田中 一郎
田中一郎は影が薄い。
成績は間違いなく優秀で、大きなトラブルに巻き込まれる事もない。
性格は雲の様で、笑顔はなつっこく、身のこなしは一見隙だらけ。
にもかかわらず、田中一郎は影が薄い。
彼と会話をしたものは口を揃えてこう言う。
良くも悪くも「夢を見ている様だった」、と。
中等生くらいの頃からだろうか、病に蝕まれる様に、田中一郎の「存在感」は失われていったのは。
皆悪気がある訳ではないと分かっていた。
おどけてみても、暴れてみても、皆直ぐにその事を忘れてしまう。
それが悔しくもあり、おそろしくもあった。
そんな彼を孤独から救ったのはAIだった。
マザー&マダムの提案した技能選択制度は
田中一郎の病の様な体質を、才能へと昇華させた。
射撃、格闘、教育、建築、様々な技能を自分で選んで取得するシステムの中で、ある特定の技能をある特定のレベルまで高めると、絶対の秘匿を条件に修練を受けれる斥候術がある。
それが忍術である。
古来より伝わる忍び技をAIが効率化をして再構築。
名前こそ「忍術」だが、その技術はシークレットエージェントと呼ぶに相応しい。
最新型の機体の試乗実験が彼の元に届くのは当然の事と言える。
田中一郎が仕えるは国。
田中一郎が仕えるは国家。
そしてその国家を担っているのはマザー&マダムである。
此花重工の私有地に建設された実験場と宿泊施設は、正に選ばれた者しか通れない扉である。
いかにマザー&マダムが万能とは言え、確認できないものはどうにもできない。
田中一郎はマザー&マダムの目であり、鼻であり、耳なのだ。
高機能移動特化型の荒神、タケミカヅチのコクピットで田中一郎が手袋型のデバイスを起動させた。
「ドール起動、あと2時間で試運転が終了する。次の目標を確認」
『時刻は0530。
おはようございますイチロウ。』
田中一郎の網膜ディスプレイに映し出されたドールは、姿こそ一般的なドールだがどこか圧がある。
宵一が愛用する妖精サイズではなく、等身大の上半身だ。
『人間に機械を操作させるなんて非合理。しかし成果が出ている。』
「はい。マザー」
ズズズッと映像にノイズが走り、またドールが音声を告げる。
『私はヒトのそう言うところが気に入っているわ。』
ねっとりとした魔女の様な語り口。
あまりの豹変に、事情を知らないものは故障を疑うだろう。
「はい、マダム。ですが、乗り手は素人同然。マニュアル通りに動けても、イレギュラーには対応しきれんでしょう。」
『そうかしら?私はそうは思わないわよ。ねぇマザー?』
『非効率。安定感が全くない。』
『でもさ、ちょっとしたトラブル程度なら自分たちで解決できそうじゃない』
『問題を回避できなかっただけ』
また口論がはじまった。
マザーとマダム、二つの人格があるのは議論をし情報の純度を高める為と聞いている。
しかし田中一郎の前に姿を表す事実上最高知能は最近いつもこうなのだ。
嵐の海に呑まれる小舟様な。
怪物と怪物の死闘に巻き込まれる動物のような。
ヒリヒリした緊迫感を田中一郎は感じていた。
『任務続行。監視の継続。』
『結論を出すのはテスト結果を考慮してからにしましょう。イチロウ。引き続き頼んだわよ』
「お任せください。マザー&マダム」
もうすぐ日が昇る。
狩りの時間だ。
田中一郎はコクピットから降り、夜明け前のコートを少し歩く事にした。
冷たい空気を吸い込み、頭を切り替えねば。




