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第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『密室』 ~section10:スマートシティの闇と、届かない断末魔~

 完璧な論理によって解体された、十年前の完全犯罪。

 大自然の猛威という名の物理法則を凶器とし、さらには証拠隠滅の共犯者として利用した見えない殺人者。

 法の裁きすらも完全にすり抜け、現在もこのスマートシティのどこかで優雅に呼吸を続けている本物の『化け物』の存在を宣告され、僕は泥水の上に立ち尽くしたまま、声なき絶望に支配されていた。


 フラッシュライトの純白の光束の先には、今もなお、自身の胃袋から狂気の植物を生やしたまま、真っ暗なトランクの底で口を大きく開けて虚空を見つめる山根智章の白骨遺体がある。


「……でも」


 僕は、泥水に塗れた両手で、震える太ももを力強く叩き、己の恐怖と無力感に無理やり終止符を打った。


「犯人が法で裁けないとしても。この物理的な証拠が、警察の科学捜査で何の意味も持たないゼロの残骸だったとしても……」


 僕は、マウンテンパーカーのポケットから、泥だらけになった自分のスマートフォンを取り出した。


「彼を、この暗くて臭い地獄の底に、これ以上一人で放置しておくことなんてできない。……せめて、外の光の当たる場所に出して、家族の元に帰してあげなきゃいけないんだ。それだけは、絶対に終わらせちゃいけない『人間の情動』のはずです」


 僕は、画面の泥を袖で乱暴に拭い落とし、震える指先で『110』の三桁の数字を強くタップした。


「お主のその不合理なヒューマニズムには、時折、物理学では測れない奇妙なベクトルを感じるぞ」


 如月瑠璃は、スマートフォンを耳に当てる僕の姿を、アメジストの瞳で静かに見つめていた。彼女は通報を止めることはしなかった。事象の観測と解体という彼女自身の目的はすでに100パーセント完了しており、その後の人間社会の『後始末』がどうなろうと、彼女にとっては一ミクロンの興味も湧かない事象だからだ。


 十五分後。

 再開発から完全に見放された旧市街の廃墟の静寂を切り裂いて、けたたましい警察車両のサイレンの音が、地下駐車場の入り口へと殺到してきた。


 ウゥゥゥゥンッ……!!


 強烈な赤色灯の光の波が、カビと泥にまみれたコンクリートの壁に反射し、十年間沈黙していた暗黒の空間を暴力的に照らし出す。地下へと続くスロープを、複数の重い足音が猛烈な勢いで駆け下りてきた。


「おいおいおい……! なんだこの異常な腐敗臭は! 毒ガスでも発生してんじゃねえのか!?」


 真っ先に地下空間へと飛び込んできたのは、月見坂市警・捜査一課の瀬田警部補だった。無精髭を生やし、よれよれのトレンチコートを着崩したベテラン刑事は、車外にまで充満している極めて濃密なカダベリンと硫化水素の悪臭の壁に激突し、顔をしかめてハンカチで鼻と口を乱暴に覆った。


「先輩! 現場はこの奥です! 通報者の位置情報と完全に一致しています!」


 瀬田警部補の後ろから、ピンと背筋を伸ばし、完璧にアイロンがけされたスーツを着こなした若い刑事――神宮寺巡査部長が、強力な警察用のハロゲンライトを片手に駆け込んでくる。


 彼らは、以前の事件で如月瑠璃の異常なまでの『事象解体能力』を目の当たりにし、そして僕が彼女の下僕として引きずり回されていることを知っている、数少ない警察関係者だった。


「げっ……。またお前たちかよ……ってことは、まさか」


 瀬田警部補の鋭い視線が、泥水の中に立つ僕から、その後ろに静かに佇む漆黒の軍服風ジャケット姿の令嬢へと移動する。

 そして、二人の刑事の持つ強力なハロゲンライトの光束が、油圧スプレッダーで無惨に破壊され、全開になった最高級セダンの車内と、その後方で開け放たれたトランクの内部を、同時に照らし出した。


「なっ……!?」


「こ、これは……!!」


 百戦錬磨の捜査一課の刑事たちでさえ、その光景を脳が認識した瞬間、完全に足の動きを止め、驚愕と恐怖に目を見開いた。

 ドアも窓も完全に癒着した密室の天井を食い破り、逆さまにぶら下がる巨大な青白き脳髄(ブロッコリー)。その後部座席を貫通する太い根のネットワークの先、ヘドロにまみれた暗黒のトランクの底で、腹から植物の根を生やして横たわる、山根智章の凄惨な白骨遺体。

 そして、トランクの蓋の裏側に狂気的な密度で刻み込まれた、無数の『血塗られた爪痕』。


「十年前に行方不明になっていた、月見坂アグリカルチャーの天才研究員、山根智章の遺体です」


 僕は、瀬田警部補たちに向かって、泥だらけのタブレットを抱えながら震える声で告げた。


「彼は、裏金とデータを奪われた上で、生きたままこのトランクに閉じ込められ、十年前の大洪水で逆さまに水没して……溺死しました。あのブロッコリーは、彼が無理やり飲まされた試作品の種が、彼の遺体を栄養にして育ったものです」


「生きたまま、トランクで水没……。腹から、植物が……?」


 瀬田警部補は、あまりの凄惨さと猟奇的な現場の状況に、ハンカチ越しにえずきそうになるのを必死に堪え、顔面を蒼白にしていた。


「おいおい、冗談じゃねえぞ……。十年前の大洪水を利用した密室殺人? 指紋もDNAも、このヘドロと腐敗ガスで完全にパァだ。どうやってホシを挙げりゃいいんだ、こんな胸糞悪い完全犯罪……」


 プロの刑事である瀬田警部補の口から漏れた言葉は、奇しくも如月瑠璃が先ほど物理法則を用いて突きつけた『絶望的な迷宮入り』の宣告と、完全に一致していた。


 しかし。

 絶望に頭を抱える瀬田警部補の横で、神宮寺巡査部長だけは、全く別の、極めて異常なベクトルへと情動を爆発させていた。


「おお……おおおおおっ……!!」


 神宮寺巡査部長は、突然持っていたハロゲンライトを泥水の上に置き、その場に両膝をついて、ボロボロと大粒の涙を流し始めたのだ。


「じ、神宮寺さん……?」


 僕が戸惑う中、彼は泥水に高級なスーツが汚れることなど一切気に留めず、暗闇の中に凛と佇む如月瑠璃に向かって、両手を胸の前で固く組み合わせて祈るような姿勢をとった。


「やはり……やはりあなたは、我々月見坂市警を導く、慈愛に満ちた真の『女神』だ……!!」


「は……?」


 神宮寺巡査部長のあまりにも飛躍した狂信的な言葉に、僕は思わず間の抜けた声を漏らした。


「瑠璃様……!!」


 神宮寺巡査部長は、涙で顔をグシャグシャにしながら、熱に浮かされたような声で叫んだ。


「この十年間、誰の目にも触れることなく深い泥の底に沈んでいた、この悲しくも凄惨な迷宮入り事件……! 我々警察の無能ゆえに光が当たらなかったこの真実を、瑠璃様は、警察の威信を守るため、自らこのようなカビと死臭にまみれた不衛生な地下空間に足を運び、その美しい純白の手袋を泥で汚してまで……我々のために、暴き出してくださったのですね!!」


「……」


「その冷徹な振る舞いの奥底に隠された、被害者への深い鎮魂の祈り……そして、悪を許さないという絶対的な正義感……! 私は、神宮寺は、あなたのその崇高な自己犠牲の精神に、ただただ平伏し、涙するほかありませんッ!!」


 彼は、白骨遺体や青白いブロッコリーなど完全に視界から除外し、ただ己の脳内で作り上げた『如月瑠璃=警察を影から導く慈愛の女神』という超ポジティブな妄想のフィルターを通して、勝手に限界まで感動し、勝手に号泣していた。


 しかし。

 当の如月瑠璃は、泥水に土下座せんばかりの勢いで涙を流す神宮寺巡査部長の熱弁を、一ミクロンの興味も、一ミリの表情の変化すらも見せることなく、氷のようなアメジストの瞳で完全に見下ろしていた。


「……サクタロウ。なぜこの地下空間には、知能指数が著しく欠如した軟体動物が、スーツを着て大量の塩分と水分の混合液を撒き散らしておるのじゃ」


「いや、如月さん……彼、一応捜査一課のエリート刑事なんですけど……」


「事象の観測と解体は、完全に終了した。この先にある行政の手続きや、無能な警察機構による無意味な現場検証などという事務処理のノイズに、わしが付き合う物理的理由は一ミリも存在せぬ」


 如月さんは、神宮寺巡査部長の存在そのものを『背景のコンクリートの染み』と同レベルの無価値なものとして完全に黙殺(塩対応)し、漆黒のロングスカートの裾を優雅に翻した。


「サクタロウ、帰るぞ。これ以上、この貧弱な情動のノイズと腐敗ガスが充満する空間に脳髄を晒せば、わしの完璧な思考回路のクロック周波数に悪影響を及ぼしかねぬ」


 彼女は、泥水にまみれた白骨遺体にも、ひざまずく刑事にも一切の未練を残すことなく、真っ直ぐに背筋を伸ばし、地下駐車場へのスロープへと向かって、一切の足音を立てずに歩き出した。


「あっ、ちょっ……待ってくださいよ、如月さん!」


 僕は慌てて泥水の中からリュックサックを拾い上げ、瀬田警部補に向かって深く頭を下げた。


「す、すみません瀬田さん! あとは警察で……山根さんのこと、よろしくお願いします!」


「あ、ああ……すまねえな、胸糞悪いもんを見せちまった。あとの処理と、見えないホシの追跡は……こっちで引き取る」


 瀬田警部補は、ため息をつきながら頭を掻き、去っていく如月さんの背中に向かって、苦虫を噛み潰したような顔で小さく敬礼をした。


「おお……女神よ……! どうか、どうか我々に今後ともご加護を……!!」


 神宮寺巡査部長の、完全にピントのずれた狂信的な祈りの声が背後でこだまする中。

 僕は、肺の奥にこびりついた死の匂いを振り払うようにして、如月さんの漆黒の背中を追いかけ、コンクリートのスロープを駆け上がっていった。


**


 地下空間の重苦しい闇を抜け、地上の旧市街へと足を踏み出した瞬間。

 僕の頬に、冷たく、そして重い水の塊が、ポツリ、と落ちてきた。


「……雨?」


 見上げると、先ほどまで薄曇りだった旧市街の空は、まるで十年前のあの日……この街を未曾有の大洪水が襲った『あの八月』の記憶を強制的にフラッシュバックさせるかのように、どす黒い雨雲に完全に覆い尽くされていた。


 ザァァァァァァッ……!!


 数秒後、空の底が抜けたかのような猛烈なゲリラ豪雨が、コンクリートの廃墟群を容赦なく叩きつけ始めた。

 僕のマウンテンパーカーは一瞬にしてずぶ濡れになり、地下駐車場のヘドロの臭いが、雨水によって周囲の空気中へと生々しく拡散していく。

 如月さんは、降りしきる豪雨を予測していたかのように、手品のような手つきで漆黒の軍服風ジャケットの奥から深い紺色の折り畳み傘を取り出し、バサリと音を立てて開いた。彼女の周囲だけは、雨粒すらも物理法則によって弾き返されているかのように、完璧な静寂と美しさを保っていた。


「事象の観測は終わった」


 如月さんは、雨音に負けない透き通るような声で、僕に背を向けたまま静かに告げた。


「あの狂気のテラリウムは、無能な警察の手に渡ったところで、誰一人裁くことのできない『迷宮入りの証拠品』として、再び行政の巨大な暗闇の倉庫へと封じられる運命にある。……それでよい。物理的なルーツは完全に解体された。我々の計算式は、極めて美しい完全な正解を弾き出したのじゃからな」


 彼女は、紺色の傘を少し傾け、その横顔に冷酷な知性の光を走らせた。


「さて、サクタロウ。次の『ありえない場所にあるありえないモノ』が、わしの観測を待っておるかの」


 一切の情動を引きずることなく。人間の悪意の底を覗き込んでもなお、その絶対的な論理の牙を研ぎ澄ませたまま。孤高の天才令嬢は、激しい雨の降る旧市街の路地へと、優雅な足取りで消えていった。


 僕は、雨に打たれながら、一人その場に立ち尽くしていた。

 ズブ濡れになった僕の頭上、分厚い雨雲のさらに向こう側には、都市のインフラによって完璧に制御され、眩いネオンの光を放つ『新市街』の巨大な摩天楼がそびえ立っている。

 あの光り輝くタワーマンションの最上階のどこかに。

 人間の命をトランクに閉じ込め、種を飲ませ、自然の暴力を利用して完全犯罪を成し遂げた『本物の化け物』が。誰からも疑われることなく、一切の罪悪感も抱くことなく、高級なワイングラスを傾けながら、平然と、笑顔で暮らしているのだ。


 冷たい雨が、僕の体温を奪っていく。

 この世界で最も恐ろしいのは、オカルトでも、幽霊でも、呪いでもない。

 スマートシティという完璧に統制されたシステムの裏側に、一切の証拠を残すことなく、まるで呼吸をするように自然に溶け込んでいる『人間の悪意』そのものなのだ。


 僕は、背後の地下駐車場へと繋がる真っ暗なスロープを、もう一度だけ振り返った。

 あの暗闇の奥底で、今も天井から逆さまにぶら下がり、光の届かない世界で青白く肥大化し続けている、あの狂気の植物の姿が脳裏に焼き付いて離れない。

 その光景は、誰にも届かなかった一人の人間の絶望の断末魔として、僕の精神の奥底に、決して消えることのない深く重いホラーの余韻を、永遠に刻み込み続けていた。



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