48、婚約者
馬車の中でも、侯爵邸に着いてからも、ずっとレネと手を繋いだままだった。
子供みたいだなって思ったけど、怖くて手は離せない。
レネは安心させるように笑ってくれていた。
でも、馬車を下り、ルシアン様の手を借りてから、すぐにその後下りてきたレネの手を掴んだら、さすがに呆れたような顔をされた。
それから、なぜかレネはルシアン様を見て、ふふんって得意げな顔をした。
ちらりとルシアン様を窺えば、一瞬眉をひそめていたが、ミレーニアの視線に気づいて、微笑んだ。
(……あぁ、やだなぁ……ただでさえ、威力が凄かったのに)
好きだなんて思ってしまったら、そりゃもう心臓に悪い。
ドキドキが止まらない。
しかも、だいぶ時間も経ち、冷静になってきた。
混乱って恐ろしい、人ってあんな……あんな……大胆になるものなの?
っていうか、大胆を通り越して図々しいのでは?
ルシアン様に抱き着くなんて……
恥ずかしさも相まって、レネの手を離せない。
そのまま二人でミレーニアの部屋に戻るつもりでいたのに、ルシアン様の書斎に連れて行かれた。
黒檀の深い色あいの机、それから同じ色の棚。
初めて入るルシアン様の書斎。
くんと鼻を動かして匂いを嗅ごうとする自分に呆れる。
「ミレーニア嬢?」
足を止めてしまったミレーニアに、先を歩いていたルシアン様が不思議そうに振り返る。
なんでもないです、と頭を振ってから、勧められたソファに座る。
レネが立ったままでいようとするから、ぐいっと引っ張って隣に座らせた。
別にいいですよね!と圧を込めてルシアン様を見れば、苦笑された。
それにさえ、心臓が動きを止めそうになるのだから、勘弁してほしい。
ルシアン様は向かいのソファで優雅に脚を組んだ。
(あ……)
初めて会った時のことを思い出す。
場所は応接間だったけど、隣にレネもいなかったけど。
今みたいにルシアン様がいて、ミレーニアを見ていた。
あの時は、『綺麗だな』ってただ圧倒されていただけだった。
でも今は。
「どこから話したらいいのか……」
そう言って戸惑うルシアン様に、胸の奥があったかくなる。
ミレーニアのことを考えてくれるのが嬉しい。
「お嬢さま方、はい、どうぞ」
おどけたように間に割って入ってきたジュール様が、紅茶をテーブルの上に置いていく。レネの分もちゃんと入れてくれて、ルシアン様の好きなチョコレートボンボンも添えてある。
「ジュール、それはお酒だ」
「え~ルシアンのために用意したのに?」
「……蜂蜜クラッカーがあるだろう?あっちにしろ」
「我儘だなぁ……あ、ルシアンも変えるの?」
「……俺は」
「私とレネの分だけで。ルシアン様はそのままにしてあげてください」
ミレーニアが横からそう言えば、ジュール様はおどけたように『仰せのままに~』と返してきた。
お皿に乗っていたボンボンは回収されて、すぐに蜂蜜クラッカーが補充された。
お皿は一つで、蜂蜜クラッカーはなぜか四つ。
「一応、ルシアンの分も追加したから」
「……なんで四つなんだ?」
「え?ルシアンが二つ食べるかなと思ったんだけど?」
「……」
見慣れたルシアン様とジュール様のやり取り。
なんだか、おかしくて笑ってしまいそうになって。
そして、幸せだなと思う。
(……もう、このふたりの掛け合いも見られない)
たった二か月なのに。
ここから離れるのが、寂しいと思ってしまうなんて。
でも。
「ルシアン様、今までありがとうございました」
「……ミレーニア嬢?」
膝の上に置いた手が震えそうになるのをこらえる。
領地が危機だって知った。
父親の命令に背いたとしても、もうじっとはしていられない。
たとえ、領地のみんながミレーニアを必要としていなくても。
それでも。
ミレーニアにとっては、大事な場所なのだ。大切な人たちなのだ。
大人しくなんてしていられない。
「契約を破ることになって、申し訳ありません」
ぐっと頭を下げた。
目に涙がたまる。
右手をレネの方に伸ばして、レネの手を握りしめる。
行儀が悪いと言われても、そうでもしないと涙が落ちてきそうで。
堪えるために必死だった。
「……ミレーニア嬢」
随分と近くから声がした。
膝の上に置いたままだった左手の、手の甲が温かい。
ゆっくりと目を開けると、左手が大きな手に包まれている。
顔を上げれば、ルシアン様がいた。
ルシアン様は膝をついて、ミレーニアを見上げている。
アイスブルーの瞳が少しだけ悲しそうで。
それは、あの夜会の日と同じで、なぜか痛みを感じた。
「あの……」
「君がすぐにでも領地に戻ろうと思っているのは分かった」
ルシアン様の右手がミレーニアの頬に触れた。
いつの間にか零れ落ちていた涙を拭きとってくれている。
少し強い力に、思わず眉が寄る。
それに気づいたのか、ルシアン様の手がぱっと離れた。
「……すまない」
「いえ、大丈夫です」
ルシアン様は立ち上がって、また向かいのソファに座り直す。
そのタイミングで、ジュール様がテーブルの上に一枚の紙を置いた。
(……依頼書)
ヴェルナレット領からの、討伐の依頼書が目の前にある。
どういうことなのか、とルシアン様を見れば。
「これは俺が引き受けた」
「え?」
「……この依頼書が王都の掲示板に張り出されてから、二週間」
「……」
「Aランクの任務に対して、報酬が安すぎるのと、詳細が分からない、その二点で引き受ける者が現れないのだろう」
ぐっと喉が鳴る。
膝の上の手に力が入る。
(……私たちにとっては、その金額でも痛いぐらいなのに)
予算のギリギリを、いやどこかを削って、捻出したはずだ。
それでも、足りないのだ。
……悔しい。
ミレーニアが領地にいれば。
(ううん……私だって何もできなかったかも)
父親からお金を引き出させることが一番の近道だろうが、もっとも非現実的だ。
あの人は、あの男は、領地から絞るだけ絞り取ることしかしない。
……与えるなんて、あり得ない。
「依頼書をこのまま張り出していても、おそらく誰も引き受けないだろう」
「……」
せめて詳細が書かれていれば違ったかもしれないのに。
……どうして。
レネを見るが、レネは何も言わない。
下を向き、手を震わせている。
「答えたくないなら、何も言わなくていい」
それはレネに向けられた言葉だった。
バッとレネがルシアン様を見た。
その視線を受けて、ルシアン様が大きく頷く。
「引き受けたのだから、どうせ知る。だから何も言わなくていい」
ルシアン様の言葉に、レネの瞳からボロボロと涙が零れた。
ずっと、ずっと耐えてきたのだろう。
それなのに、ミレーニアは、自分のことしか考えられず、しかもレネから逃げようとしたのだ。
ぎゅっとレネの手を握りしめる。
それから、ルシアン様を見た。
アイスブルーの瞳は、まっすぐにミレーニアを見返していた。
「ミレーニア嬢。俺は君の婚約者だ」
射抜くような視線の強さに、緩くなった涙腺からはまた、涙があふれて流れ落ちていく。
今日一日でどれだけ流せばいいのか。
泣き慣れてしまったのだろうか。
ルシアン様が再びミレーニアに近づいて、膝をつく。
「だから、俺も一緒に行く」
「……ありがとうございます」
ミレーニアは頭を下げる。
どんなに下げても、下げ足りない。
「頭を上げてくれ……謝らなくてはいけないのはこちらだ」
驚いて顔を上げれば
「今まで気づかなくて、すまなかった」
ルシアン様の方が頭を下げていた。
まさか、そんな風に思っているなんて。
ミレーニアは慌てて首を左右に振る。
「ルシアン様が謝る必要なんて……」
「何度でも言う。俺は君の婚約者なんだ」
ただ、形だけの婚約。
それさえ偽りのようなものなのに。
ルシアン様はミレーニアを婚約者として
守ろうとしてくれる。
(本当に……愚かな人)
私生児のミレーニアに価値なんてない。
石ころに、そんな心を掛けなくてもいいのに。
やさしさが嬉しくて。
そして痛くて。
ミレーニアは、口の端を上げて笑ってみせる。
上手く笑えたのか、自分では自信がなかった。




