55、母の想い
「……結界が、修復された?」
アナスイはゆっくり立ち上がる。
壁に手をつきながら、一歩一歩外へと向かう。
その途中でコルヴァンさんが、手を貸してくれた。
「アナスイ?」
ずっとアナスイとミレーニアを気にかけてくれていた人。
彼がすべてを被って、ミレーニアと一緒に領地のために奔走して。
この人がいなければ、自分たち親子は生きていくことは出来なかっただろう。
そんな彼が、ここ一か月ずっと苦しめられてきた。
その原因が結界石の亀裂だ。
彼らはアナスイを領地で唯一の魔法師と認識している。
そのため、コルヴァンさんから『無理をしてでも見てほしい』と頭を下げられ、ロランの手を借りながら魔生地に行った。
結界ドームの前にはバルドがいて、悔しそうな顔をしていた。
(……バルドが見てダメなら、無理だわ)
バルドは領地の状況から魔法師として登録はしていないが、技量は相当なものだ。
結界石には小さな傷が五本程度。
少しずつ増えていると思われた。
結界ドームの魔法陣の揺らぎは大きく、あちこちに亀裂が見られ、それを塞ぐようにバルドの魔法陣が展開されている。
(魔法師で……ここまでできる人なんているかしら?)
バルドに魔法陣の基礎を教えたのはアナスイだった。
当初の彼は魔力をわずかに感じ取れる程度で、それくらいなら魔法師でなくてもできる人たちもいる。
だが、そこから鍛錬を重ね、魔法陣について深く勉強し、そうして魔力を手足のように器用に操るようになる。
しかも、新たな魔法陣の構築まで行う。
この天才が、領地で埋もれてしまうのも、アナスイにとっては辛かった。
本来であれば、魔法師団に声を掛けられてもおかしくはない。
(……それでも、これが限界ね)
どれほどバルドが力を尽くしても、結界ドームの魔法陣の綻びは大きくなっていく。
追い付かなくなっているのが、目に見えて分かる。
背筋がぞくりとした。
結界ドームの魔法陣は、魔物が魔生地から出られないようにしている。
つまり、それがなくなれば、魔生地から魔物が飛び出すのだ。
領地など跡形もなくなる。
コルヴァンさんには、一刻も早く手を打つべきだと伝えた。
だが、アナスイにだってその解決策は見つけられない。
(できることは、結界石の修理もしくは交換しかない)
その手続きができるのは、あの男だけ。
でもあの男が、自分の瑕疵に繋がるかもしれないという報告をしてまで、国に助けを求めるわけがない。
領地が地脈振動で苦しんだあの時だって、なにひとつ報告を上げなかったのだから。
……ミレーニアがいなくて良かったと思っていた。
あの子だけは助かる。
それがアナスイにとっての唯一の救いだった。
そう思っていたのに。
――まさか、あの子が結界まで修復してしまうなんて。
もちろん、それがミレーニアの力によるものでないのは分かる。
あの子には魔法師としての力はない。バルドのように教えてもいないのだから、なりようがない。
それなら……
「ミレーニアが連れてきた銀の騎士とは、魔術師だったのですか?」
ここ二週間で、結界の揺らぎは大きくなるばかりだった。
それをバルドの魔法陣が、開いた穴をパッチワークのように埋めていた。
そのつぎはぎだらけの結界が。
今は大きな魔力に覆われている。
こんなことができるのは、魔術師だけだ。
「いや、そうは聞いていない」
「……そうですか」
だが、誰が何と言おうと、結界は修復されている。
これが永久的なものなのかは不明だが、結界は安定しその魔力に綻びは感じられない。
「アナスイ?」
この後、どう転ぶのかアナスイには分からない。
それでも、苦しみ続けたこの人に、たとえほんのひと時だったとしても、休息をとってほしかった。
「結界が、修復されています」
コルヴァンさんの目が、細い目が、大きく見開かれた。
「間違いなく、修復されています」
彼の喉が大きく動いた。
そして、勢いよく走り出す。
昔よりも老いたというのに、驚くほど速く、坂道を駆けあがっていく。
支えを失ったアナスイは、その場にゆっくりと腰を落とした。
結界が修復されたせいか、外にいる方が不思議と心地よい。
風が吹く。
駆け抜ける。
(ミレーニア)
アナスイの宝物。
大事な、大事な宝物。
この手の中になくてもいいと思っていた。
あの子が幸せになれるなら、それで。
肩に手を置けば、指先がやわらかな生地に触れる。
ミレーニアが贈ってくれた、ショールだ。
ほんのわずかなお金を貯めて、それで買うのは、自分の物より、アナスイの物。
「……どうしようもない母親よね」
それでも、生きているだけでも意味があるのだと知っている。
――お母さん
あの子の光であり続けるために。
どんなに苦しくても、それでも。
命の灯を消さぬよう、必死に足掻き続けてきた。
アナスイはゆっくりと瞳を閉じる。
瞼の裏にも、陽の光を感じた。
(……お帰りなさい、ミレーニア)
帰ってきてほしくないと、そう願っていたのに。
あの子に会えるのかと思うと。
胸が苦しくなるほどに、嬉しかった。




