エピローグ:『清算』
如月学園の敷地の最奥、鬱蒼とした木々に囲まれてひっそりと佇む旧校舎。
その一角にある図書室は、本来であれば生徒が立ち入ることのない、カビと埃に支配された忘れ去られた空間であるはずだった。
しかし現在、この場所は如月瑠璃という特異な令嬢によって完全に『物理的・環境的に制圧』されており、僕たちの拠点として機能している。
重厚なアンティークのペルシャ絨毯が敷かれ、最高級のマホガニー材で作られたテーブルと椅子が鎮座し、部屋の隅には彼女の気まぐれで持ち込まれた純和風の『こたつ』までが違和感なく配置されている。
「……はぁ」
僕は、マホガニーのテーブルに突っ伏したまま、今日で何度目かわからない深く重いため息を吐き出した。
手元のタブレットでは、推しの地下アイドル『魚魚ラブ』の最高にエモいライブ映像が再生されているというのに、僕の脳裏には、どうしても数日前の『あの光景』がフラッシュバックしてしまっていた。
旧市街の地下駐車場。
逆さまにぶら下がる巨大な青白いブロッコリーと、トランクの底で無惨に白骨化していた天才研究員、山根智章の遺体。そして、彼が生きたまま水没していく中で、絶望と狂乱と共に鋼鉄のパネルを掻き毟った、あの無数の凄惨な『爪痕』。
事象のトリックはすべて如月さんの手によって解体されたが、犯人を法的に裁くための物理的証拠は、大洪水という自然の猛威によって完全に洗い流されていた。
今頃、あの残酷な殺人鬼は、新市街のタワーマンションでワイングラスを傾けながら、優雅に笑っているのだろう。
そう考えるだけで、胸の奥がドス黒い泥で満たされていくような、強烈な胸糞の悪さと無力感がこみ上げてくるのだ。
「サクタロウ。お主のその無意味な二酸化炭素の排出と、情動のノイズを伴う低周波の振動は、この図書室の完璧な音響空間を著しく汚染しておるぞ。直ちに呼吸器系の無駄な駆動を停止するのじゃ」
僕の向かい側。アンティークの椅子に深く腰掛けた如月瑠璃が、純白の手袋を嵌めた手で、マイセンのティーカップを優雅に傾けながら冷酷な宣告を下した。
「……すみません、如月さん。でも、どうしてもあの旧市街の事件の結末が納得できなくて。……犯人が何の報いも受けずに、今ものうのうと笑ってるなんて、世界の法則が間違ってますよ」
「愚鈍じゃな。人間の社会システムが、大自然の物理法則の前に敗北しただけの、極めて論理的な結果に過ぎぬ。そこに善悪などという不確かなパラメータは存在せぬ」
如月さんは、琥珀色の最高級ダージリンティーを一口含み、カップをソーサーへと静かに戻した。
「……しかし、物理的な座標のズレをそのまま放置しておくのは、確かに『数式として美しくない』というのは、同意してやらんこともないがな」
「えっ?」
僕が顔を上げたその時。
コンコン、と、図書室の重厚なオーク材の扉が、場違いなほど軽やかにノックされた。
「あら、光太郎くん。また瑠璃にいじめられてるの?」
ギィッ、という蝶番の音と共に姿を現したのは、透き通るような優しい声を持つ、一人の長身の女性だった。
漆黒の艶やかな髪を高い位置でポニーテールにまとめ、百七十センチ近い細身のプロポーションを、洗練されたダークスーツに包んでいる。そして何より目を引くのは、彼女の名を示す通り、深く澄み切った『翡翠色』の美しい瞳だ。
彼女は、如月コンツェルンの経理・会計を一手に担う『数字のスペシャリスト』であり、如月さんの実の姉でもある、如月翡翠さんだった。
「ひ、翡翠さん! いえ、いじめられてるわけじゃ……」
僕は慌てて姿勢を正した。彼女はいつも優しいお姉さんのような口調だが、その底知れぬ凄みと、僕をからかって遊ぶ小悪魔的な態度の前では、いつも強烈に緊張してしまうのだ。
「ふふっ、相変わらず可愛い反応ね、光太郎くん」
翡翠さんは僕の肩をポンッと軽く叩いてから、如月さんの向かいの席へと優雅に腰を下ろした。
「姉よ。わざわざこんな辺境の旧校舎まで足を運ぶとは。コンツェルンの四半期決算のデータ処理は、すでに完了したのかの?」
如月さんが冷ややかな声で問うと、翡翠さんは艶やかな唇に余裕の笑みを浮かべた。
「ええ、もちろんよ。……それより瑠璃、今日はあなたにお礼を言いに来たの」
「お礼、とな?」
「あなたが数日前に私に送ってきた、『不完全な数字のルーツ』のデータ。……あれのおかげで、月見坂アグリカルチャーの第一開発部ごと、コンツェルンの傘下にタダ同然で吸収合併できたわ。お祖父様も大喜びよ」
月見坂アグリカルチャー。
その企業名を聞いた瞬間、僕の心臓が大きく跳ねた。それはまさに、あの十年前のトランクの密室で殺された、山根智章の所属していた巨大バイオ企業ではないか。
「……あの、翡翠さん。アグリカルチャーの吸収合併って、一体どういう……?」
僕が恐る恐る尋ねると、翡翠さんは翡翠色の瞳を細め、完璧な数字の支配者としての冷徹な笑みを浮かべた。
「数日前、瑠璃から突然、暗号化されたメッセージが届いたの。『十年前の八月、月見坂アグリカルチャーの裏金・数億円の物理的質量が、あるVINコードの車両から不自然に消失した。その座標のズレを、会計上の数式から逆算して特定せよ』ってね」
翡翠さんの言葉に、僕は息を呑んで如月さんを見た。
彼女は、紅茶の香りを静かに楽しんでいるだけで、何も答えない。
「警察の科学捜査では、泥水に溶けた指紋やDNAは追えないわ。でもね、光太郎くん。現代のスマートシティにおいて、数億円という『巨大な数字』が動いた痕跡は、どんなに資金洗浄を施そうとも、必ず会計データとブロックチェーンの『端数』にミクロの歪みを生じさせるのよ。……私の目は、ごまかせないわ」
数字の天才である翡翠さんは、楽しそうにくすくすと笑った。
「十年前、山根智章を殺して数億円を奪った男。彼はその裏金を使って、自社のダミー企業をいくつも経由し、最終的に自分個人の資産として新市街のタワーマンションを購入していたわ。現在は月見坂アグリカルチャーの常務取締役まで出世していたけれど……数字のルーツを完全に解体してみれば、ただの哀れな泥棒に過ぎなかった」
「じゃ、じゃあ……その男を、警察に!?」
僕が身を乗り出すと、翡翠さんは「チッチッ」と人差し指を振った。
「警察に突き出しても、殺人罪を立証する物理的証拠はないし、横領罪も時効の壁があるわ。そんな三流の結末で、如月コンツェルンが満足するわけないでしょう?」
翡翠さんの翡翠色の瞳の奥に、絶対的な経済的暴力の光が宿る。
「私は、彼が裏金で構築したすべてのダミー企業と投資ファンドに対して、コンツェルンの圧倒的な資金力をもって致死量の空売りを仕掛けたわ。同時に、スマートシティの金融ネットワークを掌握し、彼の個人資産を『マネーロンダリングの疑いによる経済テロ対策法』の網にかけて完全に凍結させた」
「凍結……」
「ええ。数億円の裏金を奪った男は、昨日付でタワーマンションから強制退去させられ、自己破産すら許されない数十億円の『如月への負債』だけを背負わされたわ。……今頃は、彼が十年間放置していたあの旧市街の澱んだ泥水の中で、借金取りに追われながらゴミを漁って生き延びるしかないでしょうね。法で裁けないなら、経済の力で、彼の人生そのものを完全に『清算』してあげたのよ」
翡翠さんの宣告は、あまりにも容赦なく、そしてあまりにも残酷で、完璧な悪党の処刑宣告だった。
殺人は犯していない。ただ、彼が奪った不正な数字のルーツを解体し、資本主義という名の『物理法則』で殴り倒しただけだ。十年間、トランクの底で泥水をすすって死んでいった山根と同じ地獄を、今度は彼自身が永遠に味わい続けるのだ。
「……」
僕は、言葉を失ったまま、向かいの席で静かに懐中時計を取り出し、リューズを巻いている如月瑠璃を見つめた。
彼女は、あの地下駐車場で『犯人を裁く手立てはない』と言い切った。
だが、それはあくまで『法律』の話だったのだ。彼女は最初から、警察の無能なシステムなどに頼るつもりなどなく、自らの姉という『数字の怪物』を用いて、犯人の物理的・経済的座標を完全に破壊する算段をつけていたのだ。
「……如月さん。もしかして、あのトランクの蓋の『爪痕』を見て……。山根さんの無念を晴らすために、翡翠さんに依頼したんですか?」
僕が絞り出すようにそう尋ねると。
如月瑠璃は、懐中時計を漆黒のジャケットのポケットに滑り込ませ、心底呆れたように長く、美しい睫毛を伏せた。
「愚鈍なことを言うな、サクタロウ。わしは正義の味方ではない。人間の復讐劇などという陳腐な情動に、一ミクロンの興味も持ち合わせてはおらぬ」
彼女の透き通るような冷たい声が、図書室の静寂に響く。
「質量保存の法則じゃ。本来あるべき座標から不自然に移動した数億円という物理的質量が、醜悪なタワーマンションという間違った器に収まっているのが、数式として極めて不快であっただけじゃ。ゆえに、姉に依頼して、その物理的エラーを『清算』させ、正しいゼロの座標へと戻したに過ぎぬ」
相変わらずの、徹底した絶対零度の論理。
しかし、僕はもう騙されない。あの暗黒のトランクの中で、泥水に塗れることも厭わず、純白の手袋でそっとあの絶望の『爪痕』に触れた彼女の横顔を、僕ははっきりと観測しているのだ。
彼女は、山根智章が溺死の直前に鋼鉄に刻み込んだ『人間の絶望という質量の重さ』を、確かに受け取り、そして……彼女なりの数式を用いて、その重さの分だけ、完璧に天秤を釣り合わせてみせたのだ。
「……はい。そういうことにしておきます」
僕は、胸の奥底に渦巻いていた泥のような不快感が、嘘のように綺麗に消え去っていくのを感じながら、自然と口元に小さな笑みを浮かべていた。
「ふふっ。光太郎くんも、少しは瑠璃の扱い方がわかってきたみたいね」
翡翠さんが楽しそうに微笑み、図書室の窓から差し込む秋の柔らかな光が、マホガニーのテーブルを暖かく照らし出す。
「サクタロウ。お主のその気味の悪い笑顔は、わしの視覚野に対する深刻なエラーじゃ。直ちに顔の筋肉の異常な収縮を停止するのじゃ」
如月瑠璃は、僕の笑みを冷たく切り捨てながらも、そのアメジストの瞳の奥には、ほんのわずかな……本当にわずかな、静かな光が宿っているように見えた。
人間の悪意が産み出した、最も醜悪な密室のテラリウム。
しかし、その泥の底に沈んでいた『情動のルーツ』は、決して無視できるようなノイズではなかった。
絶対零度の令嬢は、その美しくも冷酷な物理法則の刃を用いて、今日もこの狂った世界のバグを解体し、完璧な清算を遂行していくのだろう。僕という、たった一人の、非力で情に脆い下僕を引き連れて。
~如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』 fin~




