10.勇者の迷宮
ユーシャは勇者の迷宮に三百回以上は足を運んでいるが、壁画をじっくり見たのは数回程度だ。
勇者の迷宮に来た当初こそ、壁画がユーシャの化け物の証の謎を解く鍵にならないかと四六時中観察したものだが、成果は何ひとつとして得られなかった。
壁画に登場するのは人、竜、狼、鳥、その他大勢。竜が炎を吐き街を破壊している絵や、獣型の魔物が人を食い荒らしている絵など、描かれているものは全体的におどろおどろしく、勇者の迷宮という割に勇者が活躍している絵は全くない。恐らく、勇者が現れる前の魔物が跋扈する世界を描いているのだろう。
勇者の迷宮は勇者を生み出すために作られた迷宮だ。その成り立ちを知っていれば、勇者の存在が描かれていないことにも納得できる。
四枚目の壁画を描き終えたユーシャは、次の壁画へと移動するついでにエイユへ話しかける。
「どれくらい描けた?」
「ん、もう少しでこの辺りは終わる」
エイユは現在二枚目、筆は遅いが細部に至るまで正確に壁画を描き写している。
ユーシャが話しかけたことで集中力が途切れたのか、エイユはユーシャの手元を覗き込んだ。
「下手くそ」
「うるさい」
自分比で極力丁寧に描いたそれをハンと鼻で笑われ、カッと頬が熱くなる。自分に絵心がないことは分かっている。
人を揶揄うだけ揶揄って満足したのか、エイユは大きく伸びをして立ち上がった。あまり興味がなさそうに辺りを見回す。めぼしい物はない。ある物といえば、エイユがたった今描いていた大きな翼を広げた鳥の壁画と、点々と置かれた石像くらいか。
「ここ、あまり気にしたことはなかったが謎の石像もあるんだよな。これは鳥か?よくできてるよな。なんで美術品をこんなところに置いているんだか」
「これは美術品じゃなくて灯籠」
細い指が像の輪郭をなぞる。複雑な彫刻が施された鳥の顔にあたる部分は中がくりぬかれており、確かに灯火ひとつ入れれば照明になりそうだ。もっとも、こんな場所で照明が必要かは疑問を感じるところだが。
「でも火を灯す場所に油も蝋燭もないから、お飾りの石像。美術品でも間違いではない」
そう検めるエイユに、ユーシャはいや、と反論する。
「普通の火じゃ点かない特別製かもしれないな。——灯籠に火を点けて」
ほんの出来心で、願いを口にして。
「え」
「危ないッ!!!」
床が抜け落ち、思考が停止したユーシャを置いて身体は自由落下を始める。最後に見たのは、此方に向かって手を伸ばす少女の姿と——温かな炎を宿す、鳥を象った灯籠。
力強く抱き締められる感覚と共に、ユーシャは闇へ吸い込まれていった。
◇◇◇
自分が本当に目を開けているか分からないほど、暗くて全く周囲が確認できない。誰かに抱き締められている感触はあるが、至近距離にも関わらず、それが誰かまでは判別できなかった。
「落ち着いて、シャっちー。痛いところはない?」
耳元でフランの声が聞こえる。知った声にやや肩の力が抜けるが、平静を取り戻すには至らない。
「あ、灯りを……」
上擦った声で灯りを求めると、ユーシャの願いを叶えるように、ぽぽぽと小さな火が空中に浮かぶ。そうして初めて己が置かれた状況を理解し、恐怖で喉が引き攣った。
「ひッ……!」
洞窟を埋め尽くす無数の瞳、瞳、瞳。
前後左右ユーシャの目の届く範囲全て、おびただしい数の軍鶏に似た魔物がユーシャを見ている。
一気に顔から血の気が引くユーシャに、フランはユーシャを抱き締める力を強くした。
「落ち着いて。怪我はないね?」
派手なお調子者の印象とは打って変わって、フランは極めて冷静に周囲に視線を走らせる。
魔物が襲ってくる気配はないが、敵意が無いというよりは様子見されているといった風か。こちらから攻撃を加えなければ敵対しない魔物種も存在するが、四方を囲まれている以上、少ない可能性に懸けて先制攻撃を喰らうことは避けたい。一度体勢が崩れたら数の暴力で押されて終わりだ。
わざわざ戦闘準備時間を設けてくれていることだし、こちらから攻撃を仕掛け、火力で押し切る。
戦況を分析し、警戒しながら懐から濃い紫色の、どう見ても身体に悪そうな怪しげな液体で満たされた試験管を取り出した。
そんなフランを見て、ユーシャは青ざめた顔のまま拳を握り締めた。
フランは戦うつもりだ。ならば、自分も戦わなければ。
ユーシャが戦わないことを了承したうえで迷宮へ行ったエイユとは状況が違う。逃げ道もない危機的状況で自分の精神的苦痛など気にしていられない。とにかくフランのお荷物になってはならない、と震える指先で銀の短剣を抜こうとする。
「無理しなくていいよ」
ユーシャの手の甲に、そっと手が重ねられる。フランはニコ!と笑みを浮かべると、安心させるようにユーシャの灰色の髪をグシャグシャに乱した。
「なーんのためにフランが居ると思ってるの。大丈夫、目を瞑っていれば終わるよ。ここはフランちゃんにお任せあれ!」
言うなり、頭ひとつ分程の身長差をものともせずに左手でひょいとユーシャを抱える。片手お姫様抱っこだ。
「えっ、え?」
「よし!シャっちー、しっかり掴まっててね!」
困惑するユーシャを余所に、フランは右手でキュポと試験管の蓋を弾き飛ばし、中身を飲み干す。口元を拭い、不敵に笑った。
「月精召喚——融身誘毒」
フランの右腕から紫色の液体が滲み出す。それは地に滴り落ちる前に鎧のようにフランの身体に纏わり付いた。肩から先が硬質な紫で覆われ、手には巨大な戦斧が握られ——否、手そのものが、鎧と一体化した斧に変化している。
そこからは、フランの独壇場だ。
目の色を変えて襲いかかってくる鶏共を一振りでなぎ倒し、斬撃の衝撃波でまた倒す。ユーシャを片手に敵に立ち向かうその姿は、さながら姫を守る騎士か、それとも。
「ア゛~……クッ、ハハは」
ユーシャのすぐ傍で、心臓を竦ませる獣じみた低い唸り声が聞こえる。
猟奇的な笑みを湛えて大斧を振り回す狂戦士に、哀れな姫君は振り落とされないようしがみつくだけで精一杯だった。胃の中身がこみ上げるのを気合いで耐え、守られ役を死守する。
フランはそんなユーシャを意にも介さず、戦いの熱に浮かされたようにべらべらと空に向かって語りかけた。
「痛い?苦しい?その感情、フランにもっと見せて!夜なべして作ったとっておきの毒薬だよ。簡単にくたばってないでさ、感想、聞かせてよ」
——なんで攻撃を止めてくれないの
剛腕一閃。厚い紫の刃から放たれる力任せの一撃は見事に小さな体躯を吹き飛ばし、圧殺する。敵が数の暴力ならば、こちらは力の暴力。圧倒的火力を前に、魔物は為す術なく屠られるのみ。
四方を埋め尽くしていた軍鶏の軍勢は、刻一刻とその数を減らす。
「弱すぎてさぁ、実験動物にもならないんだけどぉー?」
——私は君の味方だよ
フランという少女にとって、毒鎧が届く範囲全てが彼女の実験場である。そして、彼女には手があり足がある。故に、世界そのものが彼女の実験場である。勇者の迷宮は、彼女の欲を満たすには狭すぎる。
ベロリと舌舐めずりして大斧を振り回し。いつしか、彼女に襲いかかる魔物はいなくなっていた。
そこでフランはようやく手を止め、異常な光景に首を傾げる。
「んん?魔物じゃない?殺したはずなのに死体が無い、というか毒も効いてないな。なんだこれ」
そうブツブツ呟いて、辛うじて息のある魔物の首根っこを掴み観察する。グッと喉を締め付けると、魔物の姿が跡形もなくかき消えた。
フランは何も無くなった掌に、栗色の大きな目を細め、面白がるように両の口角を吊り上げた。
さらに他の魔物の様子を確認するべく次の研究対象へと狙いを定め、とここでやっとユーシャの存在を思い出し、場を支配していた狂気が霧散する。
ニコ!とユーシャに笑いかけると、彼を恭しく地面へ降ろした。
「ふう、シャっちーごめんね、怖かったでしょ」
——もうこの人に近付かないで
ユーシャはじりじり後ずさり、こくりと頷く。助けてもらった手前、貴女が怖かったです、とはとても言えない。後ずさった先で、踵が何かに触れる。ハッとして振り向くと、軍鶏の魔物がびくびくと痙攣していた。
「はっ、はーッ、……は」
「あっ、勝手に近付いちゃ駄目!それまだ生きてるでしょ!」
死に体の軍鶏の嘴が、ユーシャの靴をコツと叩く。生唾を飲み込んだ。顔を上げ、焦点の合わない瞳で迷宮の最奥へ続く道を見つめる。
「シャっちー!?何処に行くの」
「呼ばれてる……行かないと」
フランの静止の声を無視して、勝手知らぬ勇者の迷宮を迷うことなく歩を進める。ユーシャは行かなければならない場所がある。
——こっちにおいで、私の勇者
そう、彼女が呼んでいるから、ユーシャは彼女の元に戻らなければならない。




