第6話 最初の魔物
狼が、ゆっくりと近づいてくる。
「……っ」
葵は後ずさった。
一歩。
また一歩。
足が震えている。
握りしめた金属片が、カタカタと音を立てる。
「……来ないで」
声が震える。
もちろん、狼に言葉が通じるはずもない。
狼は低く唸りながら、さらに距離を詰めてくる。
「……っ」
葵の頭の中が真っ白になった。
怖い。
怖い。
怖い。
日本で普通に暮らしていた高校生に、こんな巨大な獣と戦う経験なんてあるはずがない。
映画やゲームでなら見たことがある。
でも、目の前にいる。
本物の殺意を向けている。
「いや……」
足が動かない。
「いや……来ないで……!」
狼が姿勢を低くする。
次の瞬間――。
飛びかかってきた。
「――っ!」
結愛は反射的に目を閉じた。
「きゃあああああっ!」
ガキィンッ!
鋭い爪が、手に持っていた金属片へ叩きつけられる。
衝撃で葵の身体が吹き飛んだ。
「――痛っ!」
地面に背中を打ちつける。
息が詰まった。
「……っ、は……」
狼がこちらを向く。
ゆっくりと近づいてくる。
「……」
立たなきゃ。
逃げなきゃ。
そう思うのに、身体が動かない。
頭の中は恐怖でいっぱいだった。
――死ぬ。
その言葉だけが、何度も頭の中を駆け巡る。
そのとき。
《対象の検索を開始します》
「……え?」
突然、あの無機質な声が響いた。
葵の目の前に、半透明の文字が浮かび上がる。
《対象:ブラックウルフ》
《危険度:高》
《身体能力:非常に高い》
《特徴:高い敏捷性》
《攻撃方法:噛みつき・爪》
《弱点:左後脚》
葵は目を見開いた。
「……弱点?」
狼が再び唸る。
《推奨対処法》
《左後脚へ攻撃》
《損傷を与えることで行動速度を低下させることが可能》
「……行動速度を……」
葵は呆然と画面を見る。
その間にも、狼は距離を詰めてくる。
《注意》
《対象の速度は非常に高い》
《正面からの戦闘は推奨しません》
「……分かってるよ」
葵は震える声で呟いた。
「そんなの……分かってる……!」
狼が地面を蹴った。
「――っ!」
葵は横へ飛んだ。
爪が頬を掠める。
「痛っ!」
熱い。
頬に手を当てる。
血が出ている。
「……っ」
怖い。
でも、さっきまでとは違う。
目の前にある情報が、ほんの少しだけ恐怖を押し退けてくれている。
「左後脚……」
葵は狼を見る。
「そこを……攻撃すれば……」
狼が振り返る。
再び向かってくる。
「来る……!」
葵は金属片を握り直した。
「……今!」
狼が飛びかかる直前。
葵は横へ転がった。
そして――。
「これでも……っ!」
金属片を、狼の左後脚へ叩きつける。
「ギャウンッ!」
狼が悲鳴を上げた。
その巨体が大きく傾く。
《対象の左後脚に損傷》
《行動速度が低下しました》
「……効いた!」
葵は立ち上がり、必死に距離を取った。
けれど、狼はまだ動いている。
「まだ……!」
狼が立ち上がる。
さっきより遅い。
でも、十分速い。
「怖い……」
足が震える。
「怖いけど……」
逃げたら追いつかれる。
戦わなければ殺される。
葵は金属片を握り直した。
「……死にたくない!」
狼が迫る。
葵も動いた。
「うあああああっ!」
叫びながら、横へ回り込む。
そして――。
左後脚へ、もう一度。
「――これでっ!」
振り下ろす。
狼が大きくよろめいた。
葵は倒れそうになる身体を必死に支える。
狼が振り返る。
目が合った。
「……っ」
怖い。
でも、もう逃げない。
葵は金属片を両手で握った。
「来るなら……来て!」
狼が最後の力を振り絞って飛びかかる。
「――っ!」
葵も踏み込んだ。
そして――。
振り下ろした。
ドサッ。
狼の身体が地面に倒れた。
動かない。
森に静寂が戻った。
「……」
葵は、その場に立ち尽くした。
金属片を握ったまま。
「……倒した?」
返事はない。
恐る恐る近づく。
狼は動かない。
「……」
その場に膝をつく。
「……生きてる……」
自分の身体を見る。
身体は傷だらけで血も流れている。
服もボロボロだ。
それでも。
「……私、生きてる」
その瞬間、張り詰めていたものが切れた。
「……生きてる…」
涙が頬を伝う。
「死ぬかと思った……」
しばらく泣いた。
でも。
やがて葵は顔を上げる。
「……これ」
目の前には、倒した狼。
そして――。
「食べられるのかな」
検索する。
《食用:可能》
「食べれるんだ……」
葵はブラックウルフを見つめる。
目の前には、大きな狼の魔物。
「これ……どうやって解体するの?」
現代日本で暮らしていた高校生の葵に、魔物の解体なんてできるはずがない。
ナイフ代わりの金属片を握ってみる。
「……とりあえず、お腹を開けばいいのかな?」
しかし、どこから手を付ければいいのかさっぱり分からない。
そのとき――。
《スキル〖分割〗が使用可能です》
「……え?」
突然、頭の中にシステムの声が響いた。
「〖分割〗?」
葵は首を傾げる。
そういえば、転移するときに与えられたスキルの中にそんなものがあった。
「……何を分割するの?」
試しに、目の前のブラックウルフへ意識を向ける。
すると――。
《対象を指定してください》
「対象……?」
葵はブラックウルフを見つめる。
「じゃあ……この狼?」
《対象:ブラックウルフ》
《分割可能項目を検索》
次々と文字が浮かび上がる。
《肉》
《皮》
《骨》
《牙》
《爪》
《内臓》
《血液》
「…………」
葵は目を丸くした。
「……え?」
《分割対象を選択してください》
「いや、選択って……」
葵はしばらく考える。
そして――。
「……全部」
《対象を分割します》
次の瞬間。
ブラックウルフの身体が淡い光に包まれた。
シュンッ――。
肉。
皮。
骨。
牙。
爪。
そして内臓まで。
まるで最初からそうなることが決められていたかのように、必要な素材ごとに綺麗に分けられていた。
「…………」
葵は言葉を失った。
目の前に残ったのは、綺麗に分類された魔物素材。
「…………」
数秒の沈黙。
「……え?」
葵は自分の手にある金属片を見る。
そして、もう一度素材を見る。
「……解体、終わった?」
あまりにも呆気なかった。
「……私、何もしてないんだけど」
葵はしばらく固まったあと、ぽつりと呟く。
「〖分割〗……めちゃくちゃ便利じゃん」
《食用可能な肉を確認》
《素材を確認》
「……これ、食べられるんだよね」
検索結果には、確かにそう表示されている。
「……よし」
葵は火を起こした。
肉を焼く。
空腹だったこともあり、恐怖を忘れるほど夢中になって食べた。
その瞬間。
《スキル〖暴食〗が発動しました》
「……え?」
葵の動きが止まる。
《対象:ブラックウルフ》
《対象の特性を取得します》
《敏捷性向上》
《嗅覚強化》
《夜間視力》
《取得完了》
「……」
結愛はゆっくり立ち上がった。
周囲を見る。
暗くなり始めた森。
なのに――。
「……見える」
さっきまでより、はっきりと。
遠くの木々。
足元の小さな草。
そして、森の奥から聞こえる小さな物音。
「……聞こえる」
葵は自分の身体を見つめた。
「これ……」
そして、気づく。
「もしかして……」
食べたものの力を。
「私……取り込んだ?」
〖暴食〗。
それは、ただたくさん食べられるだけのスキルではなかった。
魔物を食べることで、その特性を自分のものにできる。
葵は初めて、その力の一端を知った。
「……すごい」
さっきまで死ぬほど怖かった魔の森。
その中で。
葵は初めて、自分だけの力を手に入れたような気がした。
「……これなら」
葵は小さく呟く。
「生き残れるかもしれない」




