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第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『密室』 ~section8:爪痕と、情動の特異点~

 フラッシュライトの純白の光束が切り取った、十年間封印されていた暗黒のトランクの内部。

 極めて高濃度の硫化水素とカダベリンの死臭が渦巻くその極小の空間で、僕の網膜は、この世の物理法則と生命の尊厳を完全に冒涜するような、おぞましい悪夢の光景を捉え続けていた。


 無惨にひしゃげた白骨遺体。かつて月見坂アグリカルチャーの天才研究員であり、数億円の裏金を横領した山根智章という人間の成れの果て。

 その後部座席の背もたれのウレタンを完全に食い破り、トランクの内部へと侵入してきた太く悍ましい植物の『根』のネットワークは、泥に塗れた彼の肋骨の隙間を縫うようにして深く絡みつき、その最も太い中心部分は、かつて彼の『胃袋』が存在していた骨盤上の空洞から、直接生え出していた。

 十年前の大洪水。濁流に飲まれて逆さまに転覆した気密性の高い高級セダン。水圧によって侵入した泥水。暗闇のトランクの中での溺死。そして、胃袋の中で発芽し、己を包む死肉を貪り食って、重力に従って当時の床へと根を伸ばした禁断の種子。


 それは、流体力学と植物の重力屈性という純粋な物理法則が織りなした、あまりにも完璧で、そして悪夢のような『完全犯罪のテラリウム』の形成プロセスだった。

 すべての物理的なトリックは、如月瑠璃の圧倒的な知性によって、氷の刃のように冷徹に解体された。

 しかし、事象のメカニズムが完全に理屈で説明されたからといって、僕の心がこの惨状を受け入れられるわけではなかった。


「……ひどい……」


 僕は、泥水の上にへたり込んだまま、ガチガチと鳴る歯の根を必死に噛み締め、うわ言のように呟いた。


「いくら彼が裏金を横領した犯罪者だったからって……こんな殺し方、あんまりだ。金を奪うだけじゃなく、彼が人生をかけた『種』を無理やり飲み込ませて、トランクに閉じ込めるなんて……。彼を殺した犯人は、人間じゃない。人間の皮を被った、本物の化け物だ……」


 怒りと、それ以上の底知れぬ恐怖が、僕の精神を激しく揺さぶっていた。

 僕のお人好しな『情動』は、フラッシュライトの光に照らされた白骨遺体を見た瞬間から、十年前のこの閉鎖空間で起きた『彼』の絶望を、あまりにも生々しく脳内にフラッシュバックさせ始めていたのだ。

 僕は、その恐ろしい想像の連鎖を物理的に断ち切るように、震える両手でフラッシュライトの光の軸を、白骨遺体から逸らした。

 光は、ドロドロのヘドロが堆積したトランクの底面から、上部……つまり、油圧スプレッダーで強引にこじ開けられた『トランクの蓋の裏側(インナーパネル)』へと移動した。


 その時だった。


「……え?」


 僕の視界に入ってきた『それ』を脳の視覚野が認識した瞬間。

 全身の血液が、文字通り一瞬にして凍りつくような、決定的な悪寒が背筋を貫いた。


「な、なんだよ……これ……」

 僕は震える手でフラッシュライトを強く握り直し、トランクの蓋の裏側へと、純白の光束を真っ直ぐに叩きつけた。


 光に照らし出されたトランクの蓋の裏側。本来であれば、荷物を保護し、車外からの騒音を遮断するための、分厚い黒色の吸音材で綺麗に覆われているはずのその場所は、目を覆いたくなるような『凄惨な破壊の痕跡』で埋め尽くされていたのだ。

 分厚いフェルト生地は、まるで猛獣の爪で引き裂かれたボロ雑巾のように無惨に千切れ、広範囲にわたって剥がれ落ちていた。

 そして、その布地の奥から剥き出しになった、黒く塗装された鉄板の表面には。

 縦に、横に、斜めに。幾重にも、幾重にも重なり合うようにして……無数の『深く、鋭い引っかき傷』が、狂気的なまでの密度で刻み込まれていたのだ。


「あ……ああぁっ……!」


 僕は、喉の奥からヒュッという引きつった音を漏らし、口元を両手で強く押さえた。

 その無数の傷跡は、マイナスドライバーやハンマーなどの金属製の工具で作られたものではない。

 人間の、指先。

 人間の脆弱な『爪』と『肉』だけで、自動車の強固な鋼鉄のパネルを限界まで削り取ろうとした、狂乱と絶望の物理的痕跡だった。


 フラッシュライトの光の角度をわずかに変えると、その爪痕の奥の惨状が、さらに解像度を上げて僕の網膜に焼き付いてきた。

 深く抉られた鉄板の溝の奥には、長年の酸化によって真っ黒に変色した『大量の血液の飛沫』が、カサブタのようにべったりとこびりついている。さらに恐ろしいことに、鉄板の隙間や、鋭くめくれ上がった金属のバリの先端には、人間の指先の爪そのものが根本から剥がれ落ち、皮膚や肉の残骸と共に、いくつも、いくつも突き刺さって硬化していたのだ。


 その物理的な証拠が物語る『十年前の真実』は、あまりにも残酷で、僕の精神の許容量を完全に、そして一瞬にして破壊するのに十分だった。

 山根智章は。

 このトランクに閉じ込められ、大洪水の濁流に飲まれて車が『逆さまに転覆』した時。

 彼は、生きていたのだ。

 追っ手に気絶させられたまま、痛みも恐怖も知らずに水に沈んだのではない。彼は、完全に覚醒した状態で、この暗黒の密室の中に閉じ込められていたのだ。


 車が濁流の中でひっくり返り、現在の『トランクの蓋』が、彼にとっての『床』になった瞬間。

 完全な暗闇。天地が逆転する強烈な空間識失調。そして、ドアのゴムパッキンの隙間から、致死量の冷たい泥水が、恐ろしい水圧と共にトランクの内部へとジワジワと、しかし確実に侵入してくる音。

 胃袋の中では、無理やり飲まされた未知の種子が、強烈な異物感と共に彼の内臓を内側から侵食し始めている。

 迫り来る冷たい泥水の中で、彼は自分が数分後に『溺死』するという絶対的な絶望を悟ったはずだ。


 真っ暗な濁流の底。誰にも声は届かない。誰も助けに来ない。

 彼は、パニックと狂乱の中で、下に向かって……つまり、自分の体を支えているトランクの蓋の裏側に向かって、必死に、必死に指を立てたのだ。

 開けてくれ。出してくれ。助けてくれ。死にたくない。

 爪が割れ、生爪が根本から剥がれ落ち、指の肉が裂けて白骨が露出してもなお。彼は発狂したように自身の血液を泥水の中に撒き散らしながら、硬い鋼鉄の壁を、溺死の直前まで、肺の中の最後の空気がなくなるその一秒前まで、声にならない絶望の悲鳴と共に掻き毟り続けたのだ。


「うっ……うわああああああああっ!!」


 僕は、フラッシュライトを泥水の中に落とし、両手で自分の頭を抱え込んで、廃駐車場に響き渡るような悲鳴を上げた。

 だめだ。情動の同調が、僕の脳の処理限界を超えている。

 生爪が剥がれる激痛。冷たく濁った泥水が鼻腔と気管に流れ込んでくる窒息の苦しみ。暗闇の中で感じた、絶対的な孤独と、発狂するほどの絶望。

 十年前、このたった数立方メートルの鉄の箱の中で、一人の人間が味わった『究極の地獄の断末魔』が、僕の脳髄に直接流れ込んでくる。

 僕は泥水の上に這いつくばり、マウンテンパーカーの襟をかなぐり捨てて、胃液が完全に空っぽになるまで何度も何度も嘔吐した。とめどなく溢れる涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、泥水の中でガタガタと痙攣するように震え続けた。


 僕が恐怖と絶望の情動に完全に呑み込まれ、自我を失いかけて崩れ落ちている中。

 如月瑠璃は、泥水に己の漆黒のロングスカートの裾が汚れることなど一切気に留めず、静かな、極めて静かな足音を立てて、僕の横を通り過ぎた。

 漆黒の軍服風ジャケットの冷たく美しいシルエットが、泥水に落ちたフラッシュライトの純白の光の中に、神々しいほどの輪郭を持って浮かび上がる。

 彼女は、開け放たれたトランクの前に立ち、アメジストの瞳で、その鉄板に刻まれた無数の凄惨な『爪痕』を、ただじっと、無言で見つめていた。


 ……いつもなら。


 僕がこうして他人の悲劇に過剰に感情移入し、涙を流して崩れ落ちている時、彼女は決まって氷のように冷酷な言葉を投げかけてくるはずだった。


『愚鈍じゃな、サクタロウ。人間の情動など、所詮は生存本能が引き起こす脳内の無意味な電気信号のエラーに過ぎぬ』


『お主が流している涙は、ただの塩分とタンパク質の混合液じゃ。事象の観測において、一ミクロンの価値もないノイズじゃな』


 そう言って、人間の悲しみや絶望を『無価値なバグ』として完全に切り捨て、ただ物理的なルーツだけを抽出するのが、絶対零度の鏡である如月瑠璃という特異な観測者の、揺るぎないスタンスだった。


 しかし。

 今日の彼女は、泥水の中で嘔吐し、泣きじゃくる僕を蔑むような言葉を、ただの一つも発しなかった。

 それどころか、彼女は首から下げていたアンティークの純銀製ルーペを静かに外してポケットにしまうと。

 ゆっくりと、右手を虚空へと伸ばしたのだ。


 一切の汚れを知らない、純白の綿手袋に包まれた、ひどく華奢で美しい指先。

 彼女はその指先で、真っ黒な血液の飛沫と、剥がれ落ちた人間の爪が突き刺さった、錆びついた鋼鉄の『爪痕』の最も深い溝に……そっと、触れたのだ。


「……如月、さん……?」


 僕は、痙攣する胃袋を押さえながら、涙で歪む視界の先にある彼女の信じられない行動に、呆然と声を漏らした。

 他者の情動が染み付いたものに、ましてや血液や体液の残骸に、彼女が自ら物理的に触れるなど、今までの事象の解体においては絶対にあり得ないことだった。彼女は常に、物理法則という無菌室の中から事象を解体してきたはずだ。


「サクタロウ」


 如月さんの声は、いつもとは違う……どこかひどく静かで、そして深い海の底から響いてくるような、不思議な重さを帯びていた。


「人間の指の爪……ケラチン質のモース硬度は、およそ2・5。それに対して、自動車のボディパネルに使用される高張力鋼板(ハイテン材)の硬度は、およそ4・0から5・0じゃ」


 彼女は、純白の手袋の指先で、深く抉られた鋼鉄の溝を、ツーッと静かになぞった。


「物理学の基礎法則において、硬度の低い物質が、硬度の高い物質をこれほどまでに深く削り取ることは、絶対に不可能じゃ。摩擦係数と強度の限界を超え、人間の指の骨と肉は一瞬で崩壊するはずじゃからな。……本来であれば、鋼鉄にこのような深い物理的痕跡を残すことなど、人間の肉体にはできぬ」


 如月さんは、爪痕に触れたまま、アメジストの瞳を薄く閉じた。


「……しかし、現にここには、人間の脆弱なケラチン質が、硬い鋼鉄を無惨に引き裂き、削り取った物理的な痕跡が、これほどまでに強烈な密度で残されておる。……これは、彼が溺死する直前の数分間に発した『恐怖』と『絶望』というエネルギーが、彼自身の肉体の物理的リミッターを完全に破壊し、不可能を可能にしたという……明確な証明じゃ」


 彼女は、純白の手袋についた黒い血液と錆の汚れを、忌避することも、拭い落とそうともしなかった。


「……人間の情動とは」


 如月瑠璃は、目を開き、その狂気の爪痕を見据えながら、静かに、しかし確かな敬意にも似た響きを持って、言葉を紡いだ。


「人間の悪意と、絶望という名の情動は。……時に、絶対的な物理法則すらも凌駕するほどに重く、そして……これほどまでにおぞましい『密度』を持つものなのじゃな」


 その言葉を聞いた瞬間、僕は雷に打たれたような衝撃を受けた。

 無意味なノイズ。化学物質のバグ。そう言って人間の心を否定し続けてきた孤高の天才令嬢が。

 今、この瞬間、初めて人間の『情動』を、『無視できない強烈な物理的エネルギー』として、明確に、そして正面から認めたのだ。

 それは、彼女という絶対零度の完璧なシステムに生じた、極めて微細で、しかし決定的な『特異点』だった。


 僕は、泥水の上に座り込んだまま、彼女のその横顔から目が離せなくなった。

 彼女がなぜ、突然人間の情動というノイズに歩み寄り、その重さを理解しようとしたのか。僕には何となく、その理由がわかる気がした。

 亡くなった親友、皐月優奈。

 彼女の死という、如月瑠璃の人生に刻まれた唯一にして最大の『情動のルーツ』。それに正面から向き合い、過去の因縁を完全に解体するためには、彼女自身が『人間の心の重さ』という不確定な物理的パラメータを、自身の計算式の中に組み込む必要があったのだ。

 彼女は今、この十年前の凄惨な殺人現場という極限の地獄の中で、自身の『情動の視座』の解像度を、さらに深く、さらに高い次元へとアップデートしようとしている。


「事象の観測は、すべて完了した」


 如月さんは、鉄板から純白の手袋を静かに離し、漆黒の軍服風ジャケットの背筋を真っ直ぐに伸ばした。


「十年間封印されていた密室のテラリウム。重力の逆転現象。そして、人間の悪意が培養した青白き脳髄。……この空間に隠されていたすべての物理的矛盾と、情動のルーツの解体は、これにて終了じゃ」


 彼女は、ゆっくりと振り返り、泥水の中に落ちていた僕のフラッシュライトを拾い上げると、その純白の光束で、僕の顔を真っ直ぐに照らし出した。


「立ち上がれ、サクタロウ。いつまでその汚水の中で這いつくばっておるつもりじゃ」


 その声は、いつも通りの氷のように冷徹な、僕の知る孤高の令嬢の声に戻っていた。


「事象の数式は解き終わった。しかし、この密室の底には、まだ一つだけ……決して解くことのできない『最悪のバグ』が残されておる」


 アメジストの瞳が、暗闇の中で冷たく、そして鋭く光る。

 人間の情動の重さを初めて認めた彼女の刃が、次にどこへ向かうのか。僕は震える足で泥水の中から立ち上がりながら、来るべき『最後の現実』の宣告を待っていた。



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