第1話 帰宅
沙紀は病院から、自分で運転して帰宅した。メルセデスのハンドルを握る指先は、見た目ほど緊張していない。だが内心は、わずかにざわついていた。
ガレージに車を滑り込ませ、ヒールの音を高らかに響かせながらアプローチを歩く。胡蝶蘭の白い花弁があしらわれたガラス戸は、彼女の属する世界の虚飾をそのままに見せていた。
玄関ホールは吹き抜けで、無人の劇場のようにがらんとしている。沙紀は立ったまま膝を折り、左右の靴を無造作に脱ぎ捨てた。
スリッパに履き替える動作も、三年の結婚生活ですでに様式化された儀礼にすぎない。ダイニングキッチンに入り、椅子を引いて腰を下ろすと、淡いオレンジ色のバッグからスマートフォンを取り出し、母親に電話をかけた。
「今、病院から帰ってきたの。子供ができたわ」
母親の声は、予想どおり、満足げに響いた。
「頑張ったわね、沙紀。結婚して三年かしら」
「ええ」
沙紀は喉の奥に込み上げるものを、ぐっと押し殺した。涙を流すには、まだ早すぎる。
母親は当然のように忠告を重ねた。無理をするな、義父母との関係はどうか、夫の拓也とはどうか——。沙紀はすべてを「大丈夫」で片付けた。「昨日も愛し合ったわ」という返事は、自分でも芝居がかっていると思った。だが、母親を安心させるには十分だった。
「辛かったら、いつでも帰ってくるのよ」
「もう切るわ。夕食の用意をするの。今夜は特別だから」
電話を切ると、沙紀は拓也の好物であるローストビーフを、丁寧に作り始めた。肉の表面に焼き色をつけながら、彼女は思う。こうした儀式めいた夕食が夫婦の絆を象徴する、などという考えはブルジョワ的な方便にすぎない。
それでも今日だけは、その方便にすがりつきたかった。




