刹那の邂逅 後編
デルフィナス視点
【デルフィナス視点】
乾いた風が吹き上がる。
ジャスミンは秋になるとよく空を見上げていた、とデルフィナスは思い出を辿っていた。
デルフィナスはその楽しそうな横顔ばかりを見つめて、空を見たことがなかった。
一人になった今、空の色を眺めれば、あの日の空を覚えていないことを後悔していることに気が付いた。
ジャスミンが特に好んで滞在していた館に居を移して一年が経過していた。
領地からの便りは、ルシアンからの事務的な手紙だけだった。
ジャスミンの実家からは、デルフィナスの誕生日とジャスミンの命日だけ、素っ気ない義理の挨拶が送られてきていた。
――いっそ見捨ててくれさえすれば、少しは楽になっただろうか。
ふと、デルフィナスはそんなことを思っていた。
どんな相手でも、ジャスミンが大事にしていたという事実を尊重する姿勢は、終ぞデルフィナスにはなかったものだ。
定型文のような挨拶は、恐らくジャスミンの母親が書いているのだろう。
時折、便箋の隅にカイルの豪快な文字で添えられる一文は、リンドに関することだった。
『リンドの字は丁寧だ』
『リンドは小さな飴が好きだ』
『リンドは読書をしている時の方が表情が豊かだ』
『リンドが笑うと、幼い頃のジャスミンを思い出す』
最初は、何故カイルがリンドのことを書いているのか理解ができなかった。
しかし、その何気ない一文は、デルフィナスが知ろうとしなかったリンドの姿だった。
十六年間、その存在を無視していたリンドの姿を、デルフィナスは碌に思い出せなかった。
リンドの笑顔を思い出そうとしても、太陽の下で笑うジャスミンの顔しか記憶になかった。
(そうだ……まともに顔をあわせたことなどなかった)
ルシアンとロベリアが時折離れに行っていたことを知っていた。
リチャードから報告を受けて殆ど予算を割かなかったのは他でもない自分だったが、ドレスを買えないことなど考えてもいなかった。
成人の儀で見た姿は十六歳には見えないほど瘦せていた。
(衣食住を与えていればそれでいいと思っていたな……)
空から視線を外し、地面を見ながら枯葉を踏み分けて歩いていく。
隣にいたのに、ジャスミンとは違うものを見ていた事実に今更苦い気持ちが溢れてくる。
館の玄関先まで戻ると、通いの家政婦が帰るところに行き会った。
「お帰りなさいませ旦那様、今日は冷えそうなので暖炉に火をいれておきました。それでは私は失礼いたします」
「ああ。ありがとう。気を付けて」
淡々と仕事をこなす姿は、あの日胸ぐらを掴んだメイドをデルフィナスに思い出させた。
通いの家政婦と、身の回りの世話をする侍従が一人。
今のデルフィナスにはそれだけで十分だった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
エントランスでデルフィナスを迎えた侍従はデルフィナスの顔色の悪さに気が付いた。
「旦那様、お疲れのご様子です。夕食までの間、熱いお茶を召し上がって少し休まれては?」
「……ああ、少し横になる。すぐに休みたいから、暫く一人にしてくれ」
ふらつきそうな足に力を込めて、デルフィナスはゆっくりと自室に向かった。
♦♦♦
暖炉の前、ゆったりとした椅子の背凭れに寄りかかったデルフィナスは、暖炉の温かさに深く息を吐いた。
ぼんやりと暖炉の火を見つめていると、ジャスミンがこの部屋で嬉しそうに蜂蜜入りの紅茶を飲んでいたことを思い出す。
とりとめのない話をして、静かに笑いあった時間は確かに存在していた。
ずっとそんな日が続くのだと信じて疑わずにいた。
『リンドを愛してね』
あの時、ジャスミンがどんな思いでいたのか。
とてつもない集中力を必要とする難易度の高い魔術を展開した後、それでも望みを口にしたこと自体が奇跡のようなものだった。
『ごめんなさい。こんな妻で、ごめんなさい』
十六年振りに顕れたジャスミンの謝罪と、涙の顔が浮かんでは胸の奥がずしりと重くなった。
デルフィナスはぼんやりと暖炉を見つめ続け、いつしか眠りに落ちていた。
♦♦♦
見慣れない景色に、デルフィナスは自分は夢の中にいると直感的に気がついていた。
目の前に道はあるが、数メートル先を見通すことはできず、周りは深い霧が視界を遮っていた。
何も考えずに一歩を踏み出したデルフィナスは、ひたすら前にと進んでいた。
音もなく、濃霧に包まれている周りに恐怖を覚えることもなく、ただ真っ直ぐと歩き続けるデルフィナスは、不意に現れた影に歩みを止めた。
デルフィナスに背を向けている人物は、真っ直ぐな水色の髪を背中に流し、白いワンピースの裾が揺らめいていた。
「まさか……」
見間違える筈がない。
あの後ろ姿は――。
「……ジャスミン……」
デルフィナスの震える声に、ゆっくりと振り返ったのはジャスミンだった。
「あ……まさか……ジャスミン……ミニィ……」
ゆっくりとジャスミンに近付き、震える腕を伸ばしたデルフィナスに、ジャスミンは眉間に皺を寄せた。
不機嫌さではなく、涙を堪える時のジャスミンの表情だとデルフィナスは知っていた。
嚙み締めた唇の隙間から漏れる息は震えていた。
「どうして……!どうしてなの……!」
ジャスミンはデルフィナスに近付き、デルフィナスの胸元を何度も小さな手で叩き震える声で繰り返した。
大粒の涙がジャスミンの瞳から溢れるが、デルフィナスはその涙を拭う事が出来なかった。
伸ばしていた手はだらりと下がり、ジャスミンの慟哭を聞いても動かせなかった。
「すまない……本当に」
「……十六年、私はただ見ている事しか出来なかった……。あの子の涙を拭くことも、傷を癒してあげることも出来なかった……!部屋に一人でいるあの子の姿を、貴方は想像したことがあるの!?」
俯き嗚咽を漏らすジャスミンは俯き肩を震わせた。
リンドの近くを漂うだけで、肩を抱くことすらできなかったもどかしさこそが、理を曲げる代償なのだと、ジャスミンは受け入れざるを得なかった。しかし、リンドの扱いには到底納得ができなかったのだ。
デルフィナスがその肩を支えようと腕を伸ばすが、ジャスミンは顔を上げてデルフィナスを見つめた。
そして、何の予備動作もなく握りしめた拳をデルフィナスの鳩尾に思い切り叩き込んだ。
「っ……ぐっ」
「お兄様と弟たちの拳じゃなくてよかったわね。……これで、本当に最期なの」
痛みに膝を付いたデルフィナスに、ジャスミンは涙を浮かべたまま微笑んだ。
「……っ待ってくれ……すまない、ジャスミン、すまなかった……」
「貴方は、最後もそうなのね……謝る相手は、私じゃないっ!」
呆然とジャスミンを見上げるデルフィナスに、ジャスミンは微笑みを消していた。
「さようなら、デルフィナス。……ねぇ、貴方は本当に、私自身を愛してくれていたのかしら……」
霧が薄くなり、ジャスミンの輪郭も薄くなっていく。
夢が終わるのだと、デルフィナスは悟った。
暖炉の薪がぱちりと弾けた。
目を開いたデルフィナスは上半身を背凭れから離し、頭を抱えた。
「君の笑顔が、本当に好きだったんだ……」
暖炉の火が弱くなりつつあった。
デルフィナスはぼんやりと己の指先を見つめていた。
最後にジャスミンに伸ばせなかった指先を強く握りしめた。
「……許されないことが罰ならば……思う事すら罪なのだろうな……」
十六年の月日はただ長く、今さらながらの罪に心が鈍く重くなった。
返事を書くことすらできない、と、デルフィナスはカイルの文字を思い出していた。
暖炉の火が燃え尽き部屋が冷えていく中で、デルフィナスは初めてリンドに罪の意識を抱いたのだった。
終
父親が本当の意味で後悔する日がくるのだろうかと考えていて、ここに行き着きました。
結局奥さんの言葉でやっと少し自覚した辺りが何か色々残念な人です。まぁ誰に許されないかって、そこにリンドはいないのですけれど。リンドは興味ないですし。無の感情に許しを請いたいって、とても虚しい気がします。
因みに現実世界だったらジャスミンの拳が鳩尾にジャストフィットした瞬間あばらいってたと思います。




