29.吊り橋撤退戦
「水精召喚!」
水柱がド派手に天を貫くのを合図に、ユーシャ達は化け物から背を向け一斉に走り出した。
水柱に気を取られているうちに見失ってくれればいいと淡い期待を抱いたが、走りながらにも感じる嫌悪感に、やはり期待は期待にすぎないのだと理解させられ、舌打ちと冷や汗が同時に溢れる。
「追ってきてる!追ってきてる!」
「分かってるから黙っとけ!」
「うるさい!無駄に体力使うなバカ!水精召喚!」
ヒイロは怒鳴りながらも続けざまに水柱を放つ。その高さは回数を重ねるごとに高さが目減りし、今では木を越えるほどしか高さが出なくなっていた。
小綺麗な顔を憤怒で歪め、なおも水柱を撃ち続ける。
精霊術は無から有を生み出す強大な力と引き換えに、術者の気力と体力を消耗する。一対一で標的に照準を合わせることができる状況下であればいざ知らず、視界も足元も悪い森を駆け抜けながら、見ずに後方へ大技を連発するのは、歴戦をくぐり抜けた手練れ相当に至難の技だ。
足りない技術と気力と体力を、爆発させた怒りで補い、力業で精霊術を成立させている。意志の強さが成せる天才の所業だ。
しかしそんな無茶苦茶な力業ではさらに心身を削り、ヒイロはとうに限界を超えていた。
「あアア゛!!しつこいんだよクソが!何でこうなったんだよチクショウ……水精召喚ッ!」
「貴様が一番五月蝿いぞヒイロ!精霊術はもういい、後は走れ!」
怒号に怒号を被せ、ゼエハアと開きっぱなしの口の端から涎が流れるのもお構いなしに、ユーシャ達はただひたすら吊り橋を目指す。
吊り橋まではそう遠くはない。
今が踏ん張り時だ。ここを乗り越えたら、きっと。
しかし、現実は無情であった。
木々が薙ぎ倒される音が近くなる。土埃が目に入り、反射的に瞼を閉じて、再び開けたその時。
耳のすぐ横で、息もまともに吸えないユーシャ達を嘲笑うように化け物の息遣いが聞こえた。
化け物は巨体の割に四肢が細く、明らかに己の身体でさえ支えきれていない様子だった。
いくら化け物といえど、こんな歪な身体ではまともに動けまい。そう判断して、五人全員で逃げることを選んだ。
そして、化け物が鈍足である、その見立ては間違ってはいない。
誤算だったのは、逃げると決めた時、全員が自分は冷静だと思い込んでしまっていたことだ。犠牲を出さずに済むという希望で脳みそが沸き立ち、作戦の落とし穴に気が付けずにいた。
見落としていたのは単純なことだ。化け物の移動速度は遅いが、道中で疲労極めたユーシャ達はさらに遅かった。
所詮は窮地に立たされた齢十五の子供がひねり出した作戦、そううまく事が運ぶはずもない。若人が描いた希望は辛苦の筆でたやすく絶望へと上書きされてしまった。
ユーシャにおぶられたウルフィが、彼の首に回した腕にぎゅっと力を込め、緩める。
ああ、これまでか。
たった一人、走りもせず、走れもせずに同級生の背に身体を預けるこの身が恨めしく、歯噛みした。
この中で明らかに足手まといなのはウルフィだ。流れに飲まれず、友に甘えず、最初からこうするべきだった。決意を固めてユーシャの肩を叩く。
小さな動作ではあったが、ウルフィの言わんとすることを察したユーシャは彼を背負い直すと、前だけを鋭く睨み付けた。
「降ろさないからな!絶対に、降ろさないからな!」
「ユーシャ」
ありがとな、と囁き、ユーシャの背から重さが消えるのと同じくして。
それまで先導するように前を走っていたエイユが突如として進路を変え、化け物の胴体に突っ込んだ。
「うっ、ぐッ……!」
「エイユッ!!」
ユーシャが手を伸ばすも届かず。風に靡いた艶やかな黒髪が、おぞましく淀んだ黒に呑み込まれていく。
化け物はずぶりずぶりとその身体を変形させ、抵抗するエイユの左足を、腹から生えた仮初めの腕が掴み、
「うう゛ううあァっ!!!」
木々の間を通り抜ける絶叫は壁一枚隔てたかのように遠くに。ボキッ、と小枝が折れるような音が、耳元で鳴ったようによく響いた。
エイユは身じろぎして苦痛と脂汗を浮かべた顔をユーシャ達へ向け、ひゅうひゅう声に鳴らない声を届ける。
「逃 げ て」
「エイユ!そんな、嘘だ」
「ああ……」
ウルフィは地に伏し、爪に土と血を食い込ませながら、己が庇われたことを悟った。
ユーシャ達の足は完全に止まっていた。
化け物はその身にエイユを捕らえたまま、ゴキゴキと首を傾げるような仕草をすると、ゆっくりと距離を詰めてくる。
ユーシャは銀の短剣を構え、化け物と相対した。一番の目的は上級生に異変を伝えること、それがうまくいっているかどうかは分からない。けれど、打てる手は打ち尽くした。後は全員で生きて帰るだけなのだ、早くエイユを助けなければ。
頭は未だ僅かに残された希望を謳っている。だというのに、何でこの身体は言うことを聞いてくれない。震えてばかりで情けない。
「木精召喚」
セイバの精霊術——幾多の木剣が天から降り注ぎ、エイユを避けて化け物の胴体目がけて豪速で落下する。セイバの全力すら、化け物を傷付けることはない。けれど多少の時間稼ぎにはなったようで、鬱陶しそうに木剣を払い除けている。
その隙を見てセイバは化け物の前に躍り出て、
「おがッ!!?」
地面に転がっていたウルフィを蹴り飛ばした。
宙に浮いたウルフィの身体を慌ててユーシャが抱き止めるが、
「戦闘中に何を呆けているッ!」
一喝。セイバは目をかっ開いて化け物に剣先を向けつつ、さも決定事項のように朗々と語る。
「このまま作戦を遂行するぞ。貴様ら三人は予定通り吊り橋を落とせ。殿は私が務めよう」
「何が予定通りだ!何も予定通りじゃないだろうが!全員生きて帰るって」
「ほざけ!この状況下でまだ甘ったれたことを言うか、この愚か者が!全員まとめて化け物の昼飯になる気か!?」
鬼の気迫にユーシャが押し黙ったのを見て、セイバはフンと鼻を鳴らした。
それでも納得いかないユーシャの腕をヒイロが引っ張り、
「ユーシャ、ウルフィ、行くよ。……二人とも、耐えろよ」
「ああ、任された」
苦しげなヒイロを言葉だけで送り出す。
はじめからそうしていれば良いものを。
最早犠牲なしに撤退するなど不可能。再び吊り橋目指して走ったとて、四人で吊り橋を越えられるかは分からない。
であれば、一人が残って時間稼ぎをして、三人を確実に生かすべきだとセイバは考えた。そして、殿を担うのは、エイユを除く四人の中で最も強い己であるべきだとも。
セイバに自殺願望はない。ただ、いくつか考えられる動き方のなかで、守れる命の数と期待値を鑑みて、実現可能かつ最小限の被害であると導き出した答えがそれであった。
そうしてこの場には、セイバ、化け物、そして化け物に囚われたままのエイユが残された。
セイバは頭のてっぺんから足先に至るまで、最高の剣戟のために全神経を尖らせる。
「不肖セイバ・カタブッツ、推して参る」
まだ刃も交えていないのに、死ぬつもりは毛頭ない。
化け物に駆け寄り、一閃。渾身の力を込めた剣は、硬い表皮に容易く跳ね返される。うねうねと動く胴体は、近付いてよく見るとびっしりと黒鱗が生えており、鋼鉄の鎧の役目を果たしていた。
何でこれで変形できるのだ、と悪態を堪えて続けざまに攻勢に出るが、自慢の剣のどれもがまるで歯が立たない。
化け物の表皮が波打ち、胴体に再び仮初めの腕が現れる。
来る。警戒して大きく飛び退くが距離が足りず、伸びた腕がセイバに迫り。
「セイバじゃ力不足。——死霊召喚」
巨大な骸骨の真白の腕が、黒腕を跳ね返した。
「エイユ、貴様」
「私は強い。まだ戦える」
身体の半分を化け物に呑み込まれてなお、不敵に笑う。エイユの星空の瞳には尽きぬ闘志が宿っていた。
セイバは瞳をぱちくり瞬かせると、口角を吊り上げて笑い返した。
「ハッ、そう来なくてはな!」
少女達は全身全霊をかけて剣を振るい、少年達は血涙流して走り行く。
吊り橋撤退戦は、まだ終わっていない。




