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第3話「時間の味がする煮込み」

神様、自転車で旅してます

 朝食のスープを飲みながら、ミオがふいに言った。


「テオって、変なことをするよね」


 テオが顔を上げた。ミオはスプーンを持ったまま、急いでいる様子もなく、まっすぐテオの顔を見ている。


「変なことって?」


「たとえば」


 ミオが人差し指を立てた。


「川で荷物が流れたとき、急に風が来た。ロッサさんの樽の発酵が、テオが裏に入った直後に動き始めた。ダンの羊の薬草、テオが包んだら急に汁が出た。それから昨日の帰り道——」


「靴擦れは誰でもする」


「靴擦れの話はしてない。昨日の帰り道、橋の手前でテオが急に自転車を止めたでしょ。あの一秒後に対岸から荷馬車が来た。止まってなかったら正面衝突してた」


 テオが黙った。


「全部、テオが近くにいるときに起きてる。そういう偶然って、そんなに続く?」


「続くこともある」


「普通は続かない。だから書いてる」


 ミオが手帳をぱらぱらとめくった。端っこのページに、細かい文字で何かがびっしりと並んでいる。


「昨日の時点で四回。今朝、宿の窓を開けたとき、テオのほうだけ朝露がきれいに光った件を加えたら、もう一回」


「それは光の角度の問題だと思う」


「記録してある」


 テオはスープの続きを飲んだ。宿の豆のスープは薄味だが、温かくて悪くなかった。窓の外では馬車が一台、石畳をゆっくりと通り過ぎていった。


 ミオが手帳を閉じながら、さらっと言った。


「今日は収穫祭がある。行くよ」


「……何事もなかったように話を変えた」


「ちゃんと記録したから次に進むの!」


     ◇


 宿を出ると、秋の朝の空気がいっぺんに顔に当たってきた。


 昨夜より冷えている。息を吸うと肺の奥まで冷気が入ってきて、吐くと白くなる。テオが自転車のサドルに手を置いた。露が降りていて、触ると少しひんやりした。


 今日の道は山のほうへ向かう。


 街道を離れて、細い坂道に入る。両脇の木が色づいていて、赤と橙と黄色がごちゃまぜになって頭の上を覆っている。風が吹くたびに葉がはらりと落ちて、タイヤの前を横切っていく。踏むとかさりという音がして、次の瞬間にはもう後ろに流れていく。


 坂がじわじわとキツくなる。


 テオがペダルに体重をかける。一踏み、一踏み。膝からふくらはぎにじわじわと熱が入ってきて、それが心地よくなるまで、もう少しかかる。後ろでミオが地図を広げている気配がした。荷物の重さもあって、坂はなかなかしんどい。


「収穫祭って、何をする祭りなの」


「各村が料理を作って持ち寄るの。で、一番おいしい料理を作った村が、翌年の水の使用権を得る」


「水の権利を?」


「山からの川の水の配分が毎年変わるから、それを料理で決める。この地域の昔からの決め方」


「食べ物で水の権利を争うの?」


「そういう文化がある。観光なめないで」


「なめてないけど、変わってるなと思って」


「変わってるから面白いんでしょ」


 ミオがにっこりした。後ろから正面を覗き込もうとして、荷物の山に頭をぶつけた。


「……荷物が邪魔」


「自分で積んだんだよ」


「それはそう」


 坂の頂上で一度だけ止まった。


 後ろを振り返ると、今まで走ってきた街道が木の間からちらりと見える。川の光がきらりとして、それがすぐ葉に隠れた。前方は下り坂で、その先に村の屋根がいくつか見えている。煙が細く立ち上っていた。


「あそこが会場の村」


 ミオが指さす。


 テオがペダルから足を外して、ブレーキをかけながら下り始めた。坂を下る風が顔に当たってくる。頬の左側と右側で温度が違う。木の陰になっているところは冷たくて、日が差しているところは少しだけ温かい。その繰り返しが、顔を小刻みに叩いていく。


 ミオが後ろで「速い速い」と叫んだ。テオがさらにスピードを落とした。


 それでも気持ちよかった。


     ◇


 村の広場に着いたのは昼前だった。


 広場の中心に、長い木の台が三列に並んでいる。それぞれの台に各村の料理が並んで、陶器の鍋、素焼きの皿、木の椀、あらゆる形の器に盛られた料理がずらりと続いている。


 においが最初に来た。


 煮込みのスパイスが効いた重い香り、揚げ菓子の甘い油の香り、干した魚を焼いたような、塩辛くて香ばしい匂い。それが全部混ざって、広場全体を包んでいる。


「やばい」


 ミオが足を止めた。


「全部食べたい」


「先に見てまわろう」


「見てまわりながら食べる。そういう祭りだから」


「そうなの?」


「そうなの」


 村人たちが台の間を歩きながら試食している。子どもが串を持って走っている。年配の女性たちが腕を組んで、隣の村の料理を厳しい目で品定めしている。広場の端には審査員らしき男が三人、腕章をつけてメモを持って歩いている。


 テオとミオも、台の間を歩き始めた。


 歩いて、食べて、ミオが手帳に書く。歩いて、食べて、書く。その繰り返しをしていると、台が切れた広場の端に、少し離れた場所がある。他の台より小さくて、立ち寄る人の数もまばらだ。


 そこに、老婆が一人いた。


     ◇


 白髪をきっちりと後ろに束ねた、背筋のまっすぐな老婆だった。年は七十をいくつか過ぎているだろうが、立ち方が姿勢よくて、くたびれた感じがない。


 台の上には深い茶色の陶器の鍋がひとつ、蓋をされて静かに置いてある。周囲の台と比べると、華やかさがなかった。


 老婆の名前はグレイスといった。


 ミオが台の前で立ち止まって「試食はできますか」と聞いた。


 グレイスが蓋を外した。


 湯気が一筋だけ立ち上がった。


 においが広がった瞬間、テオは思わず立ち止まった。甘い。でも甘すぎない。蜂蜜のような直線的な甘さではなくて、もっと複雑な甘さで、その裏に少し酸っぱさがあって、さらにその奥に、温かいものを飲み込んだあとみたいな、じわっとした余韻が続く。何が入っているのかわからないが、何層にも重なっている。


 グレイスが小さな木の匙で一口分をすくって、ミオに渡した。


 ミオが食べた。


 しばらく何も言わなかった。


「……何これ」


 少ししてから言った。


「おいしい。すごく深い」


 グレイスが初めて口元をゆるめた。


「昔の配合なんだよ」


 グレイスが鍋の縁を指先でそっとなぞった。


「母から教わった。母はその母から教わって、そのまた上の代から続いているやり方で」


「何代前から?」


「五代は続いてるって聞いた。それより前は知らないが」


 テオも一口もらった。


 干し果実の甘さが最初に来る。舌の先から広がって、じわじわと奥へ進んでいく。それが落ち着いたころに、今度はスパイスの温かさが後ろから追いかけてくる。刺激的なものではなく、炉端に座っているときの、顔の正面だけがじんわりと温かくなるような、そういう感触。甘さとスパイスが口の中で溶け合って、最後に残るのが果実の酸味で、それが全部をすっきりとさらっていく。


 食べ終わっても、味の記憶が口の中に残っていた。


「こんなに層がある料理、食べたことない」


 テオが言うと、ミオが手帳から顔を上げた。


「でしょ。私、これが今日の一番だと思う」


「でも」


 グレイスが鍋から目を上げた。


「今の子たちは、あっちのほうが好みらしくて」


 グレイスが視線を台の中央のほうに向けた。揚げ菓子の台のことだろう。人だかりがある。


「こちらの味は地味に見えるから。それはわかってる。華やかさはないから」


「わかる人には絶対にわかる」


 ミオが言った。


「こういう味は記憶に残る。三日後も一週間後も、思い出したくなる味だから」


「急がない」とグレイスが言った。


 少し間があった。


「材料を一つひとつ、ちゃんと時間をかけて仕込む。干し果実は秋口から三週間干す。スパイスは煮込みの最後の一時間だけ入れる。早くできるものは、早くできた味しかしない」


 グレイスが蓋を戻した。


「二十年、この祭りに出てるが、一度も入賞したことがない。今年も同じだろうと思ってる。でもこれ以外のやり方を知らないから、毎年持ってくるんだ」


「来年も出ますか」とテオが聞く。


「出るよ」


 一言だけ言って、グレイスが静かに広場のほうを見た。


「出ないと、配合を忘れそうで」


「私のガイドブックに書いていいですか」


 ミオが手帳を持ち直した。


「こういう場所と、こういう料理があるって。旅人向けの地図を作ってるんです」


 グレイスが少し考えてから「好きにしなさい」と言った。


 少し間があった。


 グレイスが鍋の縁をゆっくりとなぞった。


「娘が嫁に行くとき、この鍋を持たせようとした」


 独り言みたいな、低い声だった。


「でも重いからって、置いていった。それでも配合だけは紙に書いて、荷物にこっそり入れておいた。いつか作りたくなるかもしれないから」


「娘さんは、作ったんですか」


 ミオが静かに聞いた。


「どうかな。聞いてない」


 グレイスが蓋を戻した。


「聞くのが怖くて」


 それだけ言って、広場のほうを向いた。


 テオは何も言わなかった。何か言えることが思い浮かばなかったわけではないが、この沈黙は、言葉で埋めるものではない気がした。


     ◇


 午後になって、審査が始まった。


 審査員の三人が腕章をつけて、台を端から順番に回っていく。グレイスの台の前で立ち止まって、一口食べて、三人で短く話した。


 テオはその様子を少し離れた場所から眺めていた。


 グレイスの鍋は、昼前に少し火加減を強くしすぎた。煮汁の色がさっきより濃い。果実が鍋底に沈んで、水分が飛びすぎている。グレイスが蓋をのぞいて、ほんの少し眉を寄せた。


「終わりかな」


 小さく言った。


 あきらめとは少し違う、静かな落ち着きがあった。二十年間そうだったから、今年もそうだろう、というような。


 テオが鍋を見た。


 煮詰まっている。水分が飛んでいる。料理の技術でどうにかなる問題ではない。今から水を足せば濃度は戻るが、それは別の料理になる。


 審査員がこの台に来るまで、あと四台分の時間がある。


 代償は来る。前の四回でチェーンが外れたり靴が擦れたりした。今回もそれくらいのことが来るだろう。


 でも、グレイスが二十年出続けていることを思った。配合を忘れたくないから出続けている、と言った。五代続いた配合を、ただ一人でここに持ってきている。


 まあ、いいか。


 テオが鍋のそばに立ったまま、少しだけ目を閉じた。


 水分というのは、消えたのではない。蒸発して鍋の外に出ていっただけだ。確率の糸を一本だけつまむ。その水分の一部が、鍋の縁に戻る方向に、ほんのわずかだけ。煮詰まりすぎた表面が少しずつほぐれて、ちょうどいい濃度に落ち着く。


 台の周りの空気が、ほんのわずか、動いた。


 グレイスが首をかしげた。


「……においが戻った……気がする。さっきよりずっといい」


 蓋を外してのぞく。煮汁の色が、少し薄くなっている。


「鍋が落ち着いたのかな」


「そういうこともありますよ」


 テオが言う。


「火の当たり方が均一になってきたのかも」


「そうかねえ」


 グレイスが首をかしげたままスプーンで一口すくって味を確かめた。しばらく黙っていて、それから「これならいい」と言った。


 テオが台から少し離れた。


 ミオが隣に来た。


「今、何かした?」


「見てただけ」


「それ、毎回同じこと言う」


「毎回見てただけだから」


 ミオがため息をついて手帳を開いた。さらさらと書き込む音がした。テオは遠くを見ていた。


 審査員が来た。グレイスの台の前に三人が揃って立った。蓋を外して、スプーンで一口ずつ盛る。


 真ん中の、一番年配の男が、ひと口食べて少し黙った。


「……深みがある」


 そう言って、メモに何かを書いた。


 残りの二人もそれぞれ食べた。三人で短く話した。それから台を離れた。グレイスが蓋を静かに閉めた。


     ◇


 審査の結果が広場の中央で発表されたのは、日が傾き始めたころだった。


 一位は揚げ菓子の村、二位は魚の干物を使った煮込みの村、そして三位は、グレイスの村の干し果実の煮込みだった。


 読み上げられた瞬間、グレイスが動かなかった。


 グレイスの手が台の縁を、ゆっくりとなぞっていた。


 テオが近くに立っていた。


「おめでとうございます」


 グレイスが顔を上げた。目が少し赤かった。


「二十年ぶりだよ」


 短く言った。


「ずっと昔、母がまだ生きていたとき、一度だけ一緒に入賞した。それ以来」


 グレイスが手の甲で目元をぬぐった。


「あのとき、母が何て言ったか覚えてる。この配合が正しかったんだって。続けてよかったって」


 視線が手の中のスプーンに落ちた。


「今日は、母にそれを言える気がした」


 ミオが隣でぐすっと鼻を鳴らした。手帳を持ったまま、目が少し潤んでいる。


「ミオ」


 テオが小声で言う。


「わかってる。泣いてない」


「目が」


「わかってるって言ってる」


 ミオが袖で目元をごしごしとこすった。グレイスがそれを見て、今日初めてというくらいはっきりと笑った。


「あなたたち、いい旅人だ」


「おいしいものがあるところには立ち寄るんです」


 ミオが言った。鼻声だった。


 グレイスが鍋の蓋を外した。


「冷めないうちに食べなさい。お礼だから」


     ◇


 グレイスが台の端に椅子を三脚並べてくれた。


 鍋の他に、荷物から根菜を細切りにして乾燥させたもの、豆を煮て香草を混ぜたもの、麦を炒って塩をまぶしたものが次々と出てきた。


「今日のために、ずいぶん持ってきたんですね」とミオが言う。


「いつもそう。どうせ誰も来ないから、余るとわかっていても持ってくる」


 グレイスが一番端の椅子に腰かけた。


「食べ物を作るのは、誰かに食べてもらうためだから。一人で食べる味は、どうしても半分しかない」


 干し果実の煮込みを椀によそってもらった。


 今度はもう少しゆっくり食べてみた。


 最初の甘さが、さっきより長く続く気がした。温かいからだろうか、香りが鼻の奥まで来て、それからゆっくりスパイスが追いかけてくる。テオは匙を置いて、少し考えた。三週間かけて干された果実の甘さと、一時間だけ入れたスパイスの香りが、一つの椀の中に重なっている。急いでできるものは、急いでできた味しかしない、とグレイスは言っていた。


 この味には、時間がある。


「配合を覚えているのが、今は私だけ」


 グレイスが続けた。


「娘に教えようとしたけど、面倒くさいと言われた。今の子たちに好きになれとは言えないけど、一つくらいは残したい」


 グレイスが干し果実の煮込みを自分の椀によそった。


「こうやって誰かに食べてもらうと、一年分続けられる気がする」


 ミオが手帳を閉じた。


「私のガイドブックが形になったら、この料理のことを書きます。ここに来た人が、あなたの台に立ち寄りたくなるように」


「そうしてもらえるとありがたい」


 グレイスが小さく笑った。


「私は毎年ここにいるから」


 広場を片付ける音がし始めていた。台を畳む音、鍋を荷車に載せる音。夕日が村の西側に沈みかけていて、広場の石畳が橙色に染まっている。


 テオは干し果実の煮込みをもう一口食べた。帰り道でも、この味を思い出すだろうと思った。


     ◇


 グレイスと別れて、村の出口に自転車を引いて歩いた。


 広場の屋台はほとんど畳まれていて、石畳の上に食べ物のかけらが落ちている。揚げ菓子の破片、麦の殻、果実の皮。鳥が一羽、石畳をつついて歩いていた。


「今日は食べ過ぎた」とミオが言った。


「七皿か八皿くらい食べてたね」


「それくらいは普通。収穫祭だもの」


 村の外れの坂道の手前に、焼き栗の屋台が一つだけまだ開いていた。炭の上に金属の網が渡してあって、皮に切れ目を入れた栗が並んでいる。焦げた香りが漂ってくる。


「あ」


 ミオが立ち止まった。


「栗、買っていこう」


「食べ過ぎたんじゃないの」


「焼き栗は別腹」


 ミオが屋台に向かった。テオも後を追う。


 二つ買った。まだ熱くて、受け取った手のひらからじんじんと温かさが伝わってくる。


「走りながら食べよ。下り坂で食べる焼き栗、最高だから」


「そういうものなの?」


「そういうものなの!」


     ◇


 自転車に乗って坂を下り始めた。


 夜の山道は昼間と全然違う顔をしていた。木の陰が濃くなって、道の両脇が暗い。でもその分、空が広く見える。頭の上に星が増えてきて、走るたびに視界が動いて、星まで一緒に動いているみたいだ。


 秋の夜の空気が顔に当たってくる。昼間の空気より重くて、湿り気がある。でも冷たさは刃みたいに鋭くなくて、ひんやりした布を顔に当てているみたいな、そんな感触だ。頬が少しずつ冷えていく。


 ペダルをほとんど踏まなくても、坂が自転車を引っ張っていく。


「グレイスさんの煮込み」


 後ろからミオが言った。


「まだ口に残ってる気がする」


「俺も」


「三週間干した果実の味って、こういう感じなんだね。なんか、ずっしりしてる」


「ロッサのパンケーキみたいに、後から来る感じがある」


「そうそう。その感じ。食べた場所と一緒に、ずっと覚えてる。旅ってそういうとこが好き」


 テオが片手でブレーキを握りながら、もう片手で栗の紙を剥いた。口に運ぼうとした瞬間だった。


 パンッ。


 手の中で栗が爆ぜた。


 反射的に手を開いた。栗が放物線を描いて飛んで、テオの首元にすっぽりと入った。


「あ」


 シャツの中を落ちていく。


「あ、熱っ、熱い」


 ブレーキを強く握る。自転車が急停車した。後ろでミオが「うわっ」と声を上げて荷物にしがみついた。


 テオが路肩に自転車を倒して、シャツを引っ張り上げた。栗が山道に落ちて、暗闇の中にころころと転がっていった。


 ミオが立ち直ってからテオを見て、腹を抱えた。


「顔! 顔がすごい顔になってる!」


「熱かった」


「夜道で急停車するし! 栗どこ行ったの!」


「暗くて見えない」


「失った栗は諦めよ。ていうか急停車は危ない」


「わかってる」


 テオが手の甲でお腹のあたりをさすった。ミオがまだ笑っている。路肩に虫の声だけが聞こえていた。


「……こうきたか」


 小さく言った。


「何のこと?」


 ミオが笑いながら聞く。


「なんでもない」


「また変なこと言う」


 ため息をついて、テオが空を見上げた。暗くなってきている。西の空に少し赤みが残っていて、真上はもう紺色になっている。一番明るい星がひとつだけ出ていた。


 ミオが自転車を起こしてくれた。


「行こう。まだ下りが続くから」


 走り出した。夜の下り坂をゆっくりと下っていく。さっきより風が強くなっている。


 テオが坂の途中で少しブレーキを緩めた。速度が上がる。木の間を抜ける風が強くなる。


「テオ」


「うん?」


「今日のグレイスさんの鍋、やっぱりテオが何かしたんでしょ」


「見てただけ」


「五回目、決定」


「証明できないでしょ」


「できないけど、ちゃんと書いてある」


 ミオが手帳をぱたりと閉じる音がした。


「答え合わせは、またいつか」


 テオが何も言わなかった。坂が平らになってきて、速度が落ちていく。村の外れの明かりが見えてきた。宿の看板が灯っている。


「ねえ」


「何?」


「星って、詳しい?」


 テオが少し、ペダルの動きを止めた。


「なんで」


「さっき空見てたから。なんかすごい目で見てた」


「そういうわけじゃない」


「でも詳しそう」


 テオが前を向いたまま、一拍置いた。


「……まあ、多少は」


「いつか教えて。地図に星の話も書きたいから」


「地図に星?」


「夜のツーリングで見える星の話。そういうのも本物の地図には必要だと思う」


 テオが少しだけ笑った。


「そういう地図、いいね」


「でしょ」


 宿の前に自転車を止めた。ミオが先に扉を開けて、中に入った。暖かい空気が出てきた。テオも後に続こうとして、一度だけ空を見上げた。


 一番明るい星が、宿の屋根の上にある。


 彼が最初に作ったもの。


 そうだと知っている人間は、今のところ誰もいない。


     ◇


 夜、寝る前にミオは手帳を開いた。


 今日のことを書く。収穫祭の場所と村の名前。グレイスの干し果実の煮込みの配合を聞いた限りで書いたこと。三週間干す、一時間だけスパイスを入れる。五代続いているということ。二十年ぶりの入賞だったこと。


 それから、別のページに。


 川の荷物、樽の発酵、薬草の汁、橋の手前で止まった件、グレイスの鍋。


 少し考えてから付け加えた。


 偶然が五回続くのはおかしい。六回目が来たら、絶対に問い詰めること。逃がさない。


 ミオがペンを置いた。


 窓の外に、テオが見上げていた星がある。一番明るいやつ。テオが星に詳しいのかどうか、まだわからない。でもあの目は、好きで見ている目じゃなくて、何か別のものを見ている目だった気がする。


 いつか聞ける、と思う。


 手帳を閉じた。


 旅はまだ続く。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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