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第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『密室』 ~section6:開かれた棺と、臓腑の苗床~

 大洪水という自然の暴力と、流体力学が引き起こした『重力の逆転現象』。それだけでも僕の常識を完全に破壊するには十分すぎるほどの異常事態だったというのに、彼女はさらにその奥底に潜む「人間の悪意」を引きずり出そうとしている。

 僕は、泥水の上に座り込んだまま、彼女が漆黒の軍服風ジャケットの純白の手袋で指し示した方向――後部座席のさらに奥、すなわち『トランク』の方向へと、ゆっくりと視線を向けた。


「あの……如月さん。トランク、ですか?」


 僕の声は、マウンテンパーカーの分厚い襟越しでもはっきりとわかるほど、情けなく震えていた。


「左様。サクタロウ、先ほどお主が自身の端末でサルベージしたデジタルな記録を、もう一度脳内で物理的な情報として再構築してみよ」


 如月さんは、開け放たれた後部座席のドアから身を引き、泥水にまみれた車体の後方へと、一切の躊躇なく優雅な足取りで進んでいく。


「十年前の八月。月見坂アグリカルチャーの天才研究員、山根智章。彼は数億円の物理的な現金の束と、光合成を必要とせず動物性タンパク質を直接分解して爆発的に成長する『禁断の試作品の種子』を奪い、逃走した。……その際、彼はそれらの膨大な質量を、どのような容器に格納して持ち運んだと記録されておった?」


「ええと……外部からの衝撃や水濡れを完全に遮断する、特殊な気密構造を持った、複数の『大型ジュラルミンケース』……です」


「その通りじゃ。そして、彼はそのジュラルミンケースを、間違いなくこの車両の『トランク』へと積み込んで逃走した。防犯カメラの映像という視覚的証拠がそれを証明しておる。……しかし、現在我々が観測しているこの車内の後部座席には、そのような巨大な金属の箱は一つも存在せぬ」


 如月さんは、完全に錆びつき、エンブレムも剥がれ落ちたトランクの蓋の前に立ち止まった。


「十年間、この車は密室だった。ならば、そのジュラルミンケースは、そして逃走したはずの山根智章という人間の質量は、一体この物理的空間のどこへ消えたというのじゃ?」


 その問いに、僕の心臓が早鐘のように激しく鳴り始めた。

 車内にはない。そして、車は十年間密室だった。

 ならば、答えは一つしかない。


「……この、トランクの中に……全部、入っている……?」


「物理的な消去法を用いれば、当然の帰結じゃな」


 如月さんは、先ほどドアをこじ開けたあの重い電動油圧スプレッダーを、泥水の中から拾い上げ、僕の足元へとドンッと無造作に落とした。


「サクタロウ。お主の手で、この最後の密室の封印を破壊せよ。……事象の最深部に隠された人間の情動のルーツは、お主自身の眼球と脳髄で直接観測しなければ、その真の重さを理解することはできぬ」


「ぼ、僕がやるんですか!?」


「わしの指示は絶対じゃ。それとも、わしが一人でこの重機を扱い、事象を解体するのを、下僕のお主はただ泥水の上で震えながら眺めているつもりか?」


 アメジストの瞳で見下ろされ、僕は反論の余地を完全に奪われた。

 僕は覚悟を決め、泥水に濡れたコンクリートの床から立ち上がった。そして、数キロはある重い油圧スプレッダーのグリップを両手でしっかりと握りしめ、トランクの蓋とリアバンパーの間の、カチカチに硬化したゴムパッキンの隙間へと、チタン製の太い鉤爪を慎重にねじ込んだ。


「……いきます」


 僕は息を止め、グリップのスイッチを全力で押し込んだ。


 ギュイイイィィィィンッ……!!


 小型の油圧ポンプが甲高い駆動音を上げ、圧倒的な拡張圧力がトランクのロック機構にダイレクトに伝わる。


 バキッ! メリメリッ! ガァァァンッ!!


 十年間、一度も開かれることのなかった分厚い鋼鉄のラッチが、凄まじい破壊音と共に真っ二つにへし折れた。そして、車内のドアを開けた時とは比較にならないほどの、重く、そして決定的な圧力が解放される音が、地下駐車場に反響した。


 プシュウゥゥゥゥ……ッ!!


「うわっ……! げほっ、ごほぉっ……!!」


 トランクの蓋がわずかに持ち上がった瞬間、そこから噴き出してきたのは、車内に充満していた死臭すらも凌駕する、まさに『純度百パーセントの死のガス』だった。

 長期間密閉された極小の空間で、極めて大量の有機タンパク質がドロドロに溶け、発酵し、完全に腐敗しきったその強烈な硫化水素とカダベリンの暴風。それは、マウンテンパーカーの襟というフィルターなど全く意味をなさないほどの暴力的な濃度で、僕の鼻腔の粘膜を直接焼き焦がした。

 僕は油圧スプレッダーをその場に放り出し、再び泥水の中に四つん這いになって、胃の中身をすべて吐き出すほどの激しい嘔吐に襲われた。涙で視界が完全に滲み、呼吸をするたびに肺が焼け焦げるような激痛が走る。


「見事なまでの、嫌気性細菌による有機物の分解プロセスじゃ。これほどの高濃度ガスが充満しているということは、内部の質量は完全に『白骨化』のフェーズへと移行しきっておるな」


 僕が死に物狂いでえずいている横で、如月瑠璃は顔色一つ変えず、純白の手袋でトランクの蓋を完全に上へと押し上げた。

 ギィィィ……という、錆びついたヒンジの不気味な軋み音が響く。


「サクタロウ。いつまで涙を流しておる。照明を持て。真実から目を逸らすことは許さぬぞ」


 彼女の冷徹な声に急かされ、僕は震える手でフラッシュライトを拾い上げた。

 涙で滲む視界を必死に拭い、十年間封印されていた『トランク』という名の極小の暗黒空間へと、純白の光束を叩き込む。


「あっ……!」


 光に照らし出されたその光景を脳が処理した瞬間、僕は恐怖で全身の血の気が一気に引いていくのを感じた。

 トランクの中は、川底のヘドロが完全に乾燥してひび割れた、真っ黒な泥の地層で覆い尽くされていた。

 そして、その泥の海の中に、無数の『金属の残骸』と、『人間の形をした絶望』が沈んでいたのだ。


 まず僕の目に飛び込んできたのは、ひび割れた泥の上に乱雑に転がっている、銀色に鈍く光る巨大な金属の箱だった。

 特殊な気密構造を持った、大型のジュラルミンケース。記事にあった通り、複数のケースが存在していた。しかし、そのケースの現状は、僕が想像していた『数億円の現金の束』が詰まった宝箱とは、決定的に異なっていた。

 三つあるジュラルミンケースは、すべて強固なダイヤルロックの周囲がドリルか何かで暴力的に破壊されており、蓋が半開きになっていた。

 そして、その内部には。


「空っぽ、だ……」


 僕の震える声が、死臭の中に虚しく溶ける。

 ケースの中には、大量のヘドロが入り込んでいるだけで、現金はおろか、紙幣の溶けた残骸すら一欠片も残されていなかった。データが入っていたであろうハードディスクや、特殊な種子が入っていたはずの容器も、完全に抜き取られている。

 つまり、この車が十年前の『大洪水』という自然災害に巻き込まれて水没する『前』に。

 何者かがこのトランクを開け、山根智章が持ち逃げした巨額の裏金とデータを、すべて物理的に『強奪』したという、動かしようのない犯罪のルーツがそこにあったのだ。


「中身を抜かれた、空のジュラルミンケース……」


 如月さんは、アメジストの瞳を細め、その金属の残骸を冷徹に観測した。


「強奪の痕跡じゃな。山根は逃亡の果てに、ここで追っ手に捕獲された。そして、数億円の質量は別の個体の手によって完全に奪い去られた。……しかし、奪われたのは『金とデータ』だけじゃ」


 如月さんの視線が、空のジュラルミンケースのすぐ横……トランクの最も奥の、泥が深く堆積している部分へとゆっくりと移動した。


「サクタロウ。照明の軸を、右へ十五度ズラせ。……そして、そこにある『人間の残骸』の形態を、一ミクロンの見落としもなく、正確に観測するのじゃ」


 僕は、カタカタと鳴る歯の根を必死に噛み締めながら、フラッシュライトの光の軸をズラした。

 光が、黒い泥の地層の奥底を照らし出す。

 そこに横たわっていたのは。

 完全に腐敗し、ドロドロに溶け落ちて、骨だけになった人間の遺体だった。


「ひぃっ……!」


 僕は、喉の奥で悲鳴を押し殺し、後ずさりしそうになる足に無理やり力を込めた。

 それは、間違いなく行方不明になっていた天才研究員、山根智章の成れの果てだった。彼が着ていたであろう白衣やスーツの繊維は、十年間の腐敗ガスとバクテリアの作用によってドロドロのボロ布と化し、黒い泥と同化している。

 剥き出しになった頭蓋骨は、泥に塗れながらも、その空虚な眼窩でトランクの真っ暗な天井を虚しく見上げていた。肋骨は無惨にひしゃげ、骨盤から先の足の骨は、狭いトランクの中で不自然な角度に折り曲げられている。

 裏金と研究データを奪われ、不要なゴミとして、この暗く狭いトランクの中に押し込まれたのだ。


「ひどい……」


 僕は、恐怖を通り越して、人間のあまりにも残酷な所業に眩暈を覚えた。


「金だけ奪って、生きたまま……か、殺してからか分からないけど、こんな狭いトランクの中に死体を捨てていくなんて……」


「サクタロウ。お主のその無意味な同情という名の情動は、物理的観測の最も邪魔なノイズじゃと言っているはずじゃ」


 僕の感傷を、如月瑠璃の氷の刃のような声が一刀両断に切り捨てる。


「よく見るのじゃ。この白骨遺体の『姿勢』と、その周囲に存在する『異常な有機ネットワーク』を。……なぜ、この密室の車の天井に、あの巨大な青白いブロッコリーが狂気的な成長を遂げることができたのか。その最もおぞましく、最も残酷な物理的解答が、今、お主の目の前に完全に提示されておるのじゃぞ」


 異常な有機ネットワーク。

 僕は、如月さんの言葉に導かれるように、フラッシュライトの光を、白骨化した山根の遺体の『中心部』へとゆっくりと移動させた。

 そして。

 その光景を完全に脳が認識した瞬間。僕は今度こそ、理性という名の防波堤が完全に決壊するのを感じた。


「あ……ああぁっ……! 嘘、だろ……そ、んな……っ!」


 僕は、フラッシュライトを握りしめたまま、恐怖と絶望で完全に膝から崩れ落ち、泥水の中に両手をついてガタガタと激しく震え始めた。

 視界が明滅し、呼吸がうまくできない。目の前の現実が、あまりにも悍ましく、あまりにも冒涜的すぎて、僕の精神の許容量を完全にオーバーフローさせていた。


「観測したか、サクタロウ。これが、人間の悪意が物理法則を用いて培養した、究極の『テラリウム』の真の姿じゃ」


 光に照らし出されたその惨状は、この世の地獄をそのまま具現化したような光景だった。

 後部座席の天井で巨大な脳髄のように肥大化していた、あの青白いブロッコリー。

 その生命線である、太く、脈打つ血管のような『根』のネットワークは、天井の泥から後部座席の背もたれのウレタンを完全に食い破り、鉄板の隙間を突き抜けて……なんと、このトランクの内部へと直接侵入していたのだ。


 無数に枝分かれし、ウネウネと這い回るその太い根の束は。

 白骨化した山根智章の遺体の、無惨にひしゃげた『肋骨』の間を縫うようにして、その内部へと深く、深く入り込んでいた。

 そして、根の最も太い中心部分は。

 かつて彼自身の『胃袋』や『腸』といった消化器官が存在していたはずの、ぽっかりと空いた骨盤と肋骨の間の空洞――その真っ黒な泥のど真ん中から、まるで彼の身体そのものを苗床にして、爆発的に生え出していたのだ。


「根が……死体の、胃袋のあった場所から……伸びて、る……?」


 僕は、ガチガチと鳴る歯を必死に抑え込みながら、震える声でその絶望的な事実を言語化した。

 植物の根が、人間の内臓があった場所から生えている。

 いや、違う。逆だ。


「如月さん……まさか、これって……」


「そのまさかじゃ、サクタロウ」


 如月瑠璃は、白骨遺体の内臓跡から伸びるそのおぞましい根の束を、純白の手袋でそっと指し示しながら、一切の情動を含まない、絶対的な観測者の声で事実を解体していく。


「この巨大な青白いブロッコリーのルーツは、外部から車内に入り込んだのではない。最初から、この山根智章という人間の『胃袋の中』に存在していたのじゃ」


 胃袋の中に、種があった。


「十年前、このトランクに彼を閉じ込めた何者かは、ただ金とデータを奪っただけではない。山根が開発した、有機タンパク質を直接分解して爆発的に成長するという、あの『禁断の試作品の種』を……彼自身に無理やり飲み込ませ、その胃袋の中に直接投下した上で、この暗黒のトランクに閉じ込めたのじゃよ」


 如月さんの透き通るような冷たい声が、僕の脳髄に、最悪のホラー映画のシナリオを強制的にインストールしていく。


「大洪水が発生し、車は濁流に飲まれて逆さまに転覆した。山根は、真っ暗なトランクの中で、徐々に浸水してくる冷たい泥水に溺れ、絶望的な窒息死を迎えたじゃろう。……しかし、真の狂気は彼が死んだ『後』に始まった」


 如月さんは、フラッシュライトの光の中で不気味に静止している、太い根の束を見つめた。


「逆さまになった車内で、彼の肉体は腐敗を始めた。そして、彼の胃袋の中にあったあの『禁断の種』は、開発者の意図通りに発芽したのじゃ。……自分自身を閉じ込めている、山根智章という人間の腐敗していく肉体と内臓そのものを『極上の肥料』として直接分解し、貪り食いながらな」


 死体を、食って育った植物。

 だからこそ、光の届かない完全な暗闇の密室で、土すら存在しない空間で、あれほどまでに巨大な脳髄のような姿へと狂気的な成長を遂げることができたのだ。


「そして、植物の絶対的な物理法則である『重力屈性』が機能した。種子は、自分を包んでいる肉体を突き破り、重力に従って『下』……すなわち、当時の逆さまの車内において床面となっていた『天井』の泥に向かって強固な根を張り巡らせた。そして茎を、当時の天井であった『車の底面』に向かって伸ばしていった」


 如月さんは、純白の手袋を嵌めた手を、ゆっくりと空中で裏返した。


「水が引き、車が自然の力で元の向きにひっくり返った時。天井に強固な根を張っていた植物の下半分はそのまま天井に取り残され、トランク内の死体と繋がった根のネットワークだけが、後部座席を貫通する形で現在のこの『おぞましい姿』を完成させた……。これが、この密室における悪意の完全培養の、物理的な全貌じゃ」


 人間の臓腑を苗床にし、死肉を貪って巨大化した、青白き脳髄。

 あまりにも残酷で、あまりにも冒涜的なその物理現象の解明に、僕はもはや言葉を発することすらできず、ただ泥水の上にへたり込んだまま、ガクガクと全身の震えを抑えることしかできなかった。

 これが、人間の悪意の底。

 この世のどんな幽霊や呪いよりも恐ろしい、完全犯罪の密室テラリウムの、おぞましいルーツの正体だった。



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