03.勇者志望冒険者の非日常
眼前には、ワサワサ揺れるオバケツリー。到底ユーシャが勝てる相手ではない。木の根のような足を蛸の触手のように動かして、こちらを甚振るようにジリジリと近付いて来る。
絶望の最中、ユーシャは天を仰ぐ。
「終わった……とか言ってる場合か!!!」
天を仰いで、正気に戻った。オバケツリーにくるりと背を向け、全速力で森を駆け抜ける。
蛸みたいだなーと思ってたら捕食されましたなんて、恥以外の何物でもない。死んだらオッサン共の酒の肴にされるのだろうか。それも嫌だ。屈辱以外の何物でもない。
生きねば。
植え付けられた生存本能が、彼を突き動かした。
「うおおおおおお死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!!ヤベエーふざけるなこんなところで死んでたまるか!俺は自分じゃ死ねないけど!他人には普通にプチッと殺される貧弱な身体なんだよッ!!」
鬱屈とした森を右へ左へ。狭いところを潜り抜け、本物の木々がオバケツリーの巨体を阻む。一年間通い続けた森だ、この辺りの地形は頭に叩き込んでいる。
そう意気込んで道なき道を必死で逃げるユーシャだったが、オバケツリーとの距離は少しずつ縮まっている。木のような見た目に反して本体はスライムであるオバケツリーは、どれだけ狭い場所でもぐにょんぐにょんと体を曲げながら猛追してくるのだ。つまりジリ貧。このまま走り続けてもこちらの体力が切れるだけだ。
「変形するなんて聞いてないぞ!オバケツリーじゃなくて殺人スライムに改名しろ、しつこいな!どこか、人がいなくて撒けそうなところは……!」
ゼエハア息を切らし、打開策がないか思考を巡らせる。
奴の知能は低い。その特性を考えれば、一瞬でもユーシャを見失えば動きを止め、根城に戻って再び木に擬態するはずだ。誰にも迷惑をかけずに姿を隠せる、そんな都合のいい条件の場所はないのか。いや、ある!
「異次元空間……迷宮に逃げ込めば、ヤツから俺の姿は見えなくなる。つまり、行くべきは勇者の迷宮か!」
太陽の位置を手掛かりに、ひたすら東へ突き進む。
勇者の迷宮。それは南東の森に古くから存在する迷宮のひとつ。かつてはひっきりなしに冒険者が訪れていたが、何の影響か、魔物が一匹も出なくなってしまった今では誰からも見向きもされない寂れた迷宮だ。
正確には、ユーシャただ一人が人目を気にせず動き回れる鍛錬スポットとして使っていた。
ユーシャの足取りに迷いはない。暇に任せてあちこち探索し尽くした成果が今になって現れている。世の中役に立たないことなんてないのだ。姉の脛齧りの放蕩生活が報われることもある。生きるか死ぬかの間際でなければむせび泣いていたところだ。過去の自分に感謝。涙の代わりに唇を噛み締めた。
己のひらめきに光明を見出した彼は、最期のひと踏ん張りと足を動かす。この獣道を進んだ先に開けた野原がある。そこに、不自然に設置された石造りの門、即ち勇者の迷宮への出入り口があるはずだ。
勢いをつけて野原へ躍り出る。
日の光を直に浴びてしまい思わず目を細め――視線の先、石造りの門の傍に佇む人影を捉え、疲れとは別の汗が噴き出た。
「うわッ、何で今日に限って人がいるんだ!?嘘だろ、そこの人、逃げろ!」
迷宮へ逃げ込むことなど頭からすっぽ抜け、とにかく目の前の人を逃がさねばと叫ぶ。
その人、ユーシャと同じ年頃の少女は、長い黒髪を風に遊ばせながらゆるりと頭を振ると、ユーシャを指差して言い放った。
「――死霊召喚」
瞬きひとつした時、野原は既に地獄だった。
柔らかな草はどす黒い泥沼に変わり、こぽりこぽりと泡を立てながら骸骨や薄皮付いた死体が湧き上がってくる。亡者たちの低い呻きが伝えるのは、現世の怨嗟か地獄の苦しみか。空気が重くて、ひんやりする。
ナニかが腐った臭いに当てられ、ユーシャは嘔吐くのを必死で我慢した。
地獄絵図のごとき泥沼のなか、その中心に立つ少女だけが泥中に咲く蓮のように美しい。
あまりにも非現実的な光景に、ユーシャは呆けた顔で立ち尽くした。
「俺、殺されるのか?」
「そうだね」
なんで、と問いを口にする時間もない。
少女の願いを叶えるべく、亡者たちはユーシャのいる方へ手を伸ばす。彼は咄嗟に腰に刷いた短剣を抜いた。
剣を構えたところでどうすることもできないが、一方的に襲われるよりは気持ち的にマシだった。恐慌状態に陥った彼とは反対に、少女は平然と告げる。
「殺していいよ」
よくねえよ。
そう反論したかったが、今の彼にそんな度胸があるわけもなく。腕をブルブル震えさせながら短剣を胸の前に突き出した。
「うあ゙アアアアアアア!!!」
「うるさい」
幼児のチャンバラごっこのような命を懸けた剣戟は、夕飯時の母親にちょっかいをかけた時のように相手にされず一蹴される。
骸骨共の腕の中で藻掻きながら声にならない叫びを上げた。あやすような手つきで身体に纏わり付かれ、口元をグッと押さえられてまともに発声ができない。枯れ木もどきの手が首に掛かり、恐怖で顔が引き攣った。触れば折れそうな手が、倍以上の太さがある己の首をいとも簡単に折ってしまいそうで。
このまま死にたくない。来るな化け物が、生きたい!
「恨むなら、私と出会ったことを恨むといいよ」
一際大きな骸骨が、大剣を振りかぶる。
本当に死ぬのか?こんなところで。死にたくない。殺されたくない。やりたいことが、まだ沢山あるのに。
迫り来る恐怖に負けてギュッと目を瞑った。
感じるのは強い風。
一拍置いて、轟音と人為らざるモノの悲鳴が聞こえた。
想像していた痛みが訪れず、ユーシャは恐る恐る目を開く。すわ天国か、巨大骸骨は痛みなく殺す達人だったかと思ったが、そんなことは無い。泥沼化した野原のままだ。少女も変わらず無表情で突っ立っていた。
少女はユーシャの方を向いているが、視線が合うことはない。彼というよりは、そのやや上を見ているようだ。
身体は未だ亡者に巻き付かれて身動きが取れない。ゆっくりと首だけを後ろに回す。
ユーシャのすぐ後ろには、見事に一刀両断された異様に切り口の綺麗な丸太があった。
――オバケツリー、こんな近くまで来てたのか。
決して忘れていたわけではない。冒険者には馴染み深いワンチャン死ぬかもしれない魔物よりも、訳も分からず人間に殺される方が、全神経を集中するくらいには恐ろしかっただけで。
ふと、真横へ視線を移す。先程まで首に手を掛けていた枯れ木もどきは、赤子のあやし方が分からずオロオロする爺の顔をしていた。
「なんだ……助けてくれたのか」
一気に気の抜けたユーシャは枯れ木もどきに体を預けた。
極度の緊張の反動か、彼の意識は深い闇の中へと沈んでいった。




