第8話 署名
床に落ちていた沙紀の携帯電話が、乾いた音を立てて鳴った。
拓也が屈んでそれを拾い上げ、へたり込んでいる妻に差し出した。画面には母親の名前が表示されている。沙紀は震える指で通話ボタンを押し、耳に当てた。
「もしもし」
いつもの冷静な母の声だった。
「お母さん……!」
「すぐにおじい様に会いに来なさい。あと五分以内に迎えの車がそちらへ着くはずよ」
「今、拓也と麗奈がここに……」
「いいから、早く来なさい」
母親の声は、すでに事情の大半を知っているように落ち着いていた。沙紀は「わかった」と答え、電話を切った。
携帯を握りしめたまま、彼女は青白い顔で拓也を見上げた。拓也は事務的な口調で告げた。
「サインしろ」
彼はクリップで下敷きに固定した離婚届とペンを妻に突きつけた。
沙紀は大理石の冷たい床に離婚届を置き、震える手で妻の欄に「西宮沙紀」と署名した。文字はひどく乱れたが、それでも最後まで書ききった。
「荷物はまとめて実家に送ってやる。もう二度と戻ってくるな」
沙紀が離婚届を差し出すと、同時に激しい吐き気に襲われた。胃の内容物が大理石の床に広がり、酸っぱい匂いがダイニングルームに充満した。
涎と涙を垂らしながら、沙紀は拓也の顔を見上げた。腹の子のことを、ようやく告げようとしたその瞬間——
「拓也、ゲロで靴下が汚れちゃったわ」
麗奈の甲高い、甘ったれた声が明るく響いた。
ちょうどそのとき、玄関の呼び鈴が鳴り、続いて激しいノックの音がした。運転手がドアを開けて入ってきた。
「沙紀お嬢様をお迎えに上がりました」
拓也は素早くダイニングルームのドアを開け、玄関に向かって声をかけた。
「こっちだ」
運転手が部屋に入るなり、拓也は短く命じた。
「ここにいる。早く連れていってくれ」
そう言い終えると、彼は麗奈の腰を引き寄せ、沙紀の目の前で深くキスをした。まるでこの夜の最後の幕を飾るかのように。




