第86話 【Day 6裏】トップアイドルのひそやかな失恋
病院の廊下を、カツカツとヒールの音を響かせながら、橘エリカは歩いていた。
「……はぁ。私、何やってるんだろ」
深々と被った帽子の下で、自嘲気味に呟く。 今日は、交通事故に遭った実兄のお見舞いに来た。それは本当だ。 だが、心のどこかで期待していた。 この病院には、もう一人――自分にとって特別な人、小暮 譲(子狐 ルル)が入院していることを知っていたから。
(カゲさんの手配した病院だし、セキュリティも高いから、ここだとは思ってたけど……)
裏サミットのチャットで、カゲが「私が看病します」と宣言した時、エリカの胸にはチクリとした痛みが走った。 それは嫉妬というには淡く、焦りというには遅すぎる、名状しがたい感情だった。
「……会えたら、いいな」
兄の病室へ向かう途中、彼女は少しだけ遠回りをして、売店の方へと足を向けた。
◇
そして、偶然の遭遇。 パジャマ姿の小暮と、彼に寄り添う栞。 二人の姿を見た瞬間、エリカの中で燻っていた「何か」が、音を立てて鎮火した。
(……ああ。敵わないなぁ)
挨拶を交わし、立ち去る背中を見送りながら、エリカは痛感していた。 自分は、「小狐ルル」という理想のアイドルを追いかけ、その中の人である小暮先輩に、どこか「理想のお兄ちゃん」のような幻想を抱いていた。
けれど、カゲさんは違う。 彼女は、弱って、ボロボロになって、パジャマ姿で立っている「等身大の小暮譲」を、何よりも愛おしそうに見つめていた。 その眼差しは、ファンのそれではなく――生涯を共にするパートナーのそれだった。
「……お似合いすぎですよ、先輩」
エリカは小さく呟き、自分の胸に手を当てた。 不思議と、悔しさはなかった。 むしろ、大好きな映画のハッピーエンドを見た後のような、清々しい幸福感と、少しの寂しさが入り混じった気持ち。
◇
「おいエリカ。なんだその顔は」
その後、本来の目的である兄の病室にて。 ベッドの上でピンピンしている兄が、不服そうに声をかけた。
「別にー? 兄貴が生きててよかったなって」
「嘘つけ。なんか『いいもん見た』みたいな顔してやがる」
「うるさいなぁ。リンゴ剥いてあげないよ?」
兄との軽口を交わしながら、エリカは窓の外を見た。 夕焼けが、街をオレンジ色に染めている。
(……私も、したいなぁ)
あんな風に、誰かを丸ごと愛して、愛されるような。 そんな「素敵な恋」を。
◇
病院を出たエリカは、スマホを取り出した。 このモヤモヤした、でも前向きな気持ちを、誰かに聞いてほしかった。 でも、真面目なリョウタさんや、忙しいフクロウさんに言うのも違う。
(……うん。あの人なら、適当に聞いてくれそう)
彼女は、裏サミットの連絡先から『Admin』を選び、メッセージを打った。
『ねえ、アレン。日本にいるんでしょ?』
すぐに既読がつく。
『ああ。どうした、迷える歌姫』
『ちょっと失恋(仮)しちゃってさー。ムシャクシャしてるから、高いもの奢って!』
『……フン。安い御用だ』
世界最強のCEOからの返信は、相変わらずぶっきらぼうで、でも甘かった。
『ちょうど今夜は空いている。 迎えの車を回そう。……愚痴くらいなら、聞いてやる』
『やった! さすがCEO! 大好き!』
エリカはスタンプを送信し、スマホをポケットにしまった。 空を見上げる。 一番星が光っていた。
「……早く元気になってね、ルルちゃん。 私も頑張るから!」
国民的アイドルは、マスクの下でニカッと笑い、軽やかな足取りで歩き出した。
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