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第1話「蜜酒パンケーキと恩返し」

神様と少女の、ズルと帳尻が交差する自転車ツーリングが今、始まる。

 自分で作った世界でも、自転車で走っていると、ほんの少しだけ他人の世界みたいに感じられる。


 徒歩よりずっと速くて、馬車より顔が風に近い。道の凸凹がペダルを通じて足の裏に伝わってきて、坂を下るたびに、体ごと空気に溶けていくような感覚がある。テオはそれが好きだった。


 秋の午後。刈り取り後の畑が街道の両脇に広がって、切り株から薄い霧が出ている。遠くの山の稜線は少し白みがかっていて、今年はもう冬が近いことを教えてくれる。風は冷たいが、日差しはまだ温かい。顔の左側と右側で気温が違うように感じるのが、この季節の面白いところだ。


 テオという名の金髪の青年は、帽子のつばを少し下げて、ゆっくりペダルを踏んでいた。荷物はリュックサックがひとつだけ。行き先は特に決めていない。昨日泊まった宿の主人が「川沿いを南に下ると、果物のいい匂いがする村がある」と言っていたから、まあそっちへ行くか、という程度だ。


 名物があれば行く。景色がよければ止まる。それで十分だと思っている。


 川沿いの坂道を気持ちよく下っていたテオは、ふと耳を疑った。


 土手の下から、困り果てた声が聞こえてくる。


「ああ、もう! もうもうもう!」


 のぞいてみると、川岸にひとりの少女がしゃがみこんでいた。茶色のショートボブに、使い込んだキャップをかぶっている。川の中には、ぱんぱんに詰まったリュックサックが浮いていて、じわじわと流れに引っ張られていた。


 少女は腕を伸ばしているが、水面まであと一歩届かない。


「待って、待ってよ……!」


 テオは自転車を止めて、土手を降りた。


 状況を見渡す。流れは速くはないが、荷物はもう岸から三メートルほど離れている。追いかけて泳ぎながら引き上げる、という手もあるが、テオは泳ぎがあまり得意ではない。川に入るより他の方法を探すのが先だ。


 岸に倒れている木の枝を手に取って伸ばしてみる。足りない。石を伝って川の中に入ってみる。届かない。


 荷物は少し遠ざかった。少女が「あ、待って!」と叫んでいる。


 テオは息を止めた。


 助けたい。でも、泳いで取りに行く自信はない。ならば――。


 この世界は、テオが作った。川も、風も、空気の動きも、すべてを知っている。いや、知っているというより、今でも感じている。目を閉じると、川面を流れる風の筋が、いくつも束になって見えるような気がする。そのうちの一本を、指先でほんの少しだけつまみ上げる。


 代償は来る。必ずくる。でも、それでも。


 川面を吹く風が、わずかに向きを変えた。岸沿いを流れる水がごく表面だけ、ゆっくり方向を変える。リュックサックがくるりと向きを変えて、ゆっくりと土手のほうへ近づいてきた。


「あ、風が!」


 少女が立ち上がって、川縁に膝をつく。荷物がちょうど手の届く場所まで寄ってきたところで、彼女はぐいっと引き上げた。


「来た! よかった……!」


 ずぶ濡れのリュックサックを抱えて、少女はほっと息をついた。それから、そこに見知らぬ青年が立っていることに気がついて、目をぱちくりさせた。


「ありがとう! あなたが、助けてくれた?」


「通りかかっただけ」


 テオが答えると、少女は荷物の中身を素早く確認した。地図帳、筆記具、それからガイドバッジ。どれも濡れてはいるが、すぐには使えなくなるほどではない。彼女は大事そうにバッジを服のすそで拭いて、テオを見た。


「私、ミオ。旅行ガイドをやってるの。……あなたは?」


「テオ。旅が好きで、ぶらぶらしてる」


「へえ」


 ミオはバッジを胸のポケットにしまいながら、少し考える顔をした。じっとテオを見ている。


「恩返しに、案内させてよ。どこか行きたい場所はある?」


 テオはしばらく川の流れを眺めてから答えた。


「名物があるところなら、どこでも」


 それを聞いたとたん、ミオの目がぱっと輝いた。ついさっきまで半泣きだったのが、まるで別人みたいだ。


「それなら! この先のオルバという街に、伝説のパンケーキがあるの。蜜酒を生地に練り込んで焼くやつで、ふわっふわで、口に入れた瞬間に甘い香りが広がって、後からじわっと蜜酒の風味がくるんだって。私、ずっと食べてみたかった」


 テオはいつのまにか自転車にまたがっていた。


「行こう」


「え、もう?」


「名物は大事だから」


 ミオが顔をほころばせて、濡れたリュックサックを自転車の後部荷台に縛りつける。リュックサックが一つ、それから地図ケースが一つ、それからなぜか鍋と食器まで出てきた。


 テオが首をかしげる。


「……多くない?」


「観光には必要なの」


「それ、全部観光に使うの?」


「文句言わない」


 荷物が山盛りに積まれた荷台の上に、ミオがひょいと腰かける。バランスが少し危ない気もするが、本人はいたって平然としている。テオはその光景をじっくり眺めてから、黙ってペダルを踏んだ。


 ぎ、ぎ、と自転車が重たそうな音を立てた。


「あなた、さっきどうやって風を呼んだの?」


 後ろからミオの声がする。テオはペダルを踏みながら前を向いていた。


「呼んでない。運がよかっただけ」


「そう? なんか、あなたが川を見たとき、一瞬だけ空気が変わった気がしたんだけど」


「気のせいじゃない?」


「気のせい……かな」


 ミオが手帳を開く音がした。何かを書いている。テオはそれを聞きながら、ペダルを漕ぎ続けた。


     ◇


 川沿いの街道は、それ自体がなかなかいい道だった。


 水音が右手から聞こえて、左手には刈り取り後の麦畑が続いている。道の真ん中に落ち葉がたまっていて、タイヤで踏むたびにさくさくと音がする。空は高く、薄い雲がゆっくり流れていた。


「テオって、自転車でどこまで行ったことあるの?」


「あちこち。東の砂漠のほうとか、北の海沿いとか」


「砂漠! 砂漠を自転車で?」


「砂が多くて大変だった。砂がチェーンに入って三回外れた」


「それで懲りなかったの」


「四回目は気をつけた」


「懲りるの遅くない?」


 ミオが笑う声がした。


「なんかテオらしい」


「らしい? 会ったばかりじゃないの」


「会ったばかりでもわかるでしょ、なんとなく」


 急な坂が現れた。テオが立ち漕ぎに切り替える。足に重みが来る。後ろからミオの声がする。


「……ねえ、坂、しんどくない?」


「君と荷物が重い」


「私は軽い」


「荷物が重い」


「観光には必要なの」


 坂のてっぺんに出ると、向こうに街が見えた。石造りの建物が肩を寄せ合うようにして立っていて、一番高い塔から夕方の鐘の音が響いてくる。橙色に染まりかけた空に、煙突の煙がまっすぐ上に伸びていた。


「あれがオルバ」


 ミオが声を弾ませた。


「もうすぐだ」


 坂を下りる。風が顔に当たって、落ち葉が脇を流れていく。テオはブレーキを少しかけながら、街への道を転がっていった。


     ◇


 オルバの街は、石畳の路地が入り組んだ小さな街だった。どこかから煮込みのにおいがして、八百屋の前には籠いっぱいの栗と橙色のかぼちゃが積まれている。午後の光が路地に斜めに差し込んで、石の壁を蜂蜜色に染めていた。


「ここ! この路地!」


 ミオがさっさと荷台から降りて、石畳の路地を指差す。角を曲がったところに、白い壁の食堂があった。木の看板に、達筆で「蜜酒パンケーキ・ロッサの店」と書いてある。


 ただし、入口の扉に張り紙があった。


「本日休業」


「……え」


 ミオが近づいて、紙を確認する。字は合っている。扉は閉まっている。間違いなく、今日は休業だ。


 ため息をつくミオの背後で、裏口の扉が開いた。


 出てきたのは、五十代くらいの男だった。白髪交じりのひげ、丸い体、厚い腕。白いエプロンには小麦粉がついていて、袖口をまくっている。額に皺が寄っていて、眉間がちょっと険しい。


「ああ、すまんな。今日は焼けないんだ」


「どうして!」


 ミオが思わず声を上げると、男は困ったように額をこすった。


「俺はロッサ。この店の主人でね」


「蜜酒パンケーキ、楽しみにしてきたんです」


「そりゃ申し訳ない。仕込みがうまくいかなくて」


「仕込みって、発酵ですか?」


「よく知ってるな。そう、蜜酒の樽の発酵が進まなくて。もう二週間、毎朝確かめてるのに、全然動かないんだ」


「蜂蜜の配合を変えてみた?」


「ああ、試した。温度も、水の量も、全部変えてみたが、どれもだめで」


 ロッサが首の後ろを掻く。気が抜けたような、それでいてまだ諦め切れていないような顔だ。


「明日、娘の結婚式があってな」


 ミオが「え」と声を上げた。


 ロッサの店では、代々その日に蜜酒パンケーキを振る舞うのが決まりだという。じいさんの代から三代続いている、と。


 ロッサが奥の棚に目を向けた。壁に古い写真が一枚飾ってある。白黒の画面の中で、若い男がパンケーキを大きな皿に盛っている。


「じいさんが始めて、父が引き継いで、俺が続けた。娘の式にも出したかった。でも今年は発酵が動かなくて、このままじゃ……」


 ロッサが言葉を切った。


「明日?」


 テオが確かめた。


「明日の昼だ。あと半日もない」


 テオはロッサの顔を見た。それから、裏の扉のほうを見た。


「少し、見せてもらえますか」


 ロッサが首をかしげた。


「醸造に詳しいのか?」


「詳しくはないんですが」


「まあ、覗くだけなら」


     ◇


 醸造部屋は食堂の裏手にある、石造りの小部屋だった。天井が低くて、薄暗い。外は秋の午後なのに、中は地下室みたいにひんやりしている。


「岩盤の上に建ってるから」


 ロッサが説明する。


「この温度が樽には一番いい。じいさんがここを選んだ理由がそれだ」


 奥の石棚に、木の樽が五本並んでいた。棚の横には温度を確かめる細い管と、几帳面な字で毎日の記録が書かれた帳面がある。気温、使った蜂蜜の種類、様子のメモ。二週間分の「変化なし」が続いていた。


 テオは一番左の樽のそばにしゃがみ込んだ。ロッサが蓋を外す。


 甘い香りが漂ってくる。蜂蜜と麦が混ざった、やわらかい香りだ。でも表面はなめらかなままで、泡ひとつ立っていない。よどんでいる、というより、何かがじっと息をひそめているような静けさだった。


「何度やっても、こうなんだ」


 ロッサが帳面を指でたどる。


「先週は別の蜂蜜も試した。それも同じだった」


 テオは樽の縁に指を当てたまま、少し考えた。


 醸造の知識はない。温度が問題か、菌の量か、配合か、それはわからない。でも、今テオに見えているのは技術の話だけじゃない。


 この樽の中に、発酵を起こすはずの菌がいる。眠っているのか、ためらっているのかはわからないが、確かにいる。彼らが動き出すタイミングを、たった一度だけ、少し前に引っ張ることができれば。


 代償は来る。使えば使っただけ、必ず返ってくる。こういう場合、たぶん移動中に何かが起きる。


 でも――。


 本当は、こういうことにはあまり力を使いたくない。使えば、どこかで必ず誰かが転ぶ。それが自分でもあるとわかっているから。


 テオはロッサの顔を見た。明日の昼、娘の式がある。三代続いたパンケーキを出せないまま、その日を迎える顔。


 まあ、いいか。


 テオは静かに息を吐いた。


 確率の糸を一本だけ、軽くつまむ。タイミングを少しだけ、ほんの少しだけ手前に引き寄せる。コインを投げたとき、表になる瞬間をほんの一呼吸だけ早める、そんなイメージ。それだけ。それ以上はしない。


 部屋の空気が、一瞬だけ震えた。


 樽の表面に、見えない波紋が広がったような――そんな錯覚。


 世界が、ほんの少しだけ、歪んだ。


 ロッサが鼻をひくつかせた。


「……においが変わった。蜜酒が動くときのにおいに似てる」


「少し待ってみてください」


 テオが立ち上がった。


 三人で部屋の外に出て、食堂のベンチに座った。ミオが小声で「ほんとに大丈夫?」と聞く。テオは「たぶん」と小声で答えた。


「たぶん、って」


「うん、たぶん」


「なんかやったの?」


「見てただけ」


 ミオがじとっとした目でテオを見た。テオは遠くを眺めていた。


 十分が過ぎた。ロッサが時々部屋を覗いて、首をひねっている。


 十五分が過ぎたところで、ロッサが突然立ち上がった。


「待て待て待て!」


 彼は部屋に飛び込んで、樽の蓋を開けた。


 最初の泡が一つ。それから二つ。三つ。表面全体が、まるで長い眠りから目覚めたように動き始めた。


 ぷつ、ぷつ、ぷつ。生命が、呼吸を始めた音。


「動いてる……!」


 ロッサが大きな手で樽を撫でる。


「間に合う……娘の式に、間に合うぞ……」


 ロッサの声が震えた。


「じいさん……父さん……見てるか。続けられたぞ」


 小さな声で、誰にともなく呟いた。


 ロッサが蓋を閉めて、また開けて、また閉めた。泡は続いている。五本の樽を順に確かめると、三本で発酵が始まっていた。


「十分だ……間に合う! 今夜から仕込めば、明日の昼には使える!」


 テオが入口に立ったまま言う。


「運が向いてきたんじゃないでしょうか」


「運が……」


 ロッサはしばらく呆然として、樽と、テオと、樽を交互に見ていた。それから大きな手で顔をこすった。ぐすっ、と鼻が鳴った。


「泣くほどじゃないのにな、まったく」


「大事なんですよね」


「ああ。三代続けてきたから。じいさんのやつを、娘の式で途切れさせるのが、なんとも嫌で」


 ロッサが樽の蓋を優しく叩く。


「今日のうちに試しで一度焼く。……旅の人、食べていくか? おごりだ。何枚でも」


「やった!」


 ミオが飛び上がった。


     ◇


 鉄板がじゅうじゅうと音を立てている。


 ロッサが大きなボウルで生地をかき混ぜる。薄力粉、卵、牛乳、そして去年仕込んだ蜜酒をたっぷりと。よく混ぜて、泡立て器でふわっとさせたら、少しだけ寝かせる。


「ここで十分ほど置くと生地がなじんで、焼いたときの膨らみが全然違う」


 油を引いた鉄板に、生地をゆっくりと流し込む。じゅ、という音が上がって、丸く広がっていく。縁からきつね色に変わってきて、表面にぽつぽつと小さな泡が出てきた。泡が全体に広がって、破れ始めたころが合図だ。そこでへらをそっと差し込んで、すばやくひっくり返す。


 裏面が三十秒でこんがり色になったら、皿へ。


 仕上げに、蜜色のシロップをとろりとかける。蜂蜜とバターを合わせて弱火でことこと煮詰めたもので、光の加減で飴色に輝いている。熱いパンケーキの上で、シロップがとけてさらりと広がった。


 ロッサが皿を二枚、テーブルに置いた。


「さあ。熱いうちに食べてくれ」


 ミオが一口食べて、目を閉じた。


「……甘い」


 しばらく何も言わない。


「でもべたっとしてない。後から蜜酒の香りがくる。ふわふわして、口の中で消えてくみたい」


 テオが一口食べた。


「うん」


「うん、じゃないでしょ。感想!」


「うん……しみじみ、おいしい」


「しみじみ!」


「いい言葉じゃない?」


「間違ってはないけど、もっと他に言い方があるでしょ」


 世界のかたちを決めたとき、味覚なんて設定はなかった。人間が長い時間をかけて、失敗と工夫を重ねて、勝手にたどり着いた奇跡だ。自分が作った世界の中で、自分が知らない味が生まれている。


 それが、たまらなく愛おしい。


 ロッサがカウンターの向こうで笑っている。


「気に入ってもらえたか」


「気に入りました」とテオ。


「シロップと一緒に食べると、最初と後で味が変わりますね。最初はシロップが甘くて、食べ終わる頃には生地の方の蜜酒の香りが残る」


「よく気がついた」


 ロッサが嬉しそうに言う。


「わざとそういう配合にしてある。最初の甘さで引きつけて、後から蜜酒で記憶に残す。じいさんが考えたやり方だ」


 ロッサが自分の分も焼いて、カウンターの椅子に腰かける。


「じいさんはもともと、蜜酒を薬として売ってた。ある日思いつきで生地に混ぜてみたら、妙においしかったと。父の代で配合を固めて、俺の代でシロップを足した。毎世代、少しずつ変わってる。でも基本は変わらない」


「それが続く、ということなんですね」


「そうだ。娘の式でもその続きが生まれる」


 ロッサが皿にシロップを追加しながら言う。


「毎年、仕込んだ年の蜜酒で一枚焼いて娘に食べさせてるんだ。今年で最後になると思ってたから、余計に間に合わせたかった」


「最後?」


「明日の式が済んだら、隣の街に行く。旦那さんの家に入るから、こっちへはなかなか帰ってこられないだろうしな」


 テオが静かに聞いている。ミオも聞いている。


「旅の人に助けてもらえるとは思わなかったよ。不思議なこともあるもんだ」


「不思議なことは、時々あります」


 テオが言った。


 ミオがテオをちらっと見た。テオは三枚目のパンケーキに手を伸ばしていた。


     ◇


 食堂を出たのは、夕暮れの始まりだった。


 路地の石畳が橙色に染まって、八百屋がかぼちゃを片付けている。子どもたちが家に駆け戻っていき、どこかから晩ごはんのにおいがしてくる。


「おなかいっぱいだ」


 ミオが両手をお腹に当てて、満足そうに言う。


「四枚食べてたもんね」


「テオも三枚食べてた」


「俺は三枚」


「じゃあほぼ同じじゃない」


 ミオが荷台に荷物を積み直す。リュックサック、地図ケース、鍋。それにロッサからもらった蜂蜜の大瓶と小瓶が加わっていた。


「……また増えてる」


「おみやげ。しかたない」


 テオが自転車にまたがる。ミオが荷物の上に乗る。ぎ、ぎ、と重たい音がした。


 街の出口を抜けて、石畳から土道に変わったところで、ミオが言った。


「それにしても、ほんとに不思議だったよね。発酵が急に動き出したの」


「そうかも」


「なんかやったんじゃないの?」


 テオが少し間を置いた。


「見てただけ」


「見てただけで発酵が動く?」


「樽の運がよかったんでしょう」


「……テオって、変なこと言うね」


 ミオがキャップのつばをくいっと上げて、テオの後頭部を眺めた。それから手帳を開いて、何かを書いている。


「何書いてるの?」


「記録」


「何の?」


「旅の記録。変わったことがあったら書いておくの。地図を作るのに役立つから」


「さっきも書いてたね。川のときに」


「そう。あのとき、あなたが川を見たら風が変わったでしょ」


「気のせいじゃない?」


「二回目だから、気のせいじゃないかもしれない」


 テオはペダルを踏みながら前を向いていた。




 パン、という乾いた音がしたのは、それから五分ほど経ったころだった。


 一瞬、ロッサの鉄板の音がまだ耳に残っているのかと思ったが、違った。




 テオが自転車を止める。


「……あー」


 後輪を見ると、タイヤが完全に潰れていた。空気が全部抜けて、地面にぺたんとくっついている。


 ミオが後ろから降りてきた。


「パンク?」


「うん」


「食べた直後に?」


「……そういうものだから」


「何が?」


「いや、なんでもない」


 テオが苦笑しながら後輪を確かめる。チューブに穴が開いている。ミオが荷物をほどいてバッグの奥から修理キットを出した。


「ガイドなので。お客さんのパンクも直さなきゃいけないから、常備してる」


「ありがたい」


 二人で地面に腰を下ろして、修理を始めた。テオがタイヤを外して、ミオがパッチを探す。日が沈みかけていて、あたりが紫がかった橙色に変わりつつある。


 ミオがパッチを貼りながら言う。


「ロッサさん、明日の式に間に合ってよかったね」


「うん」


「三代って、すごいよね。レシピが続くってこと、家族が続くってこと、両方がずっと繋がってる」


 テオがチューブを押さえながら頷く。


「来年また食べに来れるといいね」


「来年は娘さんが最初に食べる人になるんだね。今年の蜜酒で」


「それも素敵だ」


 ミオがふっと笑った。


「テオって、こういうとき妙にいいこと言うね」


「普通のことだよ」


「普通なの?」


「普通だと思う」


 修理が終わった。空気を入れて、タイヤを戻して、ミオが後輪をぽんと叩く。


「よし。直った」


「ありがとう」


 テオが立ち上がって、ミオも立ち上がる。荷物を積み直して、ミオがまた後ろに乗った。


 空が暗くなっている。夕日が稜線の向こうに消えかけていて、一番明るい星がひとつだけ出てきた。


 ミオが言う。


「ねえ、恩返し、まだ足りないかも」


「十分だよ。修理まで手伝ってくれたし」


「そうじゃなくて、旅の案内の話。もうちょっとついていってもいい?」


 テオがペダルを踏みながら答えた。


「ミオが決めることだけど」


「ついていきたいんだよね。あなた、絶対に何か隠してる。地図作りのためにも、調べてみたい」


 ミオが続けて言った。


「それに――なんか、あなたと一緒に旅してると、退屈しなさそうだし」


 テオが少し間を置いた。


「それ、俺が目的じゃなくて地図が目的じゃないの」


「半分はそう。でも旅がしたかったのも本当だから、半分は本当の恩返し」


「……まあ、一緒に行く?」


「うん」


 ミオがキャップのつばを指で直した。


「次はどこ行こうか」


「ミオが決めていいよ」


「じゃあ東の峠の向こうに湖があって、そこで燻製魚を作ってるって聞いたんだけど。夕方になると湖面が真っ赤になるらしくて、それを見ながら食べるのが最高なんだって」


「行こう」


「即答!」


「名物は大事だから」


 ミオが笑った。テオも少し笑った。


 街道が続いていく。どこまでも続いている。


 テオはペダルを漕ぎながら、小さく息をついた。



 今日は少し、やりすぎたかもしれない。


 でも、ロッサの顔を思い出すと、まあいいかという気持ちになる。娘の式に間に合う。三代続いたパンケーキが、また次の世代に届く。そういうことが、世界にひとつ増えた。


 それは悪いことじゃない。



 パンクの分は、今日のうちに取れた。そういうものだ。


 次はもう少し小さいズルにしよう、と、テオはぼんやり思った。


 後ろからミオの声がする。


「テオ、もっと速く漕いで。宿に着く前に暗くなる」


「重いんだよ」


「私は軽い」


「荷物が重いって言ってる」


「観光には必要なの」


「……」


 テオはため息をついて、黙ってペダルを踏んだ。


 夕暮れの街道を、少し重たい自転車が、のんびりと進んでいった。


 後ろに乗ったままのミオが、手帳を開いてまた何かを書いている気配がした。


 手帳の最後のページに、ミオはこう書いた。


「川の荷物――偶然の風。樽の発酵――偶然のタイミング。偶然が二回続くのは、さすがにおかしい。三回目で、絶対に正体を突き止めること」


 テオは振り返らなかった。でも、ページが増えていくのはわかった。


 夜空を見上げると、星が一つだけ、いつもより明るく輝いていた。


 テオは小さく笑った。「おかえり」と、誰にも聞こえない声で言った。


 あの星は、彼が最初に作ったものだった。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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