第2話「橋が壊れてたからよかった」
宿を出たのは、朝の空気がまだ冷たい時間だった。
昨夜の宿は古い木造りで、廊下がみしみし鳴って、窓から見える空がやたら広かった。悪くない宿だったとテオは思う。ミオは「布団が薄かった」と言っていたが、食事のスープが美味しかったからか、結局ご機嫌よく起きてきた。
宿の軒先でミオが地図を広げている。使い込まれた地図で、折り目の部分が少し白くなっていて、端っこにコーヒーのシミがついている。よく見ると、あちこちにミオの細かい字で書き込みが入っていた。宿の名前、食べたもの、道の状態。
「ここを左に曲がって、川沿いを三時間ほど行けば湖の街に着く」
ミオが指でなぞる。
「名物は燻製魚。夕方になると湖面が真っ赤になるから、それを見ながら食べるの。最高らしい」
テオが地図をのぞき込む。川沿いの道の途中に、橋のしるしがある。
「この道、橋が描いてあるけど」
「あるよ。川に架かった古い橋」
「修理中だったら?」
ミオが地図から顔を上げた。一瞬だけ考える顔をして、それからにっこりした。
「まあ……そのときはそのとき!」
◇
川沿いの街道は、走るのに気持ちいい道だった。
右手に川の音、左手に朝露のついた草原。道が平らで、石もなく、タイヤがなめらかに転がっていく。秋の朝の空気は、吸い込むと肺の奥まで冷えて、それがまた気持ちいい。鼻から入ってきた冷気が、のどの奥でふわっと白くなって消えていく。そんな感じがする。
テオがペダルを踏む。路面の細かい凸凹がペダルを通じて足の裏に届いてきて、川沿いならではのゆるやかな向かい風が前から押してくる。向かい風は敵のようで、実は一番気持ちいい。顔に当たる感触が、ちゃんと進んでいる証拠になるから。
後ろでミオが地図を広げたまま景色を見ている。
「昨日のパンケーキ、まだ香りが鼻に残ってる気がする」
「俺も」
「あれ、来年また食べに来れるかな」
「来年どこにいるかによる」
「どこにいると思う?」
テオが少し考えた。
「わからない」
「わからないって言えるの、すごいね。普通は不安じゃない」
「旅してれば、なんとかなる気がして」
「楽観的だなあ」とミオが言って、でも嫌そうな顔はしていなかった。
川が近くなってきた。水の音が大きくなって、空気がわずかに湿り気を帯びる。左岸の葦が風に揺れていて、水面が朝の光を反射して小さく光っている。
「ねえ、昨日の」
ミオが走りながら言う。
「樽の発酵が動き出したやつ」
「うん」
「あれ、やっぱりテオが何かしたんだよね」
「見てただけ」
「二回目の見てただけ」
「二回目?」
「川で荷物が流れたときも、見てたら風が変わった。今度も、見てたら発酵が動いた」
ミオが手帳をめくる音がした。
「偶然が二回続くのって、さすがにおかしい。三回目があったら、絶対に気のせいじゃないから。そのときは教えてもらう」
テオは返事をしなかった。ミオも、それ以上は聞かなかった。
向かい風が少し強くなった。テオはペダルを踏みながら、川沿いの道を転がり続けた。
◇
川沿いを二時間ほど走ったところで、正面に板が現れた。
工事用の太い板が道を塞いでいて、そこに布切れが結びつけてある。
「通行止め。修繕工事中」
ミオが板の前で自転車を降りて、布切れを読んだ。
「完成は来月だって」
二人で橋のほうを見ると、確かに石橋の一部が崩れていて、大工が足場を組んでいる。川の向こう岸に行く方法は、今日はない。
ミオが地図を出した。しばらく眺めて、指で別の道をたどる。
「迂回路がある。山の中腹を通る道。でも……未舗装」
「どのくらいかかる?」
「プラス一時間半、かな。自転車は押していかないといけないと思う」
テオが山のほうを見た。木々が色づいていて、ところどころ赤や黄色が混じっている。空気が少しひんやりして、川の匂いが土の匂いに変わってきている。遠くで鳥が鳴いた。
「行こう」
◇
山道に入ると、すぐに路面が変わった。
土と石が混じっていて、落ち葉がたまって、ところどころ根っこが盛り上がっている。テオが自転車を押して歩き、ミオが荷物を抱えてその後ろをついてくる。
「……ねえ、ミオ」
「なに」
「荷物、また増えてない?」
ミオが少し間を置いた。
「鍋が二つになった」
「昨日も鍋があったけど」
「大きい鍋と小さい鍋は別物。用途が違う」
「観光なめないで」とミオが先に言った。
山道は静かだった。鳥の声と、踏みしめる落ち葉の音と、ミオが手帳に書き込む音だけがする。テオは木の間から見える空を時々眺めた。雲の形が面白い。昨日とは全然違う形をしている。馬みたいな雲と、鍋みたいな雲が並んでいた。ミオなら鍋のほうを喜ぶだろうと思って、言わなかった。
坂が急になってきた。後ろ荷台の鍋が時々石に当たって、かんかんと音を立てた。
「鍋が鳴ってる」
「旅の音ってやつ」
「ただうるさい」
「気のせい」
さらに進むと、木々の密度が薄くなってきた。明るくなる。足元の葉が減って、草が増えてくる。テオが自転車を押したまま、一歩前に出た。
◇
開けた。
緩やかな斜面に、白い花と黄色い花が一面に広がっていた。
白はこぼれるように密集していて、黄色はその間に点々と混じっている。山の斜面をどこまでも覆うように咲いていて、風が吹くたびに全体がゆっくりと波打つ。ちょうど湖の水面みたいに、一方向に傾いて、また戻って。その向こうに青い山の稜線が見えて、空が高くて、雲が一枚だけゆっくり流れている。
においがした。草と花の、甘くも辛くもない、ただ秋の野原のにおい。
ミオが荷物を地面に置いた。
そのまま、駆け出した。
「すごい! 地図にないのに!」
花の中に飛び込んで、両手を広げて回っている。キャップが少し脱げかかっている。靴が花を踏みながら走っていて、踏んだ後に白い花びらがひらひらと落ちている。
テオは自転車を木に立てかけて、しばらくその景色を眺めた。
白と黄色の花と、その中を走るミオと、遠くの稜線と、高い空。自分が作ったものが、自分が思っていなかった形で誰かの足を動かしている。それがひどく、嬉しかった。
「……いいね」
「でしょ!」
ミオが振り返って叫ぶ。
「こういうの、ガイドの本には載らないんだよ。道を間違えないと来られない場所」
「橋が壊れてたから来られた」
「そう! 橋が壊れててよかった!」
テオが声を出して笑った。
テオも花畑の端に立って、白い花を一輪摘んだ。
どこかに挿そうかと思って、自転車のかごを見た。荷物でいっぱいだった。ハンドルに引っかけようとして、すぐ落ちた。拾って、また挿して、また落ちた。
テオはしばらくその花を手に持って、それから花畑にそっと戻した。
ミオがそれを見ていて、何も言わずに笑った。
ミオが花畑の端に腰を下ろして、手帳を開いた。でも何も書かずに閉じた。
「記録しないの?」
「今日は、目に焼き付けておく」
ミオが花を見つめたまま言う。
「……ねえ、こういう場所って、地図に載せるべきだと思う?」
「どうして?」
「みんなが来たら、こんなに静かじゃなくなるから」
テオは少し考えた。
「ミオが決めればいい」
「そう?」
「ミオの地図だから」
ミオが花畑を見渡した。風が来て、白い花が一斉に揺れた。ミオの髪も同じ方向に流れた。
「……載せない。ここは、道を間違えた人だけが来られる場所にしておく」
テオは何も言わなかった。でも、その答えが正しい気がした。
花畑の奥に、小さな石造りの小屋があった。
◇
小屋の前に、男の子が一人いた。
十二、三歳くらい。薄い色の髪に、汚れた作業着。木の柵に背中をもたれて、羊の囲いをぼんやり眺めている。
テオとミオが近づくと、男の子は少し驚いた顔をしたが、逃げなかった。
「旅の人?」
「ちょっと道を間違えて。きれいな花畑ですね」
「うん。毎年咲く。ここ通る人は少ないけど」
男の子の名前はダンといった。
「父さんは今日、朝から街に仕入れに行ってて」
ダンが囲いのほうに目をやる。
「夕方には戻るはずなんだけど、今日はまだ来てなくて」
「何かあったの?」とミオが聞く。
「あの子が、足を痛めてて」
一番端の羊が、右の前足を地面につけないようにして立っていた。体重を三本の足で支えながら、それでも草を食べようとして、うまくいかずにいる。
「いつから?」とテオ。
「昨日。囲いの中に石が入ってて、変なとこ踏んだみたいで」
ダンが柵を握る。
「洗おうとしたけど、薬がなくて。父さんが帰ってきたら頼もうと思ってたんだけど……なかなか帰ってこなくて」
「薬草はある?」
「乾燥したのなら」
ダンが小屋の中から薬草の束を持ってきた。ミオが受け取って、においを嗅いで、端を力強く絞る。指の間からなにも出てこない。からからに乾ききっている。
「消毒に使える草だけど、乾燥しすぎてて汁が出ないね」
テオが受け取って、手のひらに乗せた。
乾燥しているのは、見てもわかる。絞っても汁が出ない。今の状態でどうにかできる方法は、技術的にはない。
代償は来る。前回のパンクも、記憶に新しい。こういう小さなことに何度も使っていると、いつか大きく転ぶかもしれない。そんな予感はある。でも――ダンが昨日からずっとここにいたのが、目に浮かんだ。一人で、父親が帰るまで、なんとかしようとして、でもできなくて。羊が小さく鳴いた。
テオはゆっくり息を吐いた。
手のひらの中で、薬草がわずかに湿った。草の細胞の奥、繊維の中に残っていた水分が、表面ににじんでくる。水が染み込んだ布を端から絞り出すような、ゆっくりとした感覚。量はほんのわずか。でも絞れば出るくらいには。
「絞ってみて」とテオがミオに渡した。
ミオが受け取って絞る。指の間から、緑色の汁がしたたった。
「あれ……出た? さっき私が試したとき、全然出なかったよ」
「乾き方にムラがあったんじゃない?」
「そう?」
ミオがテオを見た。テオは羊のほうを向いていた。
布を傷口に当て、薬草の汁を含ませて丁寧に拭う。羊が身を揺らしたが、逃げなかった。
「大人しい羊ですね」
「マリっていうんだ」とダンが答えた。「一番小さく生まれた子だから、気にかけてる」
「名前、つけてるんだ」
「全部つけてる。父さんは笑うんだけど」
処置を終えて、三人で傷口を見た。赤みが少し落ち着いている。
「明日にはもっとよくなると思う」
テオが言う。
「今夜は動き回らせないほうがいい」
「わかった」
ダンがうなずいた。
「……ありがとう」
少し間があって、ダンが続けた。
「本当は父さんに頼めばよかったんだけど、市場から帰ってくると疲れてるから、なんか言いにくくて」
「言えばよかったのに」とミオ。
「うん……。羊の世話は僕がやるって決めてるから、自分でなんとかしようとしたんだけど」
ダンが柵の古い木の節を指先でなぞる。
「傷の手当ては知らなかった」
「知らないことは、誰かに聞けばいい」
テオが言った。
「一人でできることだけが仕事じゃないから」
ダンが少し考えてから「そっか」と言った。腑に落ちたときの声だった。
日が傾いてきたころ、山道のほうからがっしりした体つきの男が坂を登ってきた。ダンの父親のカルロだ。大きな荷物を背負っていて、坂を登る足取りがいかにも重そうだったが、小屋の前にテオたちがいるのを見て、一瞬だけ足を止めた。
「旅の人たちか」
「橋が通行止めで、迂回してきました」
「ああ、あの橋か。もう半年も修理してる」
カルロが荷物を下ろす。大きな音がした。
「ここを通ってくる人が、たまにいる」
カルロが囲いのほうに目をやった。マリの足を見て、ひざをつく。ひとしきり確かめてから立ち上がって、テオを見た。
「処置してくれたのか」
「薬草があったので。深くはないので、二、三日で歩けると思います」
カルロがダンの頭にぽんと手を乗せた。乱暴な乗せ方ではなく、ただ触れる感じ。ダンが少し照れたように顔を横に向けた。
「一人で見てたんだな」
「……うん」
「ちゃんと見てたじゃないか」
ダンは何も言わなかった。でも、さっきより少し背筋が伸びた気がした。
今夜泊まっていけ、とカルロが言った。大したものは出せないが食事くらいはできる、と。遠回りをさせてしまったんだから、と言って、それ以上は理由を重ねなかった。テオとミオは顔を見合わせて、うなずいた。
夕飯のテーブルには、搾りたての羊乳と、焼きたてのパンと、野菜を煮た鍋が並んだ。質素だが、温かかった。カルロは寡黙で、食事中はあまり話さない。でもダンがミオの話に弾むように答えていた。花畑のこと、羊の名前のこと、父親が去年の市場で大きな鐘を買ってきたこと。
「置く場所がなくて、今も玄関にある」
「使ってないの?」
「たまに鳴らしてる」
「何のために」
「わかんない」
ミオが笑った。テオも笑った。カルロが少し口角を上げた。
食後、外に出るとよく晴れていた。カルロがタバコに火をつけながら、空を見上げる。
「今夜は星がよく見える」とテオが言う。
「山はいつもこんな感じだ」
カルロが煙を吐く。
「慣れると、街の星が少なく見えるようになる」
少し間があった。
「ダンは、羊の世話が好きなのか?」
「さあ。本人に聞いたことはない」
カルロが星を見る。
「ただ、毎朝一番に起きて囲いに行く。嫌いではないと思う」
「今日、一日そばにいたみたいですね」
「そうか」
カルロが短く言った。
「あいつは黙って抱え込む。俺に似た」
煙が夜空に消えていった。しばらく並んで立っていた。言葉のない時間が、不思議と重くなかった。
翌朝、出発の前にテオが囲いを見に行くと、ダンがもう来ていた。
マリが四本足で立って、草のほうに歩いていこうとしている。まだ少し庇いながらだったが、昨日よりずっとよかった。ダンがほっとした顔で、でも照れ隠しのように柵の端を触っている。
「二、三日したら普通に歩けると思う」
テオが言う。
「治ったら、街に行ったついでにまともな薬を買っておくといい。今度のために」
「うん」
ダンがうなずく。
「……ありがとう」
「薬草はミオが絞っただけ。俺はなにもしてない」
「でも、来てくれなかったら、父さんが帰るまでマリが痛いままだったから」
後ろからミオの声がした。
「テオ、そろそろ行かないと燻製魚に間に合わない!」
ダンが少し笑った。テオも笑った。
カルロが麦と雑穀の握り飯を持たせてくれた。
「遠回りの分、腹が減るだろ。また通ることがあったら寄れ。橋が直っても、こっちの道のほうが景色がいい」
ミオが「それ、地図に書いとく」と言いながら手帳を出して、するすると書き込んだ。
◇
山を下りて街道に戻ると、風の向きが変わっていた。
昨日は向かい風だったのに、今日は背中から押してくる。ペダルが軽い。タイヤが勝手に転がっていく感じがして、テオは少しだけ気持ちが前に向いた。
「風、追い風になってる」とミオが後ろで言う。
「うん」
「ツイてるね」
「そうかも」
ミオが少し間を置いた。
「ところで、薬草の件なんだけど」
「うん」
「三回目だよ」
テオのペダルを踏む足が、少しだけ遅くなった。
「川の風が一回。発酵が二回。薬草が三回。全部、テオが近くにいたとき」
ミオが手帳を開く音がした。ページをめくって、読み上げる口調になった。
「川の荷物──テオが川を見たとき、風向きが変わった。樽の発酵──テオが裏に入った直後に動き始めた。薬草の汁──テオが包んだあと、汁が出てきた。三回とも、テオが何かしたあとに起きてる」
一拍置いて、続けた。
「これ、ちゃんと書いてある。気のせいだったらこんなに書かない。テオ、何者なの」
テオがペダルを踏む音だけがしばらく続いた。街道が平らになって、遠くに湖の光が見えてくる。
「旅人」
「それはわかってる」
「じゃあ、旅人以外のことは、まだうまく説明できない」
ミオがしばらく黙っていた。
「……まあいいか」
少し間があって、続けた。
「でも記録してるから。四回目も、五回目も、全部書いてる。いつか答え合わせしてもらう」
「そのときが来たら、考える」
「確約じゃないじゃない」
「そこまではまだ」
ミオがため息をついた。でも怒った様子はない。
「まあいいや。今日は燻製魚食べたいし」
テオが少し笑った。
湖の光が、だんだん大きくなってきた。
◇
湖の街に着いたのは、夕日が降りかかる少し前だった。
街の手前から、もう香りが来ていた。炭と煙の、乾いた香りに、魚の脂がゆっくり溶け出すような甘さが混ざっている。煙突から白い煙が何本も細く上がっていて、風に流れて湖の方向に向かっていく。
「この匂い!」
ミオが後ろから前のめりになった。そのまま体が傾いていって、テオの背中に額がごつんとぶつかった。
「痛い」
「ごめん、匂いが。燻製の匂い、好きで」
「匂いで前のめりになる?」
「来た、ここだ。止まって止まって」
「止まろうとしてたのに前に来るからぶつかるんだよ」
「早く行こう」
湖のほとりに一軒、古い燻製小屋がある。年季の入った木の壁が黒く染まっていて、軒下に魚を干す細い棒が何本も並んでいる。扉が少し開いていて、そこから煙がゆるゆると漏れていた。
主人のハロルドは四十がらみで、作業着にもぐもぐと動く手が、燻製の手入れをしながら出てきた。テオたちを見て「旅の人か」と短く言った。
「燻製魚を食べたくて来ました」
ハロルドがちらっとテオを見て、それから空を見た。
「ちょうどいい時間に来た。夕日が差すまであと少しある。その頃合いに一番おいしい状態になる」
「燻す時間が決まってるんですか」とミオが聞く。
「急がない」
ハロルドが短く言った。
「魚が自分から味を語り出すまで待つ。それが燻製ってもんだ」
小屋の中に通してもらった。中は薄暗くて、天井から何十匹もの魚がぶら下がっている。枝を組んだ棚の上にも魚が並んでいて、それぞれ燻され具合が違う。右の棚は色が薄い新しいもの、左の棚は濃い茶色で表面がしっとりしている。
「焚くのはりんごの木と、樫を混ぜたもの。りんごで甘さを出して、樫で締める」
ハロルドが棚の一番奥から一匹を取り出した。手のひらより少し大きい、平たい魚だ。皮が濃い飴色に変わっていて、表面が光を照り返している。
「今日仕上がったやつだ。身を見るといい」
ナイフで切れ目を入れると、湯気が一筋だけ立った。身の色が白くて、ほろっと崩れる。
「まだ温かい」
ハロルドが厚い切り身を二枚、皿に盛った。それに黒いパンが二切れ。黒パンは酸っぱくてずっしりしたやつで、燻製魚と食べるための相棒みたいな顔をしていた。
◇
湖のほとりに長椅子がある。二人はそこに並んで座った。
正面に湖が広がっている。水が平らで、空の色を映している。まだ青いところと、端のほうから橙色になってきているところが、ちょうど混ざっている時間だった。
ミオが一口食べた。
しばらく、何も言わなかった。
そういう沈黙は、何かに集中しているときの沈黙だ。食べることに全部使っている。
「……燻製の香りが、最初に来る」
ミオがゆっくり言う。
「でもすぐに炭みたいな感じは消えて、後から魚の甘さが出てくる。りんごのせいだって言ってたから、そのせいかな。口の中でゆっくりほぐれていくのが、なんか……丁寧な感じがする」
「丁寧な感じ?」
「急いでない感じ。一口で全部来るんじゃなくて、時間差でいろんな味がくる。ハロルドさんが言ってた、魚が自分から語り出すまで待つって、こういうことなのかな」
テオが一口食べた。
炭の香りが鼻に抜けて、それが消えたあと、魚の脂のやわらかい甘さが口の中で広がる。身がほろほろと崩れて、舌の上でとける。黒パンと一緒に口に入れると、パンの酸みが脂の甘さをきれいにさらっていって、また次の一口が食べたくなる。そういう味だった。
「……しみじみ、おいしい」
「また出た、しみじみ」
「いい言葉じゃない?」
「それしか感想がないの、語彙がかわいそう」
テオが笑った。ミオも笑って、それから湖のほうを向いた。
空が変わっていく。端のほうが橙色から赤に変わって、その赤が水面に映って、湖が丸ごと燃えているみたいになった。岸辺の葦がそのシルエットで黒く浮かび上がっていて、遠くの山の稜線だけが紫に染まっている。
「これ」
ミオが空を見上げたまま言う。
「今日ここに来られてよかった、って思うやつだ」
「今朝、燻製魚に間に合わないかもと思ったのに」
「だから余計においしいの。遠回りしてきたから」
テオがもう一口食べた。
「橋が壊れてたからよかった」
「そう!」
ミオが嬉しそうに笑った。さっき花畑で言ったのと同じ言葉だった。
二人してしばらく何も言わずに、夕日が湖に落ちていくのを見ていた。燻製魚の皿が空になっていた。黒パンも最後の一切れになっていた。
これがあるから、旅をする。
テオはそう思いながら、最後の一口を口に入れた。
◇
帰り道。街外れの石畳で、テオがふと足に違和感を感じた。
右の靴の踵のあたりが、じんわりと熱い。
昨日の山道で、革が擦れていたらしい。気にしないようにしてまた漕いだが、一漕ぎごとに少しずつ増してくる。
まあ、しかたない。
テオはそう思った。薬草のために使ったのだから帳尻が来るのは当然だ。でも今日は燻製魚を食べられた。夕日も見た。花畑にも出会えた。靴擦れくらいで十分すぎるくらいだ、と思う。
「ねえ、なんかペダルの踏み方が変じゃない?」
ミオが後ろから言う。
「そう見えるだけだよ」
「踏むたびに上半身が揺れてる」
「……気のせいだよ」
「止まって」
「大丈夫」
「テオ」
ミオの声の調子が変わった。テオがブレーキをかけた。
降りると、ミオがさっさと前に来て、靴を覗き込んだ。
「脱いで」
「大丈夫だって」
「脱いで」
テオが渋々靴を脱ぐと、踵の皮膚が赤くなっていた。水ぶくれになりかけている。
「血が出る前に巻かないと悪化する」
「そこまでは」
「なる」
ミオが荷物をほどいた。鍋が二つ入ったリュックの奥から、包帯の束を取り出す。
「ミオ、包帯まで持ってるんだね」
「ガイドなので。観光なめないで」
ミオが包帯を適当な長さに切って、踵に丁寧に巻いた。指先が器用で、痛くないように力加減している。
「……ありがとう」
「別に」
ミオが顔を上げないまま言った。
処置が終わって、テオが靴を履き直す。包帯の分だけ少し窮屈だが、さっきのじんわりした熱さはない。
テオが自転車にまたがった。ミオが後ろに乗る。ぎ、ぎ、と重たい音がした。
「鍋が二つあると、やっぱり重い」
「必要なの」
「靴擦れになってる人間に、これ以上重くしないでほしい」
「だから包帯で巻いてあげたじゃない。文句言わない」
テオはため息をついて、黙ってペダルを踏んだ。
夕日は完全に落ちて、空が暗くなり始めている。星が一つ、二つと出てきた。
後ろでミオが手帳を開いている気配がした。
「何書いてるの」
「記録。今日のぶん」
「何を」
「川の風──偶然の風向き。発酵──偶然のタイミング。薬草──偶然の湿り気。靴擦れ──テオの受難。そして……燻製魚と夕日、最高。以上」
「最後のだけ全然記録じゃないね」
「いいの。こういうのも書いておかないと、地図が本物じゃなくなる」
テオがしばらく考えた。
「ミオの地図って、道と地形だけじゃないんだね」
「当たり前じゃない。そこで何が食べられるか、何が見られるか、誰が住んでるか。それが全部入って初めて本物の地図になる」
テオが静かに頷いた。
「いい地図になりそうだ」
「でしょ」
ミオが手帳を閉める音がした。少し間があってから、後ろで小さく鼻歌が聞こえてきた。昨日のロッサの店の前で流れていた、秋の祭りの曲らしかった。
テオは何も言わずに、その音を聞きながら、暗くなり始めた街道を転がっていった。
遠くに宿の明かりが見えた。
今日も、悪くなかった。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




