第3話 離婚届
ようやく拓也が帰宅したのは、夜中の十時を過ぎてからだった。
「おかえりなさい」
沙紀は玄関ホールで夫を迎えた。
「ああ」
拓也の返事は事務的だった。沙紀は、疲れているだけだと自分に言い聞かせた。
框を上がり、スリッパに履き替えた夫の肩に、そっと手を置く。言葉をかけようとした瞬間、拓也は邪魔な枝を払うように身をかわし、廊下を先へ進んだ。沙紀の指は空を掴んだ。
両親が早くに離婚し、気の強い母親のもとで育った沙紀は、今も男性への接し方に疎い。気分屋の拓也なら、こうした素っ気なさも珍しくないと思い直し、努めて明るい声をかけた。
「夕食はまだでしょう。用意してあるのよ」
拓也は手を洗うと、無言でダイニングルームに入った。花が活けられ、シャンパンが冷やされ、ローストビーフを中心にした手の込んだ食卓を一瞥する。その目に、感慨はなかった。
沙紀は、家に仕事を持ち込まないはずの夫が、書類ケースを持っていることに気づいた。
再び肩に手をかけ、体を寄せる。甘えるというより、すがる仕草だった。
「大事な話があるの」
そのとき、玄関のドアが開く音がした。続いて、明るく甲高い女の声がホールに響いた。
「拓也、お姉さんは家にいた?」
沙紀が戸惑う間もなく、女がダイニングルームに入ってきた。腹違いの妹、麗奈だった。
沙紀はとっさに拓也の腕につかまる。だが拓也は妻を無造作に押しのけ、麗奈の方へ一歩出た。沙紀はバランスを崩し、大理石の床に尻餅をついた。
拓也は倒れた妻を見ず、麗奈の腰に手を回した。
「お久しぶり。沙紀お姉様」
麗奈の唇が、優雅に歪んだ。沙紀がテーブルに手をかけて立ち上がろうとした瞬間、めまいと吐き気に襲われる。妊娠したばかりの体が、抗議するように波打った。
「あなたが、なぜここに?」
麗奈は大げさに手を差し伸べ、助けるふりをしてテーブルクロスを手前に引いた。花瓶、皿、グラス、ワインクーラーが音を立てて床に落ち、カルパッチョのソースが沙紀の頰と胸に飛び散った。
「あら、ごめんなさい。お姉様」
よろめいたふりをしながら、麗奈は沙紀を見下ろした。
「大丈夫か?」
拓也が麗奈を気遣った。
麗奈は膝をついたまま、茫然とした顔を拓也に向ける。瞳の奥に、かすかな勝利の色があるのを、沙紀は見逃さなかった。
「早く立て。話がある」
拓也は書類ケースを開け、一枚の紙を沙紀の目の前に突きつけた。離婚届だった。日付も理由も拓也の署名もすでに書き込まれ、空白なのは妻の氏名欄だけだった。
「早く座ってサインしろ」




