状況を察するに、最後の楔とされている人を前にそれが幽鬼君主に見える幻覚でも掛けられているみたいだった。
ただ、本当にそんな状況であったなら猶予はもう残されていないと、アレルは右手の騎士剣を強く握り石畳を蹴る足に力を込める。
「止めろ、ヘルマン! その人は、ただの人間だッ!!」
叫びながら、音速で届く声を牽制に使い、アレルは距離を詰めるまでの時間を稼ぐ。でも、それは本当に僅かな時間しか作り出す事が出来ない。
ただ、アレルとしてはほんの少しでもヘルマンの気が削がれればそれで良いと、魔力を消費して強化された身体で一気に距離を詰める。すると、アレルの前方に長剣を構える人影と、それを無防備に待つ人影の二つが見えてくる。
「ヘルマンッ、本当の敵は後ろだッ!」
そこで、まだ僅かに自分の方が遅いと感じたアレルは、嘘でヘルマンの注意を背後へ向けようとする。それに、ヘルマンからは姿が見えなかったのが幸いしたのか、声に反応したヘルマンはくるりと背後を振り向く。
当然、そこには敵どころか誰もいる筈がなく、それでもそうして出来た隙を突いてアレルは楔とされている人とヘルマンとの間に滑り込む。続いて、背後には何もいなかった事を確認したヘルマンが再び前を向くと、そこにいたアレルへ向かって舌打ちをしてくる。
「······骸骨戦士か。アレル君の声を模倣してまで私を騙すとはな」
その言葉から、ヘルマンには自身が骸骨戦士に見えているらしい事が判ったアレルは、言葉による説得が難しい事を知る。風詠を通した知覚でも、ヘルマンの魂には何かをされた形跡が視られなかった為に、現在のヘルマンは単に瘴気の影響と何らかの幻覚を見せられている事で正気を保てていないのだろう。
そう思ったアレルは、最後の一人を楔から解放する為にも、ヘルマンには少し気を失っていてもらおうと実力行使で切り抜けようと騎士剣を構える。
「フン、骸骨戦士如きが私の邪魔をするとはな······良いだろう、一瞬で終わらせてやる!」
すると、ヘルマンは普段なら口にしなさそうな傲慢
に聞こえる言葉を吐きながら、アレルの頭部を狙って長剣を縦に大振りしてくる。しかし、そんな相手を見下した様な大振りは軌道が読みやすく、アレルは横に動くだけで軽く躱してみせる。
そして、この調子ならばヘルマンを大人しくさせるのも楽だなと感じた事から、アレルは不用意にヘルマンの懐へ踏み込み左手の掌打でヘルマンの下顎を狙う。
「舐めるなッ!」
しかし、戦闘経験がアレルよりも豊富であろうヘルマンは、そんなアレルの攻撃へ即座に反応して体当たりでアレルの体勢を崩して攻撃自体を潰してくる。更に、その一度のやり取りでこちらの脅威判定の段階を上げたのか、大振りを止めて隙の小さな突きでアレルの顔面を狙ってくる。
なので、アレルも咄嗟に騎士剣では間に合わないと判断し、両腕の前腕を交差させる事でヘルマンの突きを籠手で防ぐ。ただ、そのままでは追撃される恐れもあった為、アレルは間合いを離そうと加減せずにヘルマンの腹部へ前蹴りをお見舞いする。
すると、流石のヘルマンも面食らった様な表情をしながら、たたらを踏んでアレルから離れていく。
「······クッ」
そんな攻防を経て、正気ではないにしてもヘルマンの戦闘力は無力化を狙う側として厄介だとアレルは感じる。
もし、これがヘルマンが相手ではなく完全な敵が相手であったなら、下手な手加減なんてせずに思い切り全力で叩きのめしてしまえば手短に終わらせる事が出来る。しかし、相手はここまで協力をしてくれていたヘルマンであり、そんなヘルマンを傷付けたくないという思いからアレルは決断力と共にその剣筋までもが鈍る感覚を覚える。
ここに来てまで、その様な自らの甘さを突きつけられているみたいな状況に、アレルは自身の精神的な脆さを自覚させられる。今回だけでも、あれ程自分の甘さが首を絞める事になると思い知った筈なのに、それでも切り捨てられない己にアレルは嫌気が差してくる。
「貴様······よく見れば、騎士剣なんて手にしていて普通の骸骨戦士ではないな」
そう口にするヘルマンは、アレル痛感している未熟さなんてお構いなしに、先程の攻防を反省したのか長剣を構える姿に隙が無くなる。
本来ならば、ヘルマンが格下の骸骨戦士だと侮ってくれてる間に意識を刈り取って無力化するべきだった。それなのに、妙な甘さから意識した加減の上に無意識の手加減までが乗った所為で、却ってヘルマンの警戒心を刺激して脇を締めさせる結果になってしまった。
偽善と甘さ──この切り捨てきれない二つのものが、時間の無い状況を更に面倒な方向へと導いている。
その事実が、アレルに歯痒さを感じさせ、どうにかしなければという焦燥感を煽ってくる。
こうして、一つの事に時間を使わされる事自体が幽鬼君主に有利に働く事も解ってる。それにも関わらず、自らの甘さを切り捨てる事の出来ない己の事を弱くて未熟な大馬鹿者だとアレルは嫌悪する。




