第2話 口止め
顔には出さなかったが、沙紀は見合いで結婚した拓也に、強い愛情を抱いていたわけではなかった。両親が早くに離婚し、父親のいない少女時代を過ごした彼女にとって、理想の男性は、頼りになる「父親のような存在」だった。だが、溺愛する祖父が選んだのは、二歳年下のお坊ちゃん育ちの拓也だった。
子供ができて状況は変わった。沙紀は、この屋敷でお腹の子を育てることだけを、ひそかな生きがいとしようとしていた。
拓也は、聞かされていた帰宅予定を過ぎても戻らなかった。
沙紀はため息を殺し、社長室直通の番号を呼び出した。
「沙紀よ。社長はいるかしら」
「現在、来客中でございます」
秘書の高橋徹の声は、いつものように恭しい。だが、どこか距離があった。
「どれくらいかかるのかしら」
「よくわかりかねます」
「商談なの?」
苛立った沙紀は、つい高飛車になった。
「ちょっと……違うようです」
徹は言葉を濁した。沙紀は、この男が何かを隠していると察した。
「だれ?」
「申し訳ありませんが、私からは申し上げられません。社長に直接お聞きください」
「徹、私にも言えない相手って、誰なの?」
沙紀は答えを迫った。
短い沈黙のあと、徹は息を殺すように囁いた。
「……拓也社長に、固く口止めされています。……女性の方です」
電話は、そこで切れた。
沙紀はスマホを握ったまま、立ち尽くした。指の関節が白くなるほど力が入っていることに、自分では気づいていなかった。この夜が、ただの遅い帰宅ではないことを、彼女はすでに悟っていた。




