第9話 おじい様
車が大学病院のエントランス脇に滑り込むと、沙紀は転がるように車から降り、エントランスを駆け抜けた。夜中を過ぎていたが、連絡を受けていた職員が無言でドアを開けた。夜の空気が冷たい。
エレベーターに飛び乗り、六階のボタンを押す。指先がわずかに震えていた。
扉が開くと、病室の前に親族が何人かたむろしていた。重苦しい空気が廊下に淀んでいる。母親の久美子が沙紀に気づき、急ぎ足で寄ってきた。
「早く来なさい」
母親が病室のドアを開け、沙紀は祖父のベッドに駆け寄り、膝を折った。点滴の管が繋がれた、祖父の細い手を、両手でそっと握った。
「おじい様……!」
祖父は薄く目を開け、弱く、しかし優しく微笑んだ。
「おじい様! おじい様!」
ベッドの脇には祖母と叔父が無言で立っていた。病室の空気は重く、消毒薬の匂いと終わりの気配が混じっていた。
沙紀の頭の中を、今日起きた出来事が駆け巡った——病院で知った妊娠、拓也に突き付けられた離婚届、麗奈の嘲るような顔。そして今、目の前に横たわる祖父。
「わたし……わたし……」
言葉が喉に詰まった。言いたいことは山ほどあった。だが、何から口にしていいのか分からなかった。
意識していなかった言葉が自然とこぼれ落ちた。
「わたし、赤ちゃんができたの」
祖父はかすかに目を細め、沙紀と視線を合わせた。
「おじい様の曾孫よ。顔を見てあげて欲しいわ」
祖父は小さくうなずいた。その仕草はひどく弱々しく、すでにこの世のものではないかのようだった。
「私、負けない。がんばるから」
その瞬間、頰を一筋の涙が伝った。彼女は祖父の細い手を強く握りしめた。
そばにいた医師が、沙紀の母親に目で合図を送った。母親は静かに沙紀の肩に手を置き、耳元で囁いた。
「時間よ」
「おじい様!」
母親は沙紀を引きはがすようにして立たせた。沙紀は最後に叫ぶように言った。
「わたし、何があってもくじけないから!」
医者が慌てた様子で祖父の容態を確認し始めた。沙紀は母親に引きずられるようにして、病室を後にした。




