第66話 【何者でもない父】ですが、推しが「エレベーターのドア開閉音」を聴き比べる配信を始め、通勤のトラウマで困惑した
「……はぁ。やっと終わった」
金曜日の午後22時。 田中 良太は、残業を終えてオフィスのエレベーターホールに立っていた。 胃の痛みと肩こりを抱え、疲れ切った体でボタンを押す。
『ポーン。上に、参ります』
無機質なアナウンスと共に、ドアが開く。 良太にとって、この音は「戦場」への護送車の音であり、同時に「解放」への合図でもあった。 毎日毎日、満員電車と会社の往復。 エレベーターという密室は、彼にとって息苦しい社会の縮図だ。
「……早く帰って、ルルちゃんの配信で癒やされよう」
彼はそれだけを希望に、家路を急いだ。
◇
自宅でシャワーを浴び、キンキンに冷えたビールを用意する。 この瞬間のために生きていると言っても過言ではない。 ヘッドホンを装着し、いつもの癒やしの空間へ。
『こんこん! こんばんは、ルルだよー!』
画面に小狐ルルが現れる。 さあ、今日はどんなゲームかな? 雑談かな?
『今日はね、みんなが毎日聞いてるけど、実はとっても奥が深い「エレベーターのドア開閉音」を聞き比べちゃうよ!』
「……ぶふっ!!」
良太はビールを吹き出しそうになった。 エレベーター? よりによって、さっきまで自分が閉じ込められていた、あの箱の音?
『まずはこれ! 王道の三菱製、オフィスビルによくあるタイプ! いっくよー!』
『……ポーン(到着音)。 ……ガァー(ドアが開く音)』
その音がヘッドホンから流れた瞬間、良太の背筋がビクッと跳ねた。
「……うっ!」
条件反射だ。 パブロフの犬のように、その音を聞いただけで「出勤時の憂鬱」と「急な呼び出しの緊張感」がフラッシュバックする。 胃が……胃が痛い。 癒やしの時間のはずなのに、なんで俺は自宅で「出勤」している気分になっているんだ?
◇
しかし、ルルは楽しそうだ。
『聞いて聞いて! この到着音の「ポーン」っていう余韻! 「お疲れ様、よく来たね」って優しく迎え入れてくれてるみたいで、安心感があるよねぇ~』
「……いや、違うぞルルちゃん」
良太は画面に向かって、真顔でツッコミを入れた。 「それは『さあ働け、ここがお前の牢獄だ』っていう宣告の音なんだよ……」
『次はこれ! 昭和のデパートとかにある、日立製の古いタイプ! ……チーン! ガラガラガラ……』
『うわぁ~! 最高! この「チーン!」っていうアナログな鐘の音! そして、ちょっと重たそうにドアが開くモーター音! 一生懸命お仕事してます感があって、健気で泣けてくるよね……!』
ルルはうっとりと聞き入っている。 チャット欄の天才たちも、それぞれの視点で盛り上がっていた。
『admin: 波形解析完了。このコッキング音、1980年代のソレノイド駆動特有のものだな』
『ドクター: 油圧式か。この独特の振動音、実にノスタルジックだ』
『リョウタ: (……お前ら、正気か? これは「閉まりかけのドアに鞄を挟んで無理やり乗ってくる部長」を思い出す音だぞ……)』
良太だけが、サラリーマンとしてのトラウマに苛まれていた。 彼らにとってエレベーターは「興味深い機械」だが、良太にとっては「生活のかかった現場」なのだ。 認識の乖離が凄まじい。
◇
そして、トドメの一撃が来た。
『最後はこれ! ドアが閉まる時のアナウンス! ……ピンポンパンポン♪ 『ドアが、閉まります。ご注意ください』』
『ん~っ! たまらない! この「閉まります」の、ちょっと突き放すような冷たさと、でも安全を気遣ってくれる優しさ! まさにツンデレだよね! この箱の中に、二人きりで閉じ込められたくなっちゃうなぁ……』
「……」
良太は遠い目をした。 閉じ込められたくない。絶対に嫌だ。 そのアナウンスは、彼にとって「脱出不可能」「残業確定」「終電逃し」の象徴でしかない。
「……ルルちゃん。 君は、満員のエレベーターで、奥のボタン係をやらされる悲哀を知らないんだね……」
彼は、推しの無邪気さが眩しく、そして少し羨ましかった。 日常のストレス源すらも「萌え」に変換してしまうその感性。 もし自分も、あのアナウンスを「ツンデレ」と捉えることができれば、毎日の通勤が少しは楽しくなるのだろうか?
◇
翌朝。
「……はぁ。会社か」
オフィスのエレベーターホール。 良太は憂鬱な顔でボタンを押した。
『ポーン。上に、参ります』
いつもの音だ。 しかし、その瞬間、彼の脳裏に昨夜のルルの言葉が蘇った。
(……『優しく迎え入れてくれてるみたい』、か)
ドアが開く。 『ドアが、閉まります』
(……『ツンデレ』……ねぇ)
良太は、苦笑しながら乗り込んだ。 不思議と、いつもの胃の痛みが少しだけマシな気がした。
「……まあ、今日も一日、この箱に付き合ってやるか」
彼はネクタイを締め直し、戦場へと向かった。 推しの狂気的な配信のおかげで、日本のサラリーマンが一人、ほんの少しだけ救われた(?)瞬間だった。
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