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第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: 長月有希


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第3話『密室』 ~section9:迷宮入りと、見えない殺人者~

 泥水の中に膝をつき、胃液を吐き尽くした僕は、如月瑠璃の静かな、しかし絶対的な命令に従って、震える足に力を込めてゆっくりと立ち上がった。

 全身の筋肉が強張っている。マウンテンパーカーの裾からは、黒く濁ったヘドロの雫がポタポタと落ち、廃駐車場のコンクリートに重い音を立てていた。

 僕の視界の先には、フラッシュライトの純白の光に照らし出されたままの、おぞましい『密室のテラリウム』が広がっている。


 無惨にひしゃげた白骨遺体。その胃袋の跡地から生え出し、後部座席を貫通して天井に巨大な青白き脳髄を形成した狂気の植物。

 そして何より、僕の脳髄から絶対に離れようとしないのは、強固な鋼鉄のインナーパネルに無数に刻み込まれた、あの凄惨な『爪痕』だった。

 生きたまま暗黒のトランクに閉じ込められ、冷たい濁流が流れ込んでくる中で、爪が剥がれ、指の肉が裂けるまで鋼鉄を掻き毟り続けた山根智章の、声なき絶望の断末魔。

 先ほどまで僕の精神を支配していたのは、圧倒的な恐怖と、生理的な嫌悪感だった。しかし、事象のすべてのルーツが解体され、この空間で十年前に行われた行為の『真の残酷さ』を完全に理解した今。

 僕の胸の奥底で、恐怖という名の情動は、ドロドロに煮えたぎるような『激しい怒り』へと完全にシフトし始めていた。


「……許せない」


 僕は、泥水に汚れた両拳を、爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめた。


「こんなこと、絶対に許されるわけがない。……如月さん、犯人を突き止めましょう。そして、絶対に警察に突き出してやるんだ!」


 僕は、背中のリュックサックから再び十インチのタブレット端末を引きずり出し、泥にまみれた画面をマウンテンパーカーの袖で乱暴に拭いながら、早口でまくし立てた。


「十年前の月見坂アグリカルチャーの内部関係者を、もう一度徹底的に洗います。山根が裏金と『禁断の種』を持ち出したことを知っていて、彼を追跡できた人間。そして何より、十年前のあの事件の直後に、数億円という巨額の不自然な資産を手に入れた人間が、必ずどこかにいるはずです!」


 僕の指先は、怒りでカタカタと震えながらも、タブレットのコンソール画面に高速で検索クエリを打ち込み始めていた。


「海外のペーパーカンパニーへの不正送金記録、あるいは新市街の高級タワーマンションの不動産購入履歴。ブロックチェーンの初期の匿名取引ログだって、旧市街の古いサーバーのキャッシュを経由すれば、必ずマネーロンダリングの痕跡を引きずり出せる。……僕のオープンソース・インテリジェンスのスキルを全部つぎ込めば、この狂った殺人鬼の正体を、絶対にネットの海から特定してみせます!」


 僕は息巻いた。

 如月さんが物理的な事象を解体したのなら、僕はこのデジタル・デバイスを武器にして、犯人の社会的なルーツを解体してやる。この暗黒のトランクの中で、発狂しながら溺死していった一人の人間の絶望を、決して無駄にはしない。絶対に、犯人に法の裁きを受けさせてやるのだと。


 しかし。

 そんな僕の決意と情動の炎を、如月瑠璃の放った絶対零度の言葉が、一瞬にして完全に凍りつかせた。


「無駄な労力じゃ、サクタロウ。直ちにその情報端末の電源を落とすのじゃ」


「えっ……?」


 タブレットの画面から顔を上げると、漆黒の軍服風ジャケットに身を包んだ如月さんが、一切の温度を持たないアメジストの瞳で、僕の幼稚な正義感を冷ややかに見下ろしていた。


「なぜですか!? 犯人が憎くないんですか! あんな残酷な殺し方をして、数億円を奪って逃げた化け物を、このまま野放しにしていいわけがないじゃないですか!」


「憎い、憎くないという人間の低俗な情動のノイズで、事象の観測結果が歪むことはないと言っておる。……わしが『無駄』だと断定したのは、お主のその三流探偵のような行動が、物理的かつ法的に、一ミクロンの意味も持たないからじゃ」


 如月さんは、純白の手袋を嵌めた手で、開け放たれたトランクの空間――白骨遺体と、破壊された空のジュラルミンケースを静かに指し示した。


「よいか、サクタロウ。お主がどれほど執念深くネットワークの海を漁り、十年前に不自然な巨額の資産を得た『限りなく怪しい月見坂アグリカルチャーの幹部』を特定したとしよう。そして、その男を警察に突き出したとする」


 彼女は、氷のような声で、僕の希望的観測を解体していく。


「だが、それが何になる? 『動機』や『怪しい金の流れ』などというものは、法治国家の刑事裁判においては、単なる状況証拠の一つに過ぎぬ。その男が、十年前のあの日、この廃駐車場のこの車両のトランクに、山根智章を物理的に閉じ込めたという『直接的な物理証拠』が存在せぬ限り、いかなる人間も彼を殺人罪で裁くことなど絶対に不可能なのじゃ」


「物理証拠なら、ここにいくらでもあるじゃないですか!」


 僕は、フラッシュライトの光で、トランクの蓋や、ジュラルミンケースの残骸を照らし出した。


「犯人は、山根をトランクに押し込み、このジュラルミンケースのダイヤルロックをドリルで破壊した! なら、この金属の表面やトランクの蓋のどこかに、犯人の指紋や、皮膚片、汗や唾液のDNAが絶対に残っているはずです! 警察の最新の科学捜査班が徹底的に調べれば……」


「愚鈍じゃな。お主は先ほどから、この空間を支配している圧倒的な物理法則のルーツを、完全に記憶から消去しておるのか」


 如月さんは、心底呆れたように小さく息を吐き出し、漆黒のブーツで泥水に覆われたコンクリートの床をカツン、と叩いた。


「十年前の八月。この空間に何が起きたとわしは証明した? ……『大洪水』じゃ」


 大洪水。

 その単語が響いた瞬間、僕の反論の言葉は、喉の奥で完全にせき止められた。


「犯人が山根を閉じ込めた直後、この半地下駐車場は完全に濁流の底へと沈んだ。そして、この車両のトランクの内部には、強烈な水圧によって、川底のヘドロと無数のバクテリアを含んだ泥水が限界まで押し込まれたのじゃ」


 如月さんは、銀の匙を収めた腰のレザーベルトにそっと手を添えながら、絶望的な科学的真実を宣告していく。


「指紋とは、人間の指先から分泌される皮脂や汗といった『有機物の油膜』じゃ。DNAとは、細胞核に含まれる『核酸の塩基配列』じゃ。……それらの極めて微細で脆弱な有機的痕跡が、濁流の激しい水流による物理的な洗浄と、その後の十年間という途方もない時間の堆積に、耐えられると本気で思っておるのか?」


「……それは……」


「このトランクの内部は、単なる密室ではない。山根の死肉が腐敗し、ドロドロに溶け出し、高濃度のアンモニアと硫化水素が充満した『極限の化学的分解槽』じゃ。空気中の水分と結合した硫化水素は弱酸性の腐食ガスとなり、金属の表面を激しく酸化させる。さらに、川のヘドロの中に生息する無数の嫌気性バクテリアが、あらゆる有機タンパク質を容赦なく分解し、食い尽くしていく」


 如月さんの言葉は、まるで鋭いメスのように、僕の抱いていた『科学捜査への希望』をズタズタに切り裂いていった。


「犯人がトランクの蓋に触れた指紋。ジュラルミンケースをこじ開けた際に付着した微細な皮膚片。あるいは、山根と争った際に抜け落ちた一本の毛髪。……それらの、お主が期待する『犯人に繋がるすべての物理的痕跡』は、この十年間で、水と酸とバクテリアによって分子レベルで完全に分解され、このヘドロの泥の海の中に溶け込み、一ミクロンたりとも残さず完全に消滅しておるのじゃよ」


 彼女は、純白の手袋で空のジュラルミンケースを指差した。


「たとえ世界最高の科学捜査機関が、最先端の電子顕微鏡やルミノール反応を用いてこの空間を何万時間調べ上げようとも。犯人の存在を証明する物理的証拠は、『ゼロ』じゃ。完全に、完全に洗い流されておる」


 ゼロ。


 完全に洗い流されている。

 その事実が僕の脳髄で処理された時、僕は自分が立っているこの世界の、底知れぬ理不尽さと恐ろしさに、激しい眩暈を覚えた。


「じゃあ……」


 僕は、持っていたタブレットを力なく泥水の中に落としそうになりながら、震える声で呟いた。


「じゃあ、犯人は……どうなるんですか。山根の遺体が発見されても、誰も捕まらないってことですか……?」


「その通りじゃ」


 如月瑠璃は、一切の同情を含まない、冷酷なまでに美しいアメジストの瞳で僕を見据えた。


「警察の捜査一課がここに到着し、この現場を観測したとして。彼らが導き出す法的な結論は、極めてシンプルじゃ。……『十年前、会社の裏金を横領して逃走した山根智章は、この地下駐車場に隠れていたところ、不運にも観測史上最大の大洪水という自然災害に巻き込まれた。彼はパニックに陥り、自らトランクの中に避難したが、そのまま車が水没して溺死した。そして、彼が持っていた裏金は、濁流に流されて完全に紛失したか、あるいは水が引いた後に旧市街の浮浪者か誰かに持ち去られた』……という、単なる『不運な水没事故』および『窃盗被害』というシナリオじゃな」


「そんな……! だって、山根は明らかに殺されたんですよ! トランクの中に押し込まれて、種を飲まされて……あんなに苦しんで、鉄板を掻き毟って死んだのに!」


「それが、この事象の最も悍ましく、そして最も完璧な部分じゃ」


 如月さんは、トランクの蓋の裏側に残されたあの狂乱の爪痕へと視線を向けた。


「犯人は、自らの手を一切汚していない。ナイフで刺したわけでも、銃で撃ったわけでも、自らの手で首を絞めたわけでもない。犯人が行った物理的なアクションは、気絶した人間を箱に入れ、鍵をかけたという『ただそれだけ』のことじゃ」


 彼女は、漆黒の軍服風ジャケットの袖を優雅に翻し、事象の最終的な解体結果を突きつけた。


「山根の命を直接奪った『真の凶器』は、十年前の大洪水という、地球の気象メカニズムが引き起こした『自然の暴力』じゃ。そして、犯人のすべての痕跡を消し去った共犯者もまた、水とバクテリアという『大自然の物理法則』に他ならぬ」


 彼女の声は、深い絶望の淵から響いてくるような、恐ろしいほどの静けさを持っていた。


「人間を裁くための法律は、自然災害を殺人罪で起訴することはできぬ。……これが、大自然の物理法則を凶器と隠蔽に利用した、究極の『完全犯罪』のルーツじゃ。もはや、この事象において、犯人を法的に裁く手立ては、この世界のどこにも残されていないのじゃよ」


 裁く手立ては、残されていない。

 その絶望的な宣告が、極めて濃密な死臭が渦巻く地下駐車場に、重く、重くのしかかった。

 僕は、フラッシュライトの光の先にある、無惨な白骨遺体を見つめた。

 彼は、十年間、この真っ暗な密室の中で、自分が産み出した化け物に内臓を喰われながら、誰かに発見されるのを待っていたのだろうか。自分の無念を、殺された絶望を、誰かに暴いてもらうために。


 しかし、事象のすべてが解体され、真実が白日の下に引きずり出されたというのに。

 彼には、何の救済も与えられない。犯人が捕まることも、彼が報われることも、永遠にないのだ。


「物理的証拠はゼロじゃ。事象は完璧に解体されたが、それに伴う人間の救済などというものは、最初から存在せぬ」


 如月瑠璃は、アメジストの瞳を細め、僕たちの頭上……分厚いコンクリートの天井の遥か上方に広がるであろう、月見坂市の空へと視線を向けた。


「犯人は今頃、山根から奪った数億円の裏金を元手に完全に資金洗浄を終え、新市街の光り輝くタワーマンションの最上階にでも住んでおるじゃろう。……この澱んだ旧市街の泥水や死臭など一切届かない、完璧に空調の管理された清潔な部屋で。社会の成功者として、高価なヴィンテージ・ワインでも傾けながら、優雅な週末の夜を楽しんでいるはずじゃ」


 新市街のタワーマンション。

 ワイングラスを傾ける、見えない殺人者。

 その光景を想像した瞬間、僕は強烈な吐き気とは全く別の、腹の底からこみ上げてくるような、ドス黒い不快感と悪寒に全身を支配された。

 十年間、この真っ暗なトランクの底で、泥とヘドロにまみれて白骨化していった山根智章。

 その頭上、わずか数キロ先の眩い光の中で、彼をこんな地獄に突き落とした本物の『化け物』が、誰からも疑われることなく、笑顔で、名士として、平然と日常を生きている。


 これほどの胸糞の悪さが、この世に存在するだろうか。

 僕が好んで読むようなミステリー小説であれば、最後には必ず探偵が犯人を追い詰め、華麗な推理で物理的証拠を突きつけ、カタルシスと共に事件は解決する。

 しかし、現実の物理法則は、そして如月瑠璃という絶対零度の観測者が解体する事象のルーツは、そんな人間の都合の良い情動やドラマ(ご都合主義)を、一切許容してはくれない。

 事象はただそこに在り、物理法則はただ無慈悲に証拠を消し去るだけ。


「サクタロウ。観測結果を受け入れ、事実を認識せよ」


 如月さんは、静かに視線を僕へと戻した。


「この世界で最も恐ろしいのは、幽霊でも、呪いでも、密室の天井から生える青白き脳髄でもない。……完全な論理と物理法則を用いて事象を操作し、他者の絶望を養分にして平然と日常に溶け込んでいる、『人間の悪意』そのものじゃ。……この胸糞の悪い結末こそが、お主が知りたがった真実の重さじゃよ」


 僕は、泥水の上に立ち尽くしたまま、何も言い返すことができなかった。

 ただ、フラッシュライトを持つ手が小刻みに震え、足元に広がるヘドロの泥水が、まるで巨大な沼のように僕の精神を暗黒の底へと引きずり込んでいくのを感じていた。

 事象は解体された。すべての謎は論理的に説明された。

 だが、この地下駐車場に渦巻く極めて濃密な死の匂いと、行き場を失った人間の絶望だけが、決して消えることのないおぞましい『迷宮入り』の余韻となって、僕の全身に重く、重くのしかかり続けていた。



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