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刹那の邂逅 前編

ジャスミン視点

【ジャスミン視点】


 デルフィナスは不在、子供たち――ルシアンとロベリアも揃って乳母が面倒を見ていた。

 そしていつもジャスミンの傍にいるベナも休暇を取っていたその日、ジャスミンは一人、侯爵家の図書館にいた。


 侯爵家の蔵書は数が多く、貴重な本も残存していた。

 ジャスミンは侯爵家に来てから、少しずつ本を読み進めることが楽しみだった。

 最近はあまり時間がなかったが、偶然にもその日は予定がぽっかりと空いていた。

 久しぶりに訪れた図書館を、ジャスミンはゆっくりと歩きながら背表紙を眺めていた。


 高い天井からステンドグラスを通して柔らかな日差しが入る空間で、ジャスミンはふと一冊の本の前で歩みを止めた。


「……タイトルがないわね……」


 黒い背表紙の、古ぼけた冊子を目に留めたジャスミンは、そっとその背表紙に指をかけて本の間から引き抜いた。


 ぱらり、とページを捲るとびっしりと書き込まれた陣の精密さに、ジャスミンは思わず息を吞んだ。


「これは……」


 その本を手に持ったまま、カウチに腰を下ろすと大きく息を吐いてから、震える指先で本を開いた。

 通常、頭の中で陣を思い浮かべれば魔術は発動できる。

 簡単な陣であれば、指先で陣を描くように動かせば小さな傷はすぐに癒すことができる。

 そして、ジャスミンは簡単な陣であれば意識せずに指先を動かして発動することができた。


 その本にあった陣は、複雑かつ発動する際に込める魔力が多く必要だった。

 ジャスミンが一度に操れる魔術の力は豊富だが、そのジャスミンですら発動することは難しいと思われる陣だった。


 ジャスミンは少し考えてからその本を自室に持ち帰った。


「奥様、もうお部屋にお戻りですか?」


 図書館に籠ると半日は出て来ないジャスミンが、数時間で出てきたことにリチャードは驚いていた。


「ええ、手紙を書くから部屋に戻るわ。暫く誰も近づけないでね」

「かしこまりました」


 頭を下げるリチャードに「よろしくね」と声をかけ、ジャスミンは自室のデスクに便箋と本を広げた。

 ペンを手に取り、集中して陣を書き写していった。


 ――数時間後、完成した陣と書き終えた手紙をたたみ封筒にしまうと、大きく伸びをしてから再度本の文字を目で追い始めた。


「……外には出られず、一生を敷地内で過ごす……。条件は、愛……」


 ジャスミンの魔力量を持ってしても一生に一度発動させることができる魔術は、その厳しさと複雑さで発動できた者が少なかったのか、詳細についてほぼ記載がなかった。

 本に書かれた短い文を、ジャスミンはひたすら繰り返し読み続けた。


[誰かの愛で紡がれた陣は、その意志を繋ぐ者の愛で繋ぎ止めることができる。運命を曲げる者が代償を背負うことを厭わぬならば、肌に残る愛情は形を変えて顕れる。]


「この陣にある意味と照らし合わせると……。愛を受けた年数で、顕現する時間が決まる……。代償は、意識が残る、こと。その意識は対象の側で漂う……」


 ジャスミンは少し膨らんできた腹部を撫で、親友の息子であるイアンを思い出していた。


『僕が守ってあげるよ!』


 ジャスミンの膨らんだお腹に手を当ててそう言ったイアンは、ルシアンと同じくらいお腹の子に会う日を楽しみにしていると、ジャスミンはイアンの母親からの手紙で知っていた。


「……何もないのが一番だけど……」


 表情を暗くしたジャスミンだったが、お腹を内側からポコリと蹴られ表情を柔らかくした。


「何かあっても大丈夫ね。貴女に会える日が待ち遠しいわ」


 覚えることも、発動することも難しそうな精緻な陣を、ジャスミンはどうにか簡略化できないかと見つめ続けた。

 ふと、何か思いついたように新しい紙にイアン宛の手紙を追加で認め、別の紙に陣を描き始めた。

 ペンを置いたジャスミンは満足そうに頷くと、その陣を本に挟んでインクが乾いた便箋を折り畳んで封蠟をした。


「奥様、お茶をお持ちしました」

「ありがとう、入っていいわ。ちょうどお願いがあったのよ」

「何なりとお申し付けください」


 タイミング良く飲み物を運んできたリチャードに、ジャスミンは入室の許可と用事があることを伝えた。

 ジャスミンにティーカップを差し出して、リチャードは頭を下げた。


「ありがとう。もし私に何かあったら、この本を開いてね。手紙が挟まっているから、イアンに届くように手配してちょうだい。何もなければ、この手紙は私が直接イアンに渡すわ。何もなければ、このお願いは忘れてちょうだい」

「奥様……気弱にならなくとも……。ルシアン様の時もロベリア様の時も、何もなかったではないですか」


 珍しく焦りを見せるリチャードにジャスミンはコロコロと笑った。


「ええ。だから何かあったら、よ。何もないとは思うけれどね。デルフィもベナもきっと嫌がるお願いだから、申し訳ないけれど貴方に頼むわ」


 リチャードは誠実に侯爵家に仕えている。その誠実さと冷静さを、ジャスミンは信じていた。


「この本は私の部屋に置いておくわ。――何も起こらないという奇跡を信じていたいのだけれど、お産は何回経験しても不安は残るものなのね」


 不安を紛らわせるように、ジャスミンは笑った。


「お茶をありがとう。ゆっくり本の続きを読みたいから、暫く一人にしてちょうだい」

「かしこまりました……何か御用があればすぐお呼びください」


 何か言いたそうなリチャードだったが、ジャスミンの言い付け通りに部屋を出て行った。


「貴女の成長を、ちゃんと見守ることができるかしら……」


 不意に湧き上がる不安はジャスミンを弱気にさせた。

 自分とよく似ているが、遥かに強い力が胎内にあることが不思議だった。


「何かあっても、私は後悔しない選択をするわ」


 不安を振り払うように、ジャスミンは覚えたばかりの陣を何度も頭の中で反芻した。


「私に何かあってもきっと、皆貴女を愛してくれるわ。残りの時間は、デルフィと二人きりで離れを建てて住もうかしら。そうよ、きっと大丈夫よね」


 自分に言い聞かせるようにジャスミンは声に出していた。


「大丈夫、大丈夫よ。何かあれば、だもの。でも、何かあっても、きっと皆で貴女を愛してくれて、私は意識だけ貴女の傍にいるのね」


 意識だけが残る、というのはどんな気分なのか、とジャスミンは考え込んだ。

 誰にも姿は見えずとも、残された子供達が助け合う姿を見守ることができるならば幸せだろうと思えた。


 この陣に描かれた術が成功すれば、何かあっても必ず再会できるだろう。

 もし成功して皆に再会できるのであれば、 末っ子には「寂しい思いをさせてごめんなさい」と謝って、きつく抱き締めたいと思った。

 ルシアンとロベリアも、寂しい中で末っ子を大事にしてくれてありがとうと言えるだろう。

 デルフィナスには、不在の母親の分まで子供達を愛してくれてありがとう、と伝えられるだろう。

 ベナには、貴女に任せてよかった、ありがとう、と言えるだろう。

 そして、三人の子供達の結婚式には出席できなくとも、晴れ姿を見て愛を伝えることはできるだろう。


「そう、何もなければ、皆の成長を見守っていけるんだから大丈夫よね。ルシアンもロベリアも、無事に生まれてきてくれたのだから」


 何度も不安になり、何度も自分に言い聞かせた。


 ジャスミンは己の運命に忍び寄る陰を、無意識のうちに感じているようだった。



続

ジャスミンはちゃんと皆を信じていました。元々そんな気弱なタイプではないのですが、この時なぜか不安がありました。もしこの時本を見つけなければ、リンドはきっと愛されていたという事実を知らないままだった、ということですよねぇ。

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― 新着の感想 ―
辛い…悲しすぎる!ずっとそばで、心弱すぎ大馬鹿共の逆恨みで言いがかりの虐待を、止めることも出来ずに見ていた…。切ない!
 タイトルがつけられないのも納得なほど、他者に勧めにくい条件つきの陣について書かれた本を読み、不安で自分や子供が押し潰されないように、何度も言い聞かせながら、後の迫害の予兆などを薄々感じとってそうなジ…
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