41、名前の裏側
……気づいてなかったのか。
ヴェルナレット嬢、いや、ミレーニア嬢は気づいていなかったらしい。
たびたびルシアンのことを『ルシアン様』と呼んでいたことに。
こちらは別に気にもしていなかったので、訂正すらしていなかったのだが、ちょうどいいので、こちらも『ミレーニア嬢』と呼ばせてもらうことにした。
それにしても……
(好き……か)
“好き”という、その響き。
それに、あんなにも心揺さぶられるとは思わなかった。
(でもなぁ……)
あの声で、しかも微笑まれて。
その甘さに、動揺せざるを得なかった。
(……可愛いなぁ)
さきほどからふわふわと動いている。
狭い店内をこれでもかと移動している。
(買い取ったら怒られるんだろうなぁ)
ぐるりと店内を見渡す。
ミレーニア嬢によく合う、可愛らしい雰囲気に包まれている。
そう言えば、似合わないとか、変なことを言っていたな。
とても彼女らしいのに。似合わないどころか、彼女自身と言ってもいいくらいなのに。
――自己評価が低い
そう言ったのは誰だったか。
アルマン……いや、マルグリットか。
確かにその通りだと思う。
あんなにも可愛いのに、それに、ルシアンよりも遥かに頭がいい。
(人工魔樹の話だって、俺にはさっぱり分からなかった)
温室でジャンと話していた彼女には、確実に基礎教養以上のものがある。
この間彼女が抱えていた分厚い『人工魔生地とその結界』なんて、ルシアンは読んだところで理解できるとは思えない。
(……どうしたものか)
契約の二年。
そんなもので手放せるわけがない。
……もう、自覚している。
だが、彼女の望みはどこにあるのか。
彼女は、まっすぐに、ひたすらまっすぐに領地のことだけを考えている。領地のことを愛している。
そして、彼女と共に来たレネは、彼女を慈しんでいる。
領地は決して、彼女を苦しめてきたわけではないことは、分かる。
(いい加減、調査すべきか)
彼女が悪女でないと気づいてから、目を逸らし続けてきた。
噂の真偽など、確かめる必要もなかった。
目の前で見た、それがすべてだとルシアンは思っていた。
だが、彼女は?
その噂が、直接的には彼女を傷つけていないとしても。
間接的には、確かに彼女を傷つけているのだ。
(……あまり好きではないのだが)
人の調査を依頼するのは、嫌だ。
勝手に、許可もなく、人を暴こうとする行為だ。
(ミレーニア嬢は……どう思うのだろうか?)
嫌われたくない。
好かれたい。同じように想って欲しい。
日々募る、重すぎる感情。
人はここまで、他人に心を奪われるのだと、身をもって知った。
彼女がまっすぐであればあるほど。
自分がどれほど愚かで、残酷で、どうしようもないのかと突きつけられる。
それでも。
これ以上、傷つけられたくない。
たとえ、彼女が笑っていたとしても。
それでも。
(……どこまでも、子供だな)
これは彼女のことを思ってのことではない。
ただ嫌だという、それはルシアンの感情だ。
(でも……必要なことだ)
彼女の望む平穏を守るために。
彼女が何を平穏と感じていたのか。
それを知る必要がある。
(本当は……彼女自身から聞ければいいんだが……)
だが、それを待っている間に、彼女の平穏が失われない保証はない。
(いや……もうすでに、俺が破ったのか……)
ぐっと拳を握りしめる。
長く息を吐く。
ぎゅっと目を閉じ、それからゆっくりと目を開けた。
彼女の姿が見える。
見慣れたワンピース姿に、揺れる栗色の髪。
決してルシアンを振り向くことはない。
(それでもいい)
覚悟を決め、ミレーニア嬢の元へと向かう。
店内の商品に夢中な、可愛らしい菫色の瞳を。
その瞳を見るために、ゆっくりと近づいていった。




