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第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『密室』 ~section7:濁流の密室と、悪意の底~

 フラッシュライトの純白の光束が切り裂いた、十年間封印されていた暗黒のトランクの内部。

 極めて高濃度の硫化水素とカダベリンの死臭が渦巻くその極小の空間で、僕の網膜は、この世の物理法則と生命の倫理を完全に冒涜するような、悪夢の光景を捉えていた。


無惨にひしゃげた白骨遺体。かつて月見坂アグリカルチャーの天才研究員であり、数億円の裏金を横領した山根智章という人間の成れの果て。

 その後部座席の背もたれのウレタンを完全に食い破り、トランクの内部へと侵入してきた太く悍ましい植物の『根』のネットワークは、彼の肋骨の隙間を縫うようにして深く絡みつき、その最も太い中心部分は、かつて彼の『胃袋』が存在していた骨盤上の空洞から、直接生え出していたのだ。


「根が……胃袋から……。そんな、ありえない……」


 僕は泥水の上にへたり込んだまま、ガチガチと鳴る歯の根を必死に噛み締め、マウンテンパーカーの襟越しに震える声を絞り出した。


「如月さん……。これ、何かの間違いですよね。いくらなんでも、人間の体の中から植物が生えるなんて……。そうだ、彼が逃げている最中に、パニックになって自分の持っていた種を誤って飲み込んじゃったとか……。それで、偶然胃袋の中で発芽しただけなんだ……」


 僕は、目の前にある圧倒的な悪意のルーツから目を背けたくて、必死に『ただの不運な事故』というシナリオを脳内で構築しようとした。

 しかし、漆黒の軍服風ジャケットに身を包んだ孤高の観測者は、僕のその逃避という名の情動のノイズを、氷の刃のような冷徹な論理で一刀両断に切り捨てた。


「お主のその希望的観測は、現場に残された物理的痕跡と完全に矛盾しておる」


 如月瑠璃は、泥水に塗れたトランクの底面を純白の手袋で指し示した。


「よく見るのじゃ。そこに転がっている、ダイヤルロックをドリルで暴力的に破壊された三つの空のジュラルミンケースを。山根は自身の命に等しい裏金と、人生をかけた『試作品の種子』を、外部からの衝撃を完全に遮断するこの強固な箱の中に厳重に格納して逃走した。……彼が自らの意志でその箱を開け、あまつさえ大切な研究成果である種子を、自らの口腔内に放り込んで嚥下するなどという非論理的な行動をとるはずがなかろう」


 如月さんのアメジストの瞳が、暗闇の中で最も冷酷な真実を見据えて妖しく光り輝いた。


「この物理的状況が証明している真実はただ一つ。……十年前のあの日、この地下駐車場で彼を待ち受けていた何者かが、彼からすべてを奪い、そしてこの『悪夢のテラリウム』を意図的に構築したということじゃ」


 意図的に、構築した。

 その言葉の響きに、僕の背筋を氷の塊が滑り落ちていくような強烈な悪寒が走った。


「サクタロウ。十年前の殺人劇の『完全な時系列』を、今ここにある物理法則の残骸から再構築する」


 如月さんは、開け放たれたトランクの前に凛とした姿勢で立ち、死臭の漂う空間に一切の温度を持たない声で事象を解体し始めた。


「十年前の八月。山根はこの廃立体駐車場へと逃げ込み、追っ手である犯人と接触した。犯人は山根を物理的な暴力によって制圧し、あるいはスタンガン等で気絶させた。そして、トランクに積まれていたジュラルミンケースのロックを破壊し、内部に格納されていた数億円の現金の束と、研究データの入ったハードディスクを完全に強奪した」


 如月さんは、銀の匙を収めた腰のレザーベルトにそっと手を添えた。


「しかし、犯人はそこにあった『試作品の種子』には、金銭的な価値を見出さなかったか、あるいは持ち運ぶ余裕がなかった。だが、ただその場に捨て置くような真似はしなかったのじゃ。……犯人は、気絶した山根の口腔を無理やりこじ開け、奪えなかったその種子を、強烈な悪意と、あるいは彼の研究に対する嘲笑の念を込めて、彼の胃の腑へと直接流し込んだ」


「種を、無理やり飲ませた……?」


 僕は、そのあまりにも異常で残酷な行為に、吐き気すら忘れて絶句した。


「左様。自分自身の人生を狂わせた『禁断の種』を、己の胃袋に収めることになった研究者の絶望。犯人はその皮肉な結末を嘲笑いながら、意識を失った山根を、空になったジュラルミンケースと共にこの狭いトランクの中へと放り込み、外から鍵をかけて完全に監禁したのじゃ」


 真っ暗なトランクの中に、生きたまま閉じ込められる。

 それだけでも正気の沙汰ではない。しかし、如月さんの解体する真実は、そこからさらに凄惨な『自然現象との融合』へと向かっていく。


「そして、犯人が立ち去った後。……あるいは、犯人自身がこの車両を意図的に排水溝の近くへと誘導したのかもしれぬが、月見坂市旧市街を、観測史上最大の『大洪水』という自然の猛威が襲った」


 如月さんの透き通るような声が、十年前の激しい濁流の轟音を僕の脳内に強制的に再生させる。


「この半地下駐車場は、瞬く間に膨大な質量の濁流に飲み込まれた。気密性の高いこの高級セダンは巨大な浮きとなって水面に浮かび上がり、水流の渦によって『完全に逆さま』に転覆した。……トランクの中に閉じ込められていた山根は、天地が逆転する強烈な衝撃と、ドアの隙間から恐ろしい水圧で侵入してくる冷たい泥水によって、絶対的な暗闇の中で絶望的な溺死、あるいは窒息死を迎えたのじゃ」


 僕は、フラッシュライトの光に照らされた白骨遺体を見つめた。

 彼は、この真っ暗な鉄の箱の中で、冷たい泥水が自分の顔を覆い尽くしていく恐怖を、たった一人で味わったのだ。誰も助けに来ない、完全な密室の中で。


「人間の犯罪のドラマとしては、ここで一つの結末を迎える。……しかし、物理学と生物学の観点から見れば、ここは単なる『事象のスタート地点』に過ぎぬ」


 如月瑠璃は、白骨遺体に対する哀れみや同情など一ミクロンも持ち合わせていないかのように、ただ純粋な観測者としての視座を貫き通した。


「真の狂気は、彼が死に絶え、地下駐車場の水が完全に引くまでの数週間の間に、この逆さまの密室で進行した」


 彼女は、純白の手袋の指先を、白骨遺体の肋骨の隙間から伸びる太い植物の根へと向けた。


「水没した車内で、山根の肉体は急激な腐敗を始めた。細胞が崩壊し、タンパク質がアミノ酸へと分解され、極めて高濃度のアンモニアや硝酸塩といった『無機窒素化合物』が、密閉されたトランクの内部に大量に溶け出していく。……それは奇しくも、彼自身が開発した『動物性タンパク質を直接分解して成長する遺伝子組み換え種子』にとって、この上ない極上の液体肥料となったのじゃ」


 自分の肉体が、自分が産み出した化け物の肥料になる。

 その完璧で、そしてあまりにも冒涜的な生命のサイクルに、僕は背筋が凍りつくのを感じた。


「胃袋の中で休眠状態にあった種子は、周囲の豊富な水分と、己を包み込む『人間の臓腑』という極上の栄養源を感知し、暗黒の水没空間で狂気的な発芽を遂げた。種子は山根の胃壁を食い破り、腐敗していく腸や肝臓の組織を無惨に分解・吸収しながら、爆発的な速度で細胞分裂を繰り返していったのじゃ」


 如月さんの声は、まるで精密な機械が生命の神秘を解説するかのように、冷たく、そして滑らかに紡がれていく。


「そして、植物の絶対的な物理法則である『正の重力屈性』が機能する。根の先端にあるアミロプラストが地球の重力方向を正確に感知し、山根の肉体を完全に突き破って『下』へと向かって伸び始めた。……当時の逆さまの車内において、『床面』となっていたのはどこじゃ、サクタロウ?」


「……今の、布張りの天井、です……」


「左様。トランクから後部座席へと侵入した太い根のネットワークは、静水圧によって侵入し、当時の床に分厚く堆積していた『川のヘドロと骨粉の層』へと到達した。そこでさらに強固な根を張り巡らせ、車体を支える鉄板の骨組みに、己の巨大な質量を完全に固定したのじゃ」


 彼女は、フラッシュライトの光の軸を、後部座席の天井で逆さまにぶら下がる巨大な『青白き脳髄』へと移動させた。


「根が下へと向かったのとは逆に、植物の茎と蕾は『負の重力屈性』に従い、上……すなわち当時の天井であった『車の底面』に向かって異常な肥大化を続けていった。光の届かない環境下で葉緑素を生成することを放棄し、ただ己の質量を増殖させることだけに特化した、巨大で青白い異形の姿へと変貌しながらな」


 如月さんは、そこで一度言葉を区切り、アメジストの瞳を細めて、その醜悪な悪意の結晶を静かに見上げた。


「そして、大洪水から数週間後。地下駐車場の水が完全に引いた時、最後の流体力学的な物理現象が発生した。浮力を失った車体は、エンジンやシャーシの重い底面を下にして、空中で自然に回転し、現在のこの正しい向きで着底したのじゃ」


 ドンッ、と、如月さんは漆黒のブーツでコンクリートの床を強く踏み鳴らし、車が着底した衝撃を表現した。


「天地が再び逆転した強烈な衝撃によって、トランク内にあった山根の遺体とジュラルミンケースは、そのままトランクの底へと叩き落とされた。しかし、すでに天井の鉄板と泥の層に強固な根を張り巡らせていた植物の本体だけは、そのまま車内に『逆さまにぶら下がる形』となって取り残された」


 如月瑠璃は、漆黒の軍服風ジャケットの背筋を真っ直ぐに伸ばし、圧倒的な知性の光を放つ瞳で、僕を見下ろした。


「これが、この密室における『悪意の完全培養』の、物理的な全貌じゃ」


 彼女の冷徹な総括が、死臭に満ちた地下駐車場に重く響き渡る。


「犯人は、ただ山根を殺し、金を奪うためだけに、種を飲ませてトランクに閉じ込めたのじゃろう。大洪水という自然災害が起きることも、車が逆さまに水没することも、ましてや山根の死肉を喰らった種子が、密室の天井でこれほどまでに巨大な狂気のテラリウムを構築することなど、犯人自身すら予想していなかったはずじゃ」


 人間の悪意という種が、大自然の暴力という流体力学と結びつき、誰も予想し得なかった『ありえない場所にあるありえないモノ』を物理的に生み出した。


「人間の情動が引き起こす犯罪など、所詮はありふれたバグに過ぎぬ。しかし、それが純粋な物理法則と融合した時……事象はかくも美しく、そして残酷な形を形成する。実に、実に興味深いルーツの解体であった」


 如月瑠璃は、目の前にある人間の凄惨な死と、それに至るまでの圧倒的な絶望のプロセスを完全に論理で解き明かしながらも、その表情には一欠片の同情も、恐怖も浮かべていなかった。

 彼女にとって、山根智章という人間の死は、巨大なブロッコリーが密室で育つための『肥料の一つ』でしかなかったのだ。

 その徹底した情動の欠落。絶対零度の観測者としての彼女の姿は、この車内に咲き誇る青白い化け物よりも、ある意味で底知れぬ恐ろしさを秘めているように、僕の目には映った。


「事象のメカニズムは、すべて証明された」


 如月さんは、純白の手袋で自身の前髪を優雅に払いながら、静かに(きびす)を返そうとした。


「さあ、帰るぞサクタロウ。肥料の成分も、水没の論理も完全に解体し終えた。この過剰な死臭の漂う不衛生な空間に、これ以上長居する物理的理由は存在せぬ」


 彼女は、完全に事件に興味を失い、事象の解体という『自分だけの目的』を達成したことへの冷たい満足感と共に、この地獄のような現場から立ち去ろうとしていた。

 しかし。

 僕は、泥水の上にへたり込んだまま、どうしてもその場から動くことができなかった。

 物理的なトリックは解けたかもしれない。

 だが、僕のフラッシュライトの光の端が捉えてしまった『ある致命的な痕跡』が、僕の脳髄に強烈な警鐘を鳴らし、僕の魂をこの暗黒のトランクの底へと強力に縛り付けていたのだ。


「……如月さん。待ってください……」


 僕は、カタカタと震える唇から、血を吐くような声を絞り出した。


「まだ、終わってません。……いや、終わらせちゃいけないんだ。こんなの……あんまりだ……」


「何事じゃ、サクタロウ。観測は完全に終了したはずじゃが」


 如月さんが怪訝そうに振り返る中、僕は両手でフラッシュライトを握りしめ、その純白の光束を、白骨遺体から上部……すなわち、油圧スプレッダーで強引にこじ開けられた『トランクの蓋の裏側(インナーパネル)』へと、ゆっくりと移動させた。


 そこには、如月瑠璃の完璧な物理法則の数式を根底から揺るがすような。

 人間の『最も重く、最もおぞましい情動のルーツ』が、十年間、誰の目にも触れることなく、ただ静かに刻み込まれ続けていたのだ。



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