”陰キャの姫” 森野未影
「暑い……」
うだるような暑さの中、俺は大学から家へと向かって自転車を漕いでいた。夏の日差しは激しく、立っているだけで汗が噴き出してくるというのに、移動しているのだからなおさらだ。とっとと家に帰ってシャワーでも浴びて冷房をつけよう。それを唯一のモチベーションに自転車を漕ぐ。辺りには俺と同じように試験帰りの学生や、試験を終わらせて遊びに行く学生で満ちていて賑やかでやかましい。
「くそ、大体何で四回にもなって試験を受けにいかないといけないんだ」
俺はぶつぶつと毒づく。
基本的に大学では一~三回生の間に単位を取り終え、四回生の前半(もしくは三回生の後半)で就活をし、残りで卒業論文を作成するという流れになると思う。大学院に行く人はまた違うのかもしれないが、文系就職組は大体こんな感じだろう。
そんな中見事に俺は就活に失敗し続け、ついでに三回生の後期のときに単位をとるのにも失敗していた。四回生になって内定も単位も両方足りてないのは俺ぐらいではないか、そんな思いに囚われる。もっとも、単位の失敗は一回生の時から順調に積み重ねてきた失敗なので今更カバー出来るものでもなかったが。
そんなことを考えつつ自転車をこいでいると、ふと道を歩いている一人の女子大生に目が留まった。涼し気な白いワンピースに麦わら帽子をかぶり、清楚そうな黒髪を長く伸ばしている。思い出の中の少女がそのまま大人になったかのような容姿に、信号が赤になったこともあって俺は思わず見とれてしまった。
が、それが良くなかった。すぐに茶髪にピアスをした軽薄そうな男が現れて彼女に腕を絡める。彼女の方も嬉しげに男と目を合わせる。
俺はそれを見てそっと目を背けた。
「クソが」
勝手に思い出と重ねて勝手に嫌な気持ちになっているだけというのは分かっていた。それでも俺は目の前の女への嫌悪感と、勝手に彼女を見て勝手に嫌悪した自分への嫌悪を抑えることが出来なかった。
「あー、さっさと家に帰ろ」
今の俺にとって一人暮らしの下宿は唯一の安息の地であった。
俺はさらに数分ほど自転車を漕いでようやく下宿に到着する。すぐに部屋の冷房をつけてユニットバスに駆け込む。汗でべたべたしたシャツを脱いでシャワーを浴びるとようやく生きた心地になった。
幸い今日はバイトも就活もない。本当は今の状況を考えればもっと面接等を入れるべきなのだろうが、今はそんな気分にもなれなかった。
「とりあえず少し気分転換して、それから求人サイトを見てみるか」
俺が浴室を出ると、先ほどつけた冷房のおかげですでに部屋の中は涼しくなっていた。さらに冷蔵庫で冷やしておいた麦茶を飲めば完璧である。もう外のことなど完全に忘れた。今日はゆっくりして、気が向いたら夜に企業探しと明日の試験勉強でもするか。
俺の趣味はいくつかある。一つ目はオンラインゲームだったが、最近就活などの出費が多く、課金出来なくなったため少し離れている。一度課金の味を覚えてしまったゲームは無課金だと物足りなさが先立ってしまった。また、はまっているときは毎日デイリーミッションをこなしてスタミナを消費していたが、一度そのルーチンを外れてしまうと再開するのが億劫になってしまう。
二つ目はアニメを見たり小説を読んだりとあったが、アニメも小説も最近は似たようなものばかりが多く少し飽きてしまっていた。
そんな俺が出会ったのがVライバーという存在である。Vライバーというのはバーチャルライバーの略称で、動画投稿や配信の際に主が顔出しするのではなく、表情などに連動して動く絵(ライブ2Dと呼ばれる)や3Dを利用して配信を行う。
一番多いのはオタク受けする美少女やイケメンキャラに扮した者だが、他にも犬や猫といった動物や、果てはよく分からない生き物になって配信している者までいる。また、人によっては演じているキャラクターの設定に沿ったロールプレイのようなものまでしている。
俺が出会ったのがすでにVライバー全盛の時代だったからか、ネット世界にはすでに無数のVライバーが誕生していた。一説によると今では一万近くの数がいるという。個人だけでなくVライバーを育てる企業も参入し、百人以上ものVライバーを抱える企業や、チャンネル登録者十万人以上のVライバーを数十人抱えるような企業もある。
俺はそんなVライバーの配信や動画を手当たり次第あさり、自分の好みに合う数人を見つけてひたすら追いかけている。企業探しや勉強などしたくないことをするときは雑談配信や歌配信をBGM代わりにして無理に乗り切ったことも何度かあった。
「とりあえず今やってる生放送は……お、八月だけあって昼間でも結構やってるな」
八月というのは小中高は夏休み、大学生も試験が終われば夏休みということで、普段は夕~夜放送が多いVライバーも昼間から生放送をしていることがある。まあ、中には何もない日の平日の昼間から長時間配信をしているようなVライバーもいるが。
「お、森野もやってるのか。それならさっさと試験終わらせて帰れば良かったな」
俺は後悔しながら森野未影の生放送を開く。ちなみに大学の試験は答案が完成した者から退出が許可されることが多く、その気になればかなり早く帰ることが出来る。
「今回は数時間前の予告になってしまったのにこんなにたくさんお便りありがとう~。ただ、夏休みということで皆楽しいはずなのに、お悩み相談のお便りがこんなに届くのは複雑な気分かな」
画面を開くと早速森野の声が聞こえてくる。
森野未影は女子高生Vライバーである。ブレザーの制服と少し寝ぐせっぽい黒髪、少し眠そうな瞳が印象的で、美少女的な可愛さよりは丸くなっている猫のような可愛さがある。ちなみに、おそらく中の人は女子高生ではない。
俺は初回配信から追っていた訳ではないが、アーカイブを見るに最初は可愛い女子高生路線でやっていこうとしていたと思われる。
しかしあるとき、うっかり話してしまった『弁当は早弁して昼休みはすぐに図書室に直行して読書している』というエピソードから陰キャが発覚し、それ以後はすっかり陰キャ系Vライバー(そんなジャンルがあるのかは知らないが)として定着しており、一部では『陰キャの姫』とも呼ばれている。
ちなみに本人によると、単に読書好きのエピソードとして話しただけで格別陰キャアピールのつもりはなかったという。『陰キャの姫』も誰かが勝手につけたのが定着しただけだ。本人は言及してないので嬉しいのかもよく分からない。
何にせよ、その事件をきっかけに彼女は一部の暗い青春を送る(もしくは送った)人たちの支持を得て、個人でやってるVライバーとしてはそこそこの人気を獲得した。
「あーあ、試験さえなければお便り送れたかもしれなかったのにな」
ちなみに俺が彼女を追い始めたきっかけは彼女が陰キャだからではない。彼女は声だけは(と言っては失礼だが)きれいで、その鈴を鳴らすような声が記憶の中のミカに似ているような気がして俺の心を揺さぶったからである。
ただ、当然ながら彼女は森野であってミカではない。配信を見続けているにつれて俺は現実を理解していった。見始めたきっかけは不純だったが、今では普通に配信の内容自体を楽しんで見てしまっている。
「では早速お便りを読んでいこうと思うよ。まず一通目。最初だからまずは軽めのから行こうかな。えー、ポン酢さんからです。『最近、晴れの日が辛い』」
森野がお便りを読み上げるとすぐに画面上のコメント欄に新たなコメントが流れてくる。
『重いじゃん』
『分かる』
『え、これで軽いの?』
『天気とかどうでもよくない?』
『確かに分量は軽いな』
一通目に選ばれたお便りの内容に、コメント欄もドン引きする。心なしか森野もあちゃー、というような顔になる。
重いって言われてるけどこれそういう深い意味があるのだろうか? でも言われてみれば、単に暑くてだるい、ていうだけだったらわざわざお悩み相談に送ってこないよな。俺も今日みたいな日は本当に嫌いではあるが、自然現象なので諦めるしかない。
「文章が短いからうっかり軽いと思って選んじゃったけど全然軽くないねこれ。でも読んじゃった以上後回しにも出来ないし、これから始めるか。とりあえずみんなこれ分かる?』
森野は自分の意見を述べる前にコメント欄に問いを発する。
『分かる』
『分からん』
『暑くていやだ』(俺のコメント)
『分かる、何か後ろめたい』
森野が問いかけた瞬間にコメントが『分かる』『分からない』で埋まる。数を見ていくと、やや前者の方が多いだろうか。おそらく『分かる』というのは暑くていやだということではないのだろう。
「多分これ分かるって人の方が多いのはここだけだと思うよ?」
そんなコメントたちを見て森野は苦笑する。
「暑いからって人もいると思うけど別に曇りの日だって涼しいとは限らないし、雨の日は暑い上にべたべたするから過ごしやすさだけでは一長一短だと思う。それにそれが悩みだったら暑い日が辛いって書きそうだし。問題はそういうことじゃなくて、あ、何か後ろめたいって書いてくれた人! それだよそれ。文章短すぎて間違ってたらごめんだけど、このお便りくれた人の辛さも後ろめたさってところに起因してると思う」
森野はたったこれだけの文字数から彼の(そもそも男かどうかすら分からないが)悩みを推測していく。
「で、あえてあなたが感じた後ろめたさを言語化するとすれば、」
『後ろめたい分かる』
『言語化しないで(懇願)』
『雨降ってなければ何でも良くね?』
森野の言葉に色々なコメントが流れる。正直俺もピンと来ている訳ではないので聞き入ってしまう。
「何でもいい方はそのまま強く生きて。何とも思わないならそれが一番だから。あと、これ配信だから言語化はするから。晴れの日を後ろめたく感じるのは、そもそも私たちの中に晴れていると外に出ないといけない、もっと言えば『晴れているのはいい日』っていう価値観が刷り込まれてるからじゃないかな。逆に雨の日に家で読書してると妙に落ち着くことない?」
『あー、確かに』
コメント欄は共感の声で満ちていく。そう言われると確かに俺もしっくりくる。幼いころから「晴れてるから外で遊ぼう」みたいなことを言う大人や友達が多かったし、実際幼いころの俺はそうだったこともあって、晴れていると外で遊ぶものだ、という価値観が無意識のうちに刷り込まれていたのだろう。
「そそ。晴れてるのは“いい日”だから何か分からないけど、楽しいこととか有意義なことをしないといけないみたいな価値観があるんだよ。でもそんなことやろうと思って出来ることではないから嫌な気持ちになるんだよね。それに幼いころは外で走り回ってればとりあえず楽しいみたいなところはあっても、成長してくるとそうではなくなってくるからね。特に今この配信見ているような人は」
『うるさい』
『余計なお世話だ』
『俺はこの配信見ていてめっちゃ楽しいから勝ち組』
『やめろ、心に来る』
急にコメントの流れが速くなる。正直俺は暑くてうっとおしいというぐらいにしか思っていなかったからそういう考え方は新鮮だった。
ただ、価値観一つで急に憂鬱になるという気持ちは分かる。俺だって別に四回生でちょうど単位を取りきるものだと思っていたら、今日試験があったのも何とも思わなかっただろうしな。
「私が住んでるところも晴れてるけど、私も皆が配信に来てくれてるから、家に引きこもってパソコンに向かってしゃべっていても心の平穏が保ててるところあるよ。これで視聴者三人とかだったら折れてたかもね」
そう言って森野は微笑む。ライブ2Dのシステムは配信者の表情の動きなどを感知して絵が動いているらしいので、おそらく画面の向こうで森野も笑っているのだろう。
『俺は三百六十五日二十四時間どの時間でも、森野が配信してくれたら見るよ』
『自分も今日この配信なかったら心折れてたかも』
『年中休日ニキは早く就職して』
『いや、これ全部俺の複垢で実は視聴者三人かもしれないけどな』
どうでもいいが、何となく天気予報を見てみたら日本全国晴れのようだった。
何というか、うまく言葉には出来ないが森野のこういう感性は好きだった。
そして、森野はそこまではっきりと口にはしなかったが、晴れが辛いというのはあくまで刷り込みに過ぎないからあなたは悪くない、と言ってくれてるように感じた。別にそれで悩んでいるのは俺ではないのだが、それでも何となく安心する。
「ほら、一通目から何かすごく重くなっちゃった。ああいうのは後半以降にとっておきたかったんだけどね。ていうか最後でも良かった。そんな訳で次こそ軽いの選ぶから。えーと……はいこれ。『冷蔵庫の整理してたら賞味期限一年前のチョコレート見つけた。森野さんだったら食べますか?』」
言われてみれば俺も冷蔵庫手前の方しか使ってないから奥がどうなってるか怪しいんだよな。後で整理するか……いや、やめておこう。今はまだ真実と向き合うべきときではない。
『草』
『一年前なら食べられる』
『はよ捨てろ』
『俺は三年前のやつ食べた』
『賞味期限なら破っても大丈夫』
コメント欄のテンションも一気にしょうもなくなる。落差がすごいな。
「これこれ。最初はこういうのから入りたかったんだよね。えーっと、ミケルンさんありがとう。まずこの話をする前に大前提として、うちの冷蔵庫はきれいに整理されてるから賞味期限切れのものなんて理論上存在しない。だからこれはあくまで仮定の話として答えるから」
森野は仮定の話、というところをやけに強調して話し出す。
「まずこの質問が食べた方がいいですか、じゃなくて私だったら食べるかどうかっていうところがミソなんだよね。私あんまり胃が強くないから食べて大丈夫な自信はあんまりないんだけど、捨てるのってもったいなくない? 私のミスのせいで放置されてたっていうのに。個人的に食べ物を捨てるのってもったいなくてあんまり好きじゃないから食べた……じゃなくて私なら食べるって言おうとした!」
『食べるんじゃねえか』
『やっぱり冷蔵庫の奥に眠ってたのかw』
『食べ物を大事にするのはいいことだと思う』
『食べたで草』
「違うって、今のはただ言い間違えただけだから。うちの冷蔵庫に賞味期限二年前のお菓子なんてないから!」
森野は必死で否定している素振りを見せているが、おそらく本人としてもその方が余計にそれっぽいと思うからやっているのだろう。もしかしたら口を滑らせたのもわざとかもしれない。




