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第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『灯火』 ~section7:物理的考察と、愛の証明~

如月瑠璃の透き通るような、しかし絶対零度の冷たさを孕んだ声が、旧市街の古い平屋の薄暗い玄関先に響き渡った。

 僕は思わず息を呑み、彼女の華奢な肩を掴んで制止しようとした。


「ま、待ってください、如月さん! 何を言うつもりですか。白川さんは六十年間、その『優しい光』の思い出を支えにして生きてきたんですよ。それを今更、実は光なんか出ないただのガラクタだったなんて事実を突きつけて、記憶を壊す必要がどこにあるんですか!」


 僕の言葉は、一般的な人間の情動からすれば極めて真っ当な抗議だったはずだ。目の見えない老婦人から、生涯の宝物である美しい記憶を奪い取る権利など、誰にもない。

 しかし、如月さんは僕の制止の腕を純白の手袋で冷ややかに払い除け、アメジストの瞳で僕を射抜いた。


「愚鈍な感傷じゃな、サクタロウ。偽りの幻影の上に胡坐をかき、美しい嘘で真実をコーティングして満足するなど、事象に対する最大の冒涜じゃ。彼女の記憶の中にある『光』は、明らかなエラーコードじゃよ。そのバグを放置したまま綺麗事で済ませることは、六十年前にこの真鍮の塊を作り上げた青年の『真のルーツ』を永遠に闇に葬るという、極めて残酷な行為に他ならぬ」


 真のルーツを葬る残酷な行為。

 その言葉の重圧に、僕は何も言い返せなくなり、引き下がることしかできなかった。

 如月さんは深い紺色のケープコートの裾を静かに折りたたみ、土間に片膝をついて、上がり(かまち)に正座している千代さんの目の前へと自身の視線を合わせた。


「千代。お主の視覚センサーが機能していないことは百も承知じゃ。ならば、お主が六十年間研ぎ澄ませてきた『触覚』という物理的センサーを用いて、己の記憶の矛盾を直接観測するがよい」


 如月さんは、右手に持っていた黒ずんだ真鍮の柄を、千代さんの膝の上で震えている両手へと、ゆっくりと押し当てた。


「あっ……」


 千代さんの口から、微かな声が漏れた。

 彼女のシワに覆われた指先が、冷たい金属の表面を這うようにして確かめていく。真鍮の重み。円柱の太さ。そして、表面に精緻に彫り込まれた、(つる)の植物のレリーフの凹凸。


「この重さ……この冷たさ。そして、この彫刻の手触り……」


 千代さんの閉じられたまぶたの奥から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。


「間違いありません。あの人がいつも持ってきてくれていた……あの時の、優しい光の燭台です。……ああ、こんなに冷たくなってしまって……」


 千代さんは真鍮の柄を両手で包み込み、六十年前の温もりを探すように頬ずりをした。僕にはもう、見ていられなかった。


 だが、事象の観測者である如月瑠璃に、一切の容赦はない。


「千代。その金属塊の『上部』と『下部』の断面を、指先で正確になぞってみよ」


 如月さんの冷徹な指示に従い、千代さんは震える指先を円柱の上下へと滑らせた。そして、ピタリと動きを止めた。


「……あれ? 受け皿が……ありません。それに、土台も……」


「そうじゃ」


 如月さんは淡々と事実を告げた。


「お主の手にあるものは、何かが欠落して壊れたガラクタではない。この真鍮の円柱には、最初から蝋燭を立てるための受け皿も、卓上に置くための土台も存在しなかった。完全に平滑に研磨された、ただの『柄』だけの金属棒じゃ。当然、蝋が溶けて付着した痕跡も、焦げた匂いも一切存在せぬ。……それは、最初から光を灯すための道具ではなかったのじゃよ」


 千代さんが、小さく息を呑む気配がした。


「光を灯すためのものでは、ない……? では、あの人がいつも持ってきてくれていたあの光は……私の母が言っていた、あの燭台は、一体何だったというのですか……」


 混乱と絶望が入り混じった千代さんの問いに対し、如月さんは左手のピンセットで摘んでいた『赤茶色に錆びた極小の金属球』を、千代さんの手のひらへと静かに落とした。


「それが、その真鍮の内部の空洞に隠されていた『光の正体』じゃ」


「これは……鉄の、玉……?」


「その真鍮の表面に彫られたレリーフには、風を取り込むための極小のスリットが意図的に刻まれておる。そのスリットから吹き込んだ海風が、内部の空洞で渦を巻き、お主の手にあるその金属球を転がして壁面に衝突させる」


 如月さんの声が、薄暗い玄関先に理路整然と響き渡る。


「六十年前、お主が待っていたあの高い鈴の音。それは、お主の家に向かってくる青年が持っていた、その『燭台に偽装された風鳴りのベル』が発していた共鳴音じゃよ」


 千代さんの手が、大きく震えた。

 彼女の脳内で、六十年間信じ続けてきた『光』という記憶が、今、圧倒的な物理的事実によって『音を鳴らすための真鍮の筒』へと完全に書き換えられようとしているのだ。


「偽装……? あの人が、私を騙していたと……?」


「騙したのではない。それは極めて高度な『機能の隠蔽』じゃ」


 如月さんは、ゆっくりと立ち上がった。彼女の胸元で、巨大なアメジストのブローチが冷たく妖しい光を放っている。ここからが、如月瑠璃の持つ『情動の視座』による、圧倒的な独壇場だった。

 彼女は人間の感情に一切の共感を示さない。だが、他者の情動がどのような力学で動き、どのような物理的結果をもたらすのかを、まるで精密な数式のように完全に理解し、解体することができるのだ。


「サクタロウ。そして千代。思考してみるがよい」


 如月さんは、僕たち二人を見下ろすようにして告げた。


「何故、その青年は己の接近を知らせるための音源に、普通の自転車のベルやハンドベルを用いず、わざわざ『燭台の柄』などという不自然な形状の共鳴器を自作し、持ち歩かねばならなかったのか。何故、お主の母親は、音を鳴らす道具を『光の燭台』だとお主に嘘をついて教えたのか」


 僕はハッとして顔を上げた。

 そうだ。それがこの事象の最大の矛盾だ。音を鳴らすだけなら、もっと簡単な方法がいくらでもあったはずなのだから。


「それは、周囲の視覚に対するカモフラージュ、ですよね? でも、どうしてそんな隠蔽をする必要があったんですか?」


「『同情』という名の、猛毒を防ぐためじゃよ」


 如月さんの口から吐き出されたその言葉は、あまりにも冷徹で、そしてあまりにも残酷な真実を突いていた。


「……同情、ですか?」


「そうじゃ。サクタロウ、想像してみよ。六十年前の、閉鎖的なコミュニティが残る旧市街の丘陵地帯じゃ。もし、一人のうら若き青年が、毎日同じ時間に、自転車のベルやハンドベルを派手にガランガランと鳴らしながら、同じ家へと向かって歩いていたらどうなる?」


「それは……周囲の住人が、不審に思うか、理由を聞いてきますよね」


「左様。人間の持つ光学センサーと社会的アルゴリズムは、日常のルーティンから逸脱した『特異な行動』を即座に検知し、情報を共有しようとするバグシステムじゃ。町の人間に理由を問われた青年が、『目の見えないあの家の少女に、自分が来たことを知らせるためだ』と答えたとしたら、その情報はどう変換されて伝播していく?」


 如月さんの氷のような問いかけに、僕は背筋が凍るような思いがした。


「……『なんて可哀想な盲目の女の子なんだ』『その子のためにわざわざ音を鳴らしてあげるなんて、なんて優しい青年なんだ』……って、そういう噂が広まる……」


「まさにそれじゃ」


 如月さんは、まるで汚物を忌み嫌うように薄い唇を歪めた。


「『可哀想な子に同情している』という奇異の目。無自覚な優位性に根ざした、薄っぺらな憐憫。そういった人間の吐き出す情動のノイズは、時として物理的な暴力よりも深く、対象者の尊厳を破壊する。もし青年が堂々とベルを鳴らして通い続けていれば、町中が千代を『音を鳴らしてやらねば何もわからない、可哀想な盲目の少女』として扱い、その強烈な同情の重圧が、いずれ千代の心を完全に押し潰していたじゃろう」


 僕は息を呑んだ。上がり框に座る千代さんも、両手で顔を覆ったまま、微かに肩を震わせている。


「青年は、その社会的な摩擦を完璧に予測しておった。己の『音で接近を知らせたい』という欲求が、結果的に千代を好奇と哀れみの檻に閉じ込めてしまうリスクをな」


 如月さんの声は、一切の熱を持たないまま、青年の緻密な論理を代弁していく。


「ゆえに、彼は『音響機能』を、全く別の『視覚的機能』の内部へと隠蔽する必要があったのじゃ。それがこの『燭台の柄』というデザインじゃよ」


「でも、昼間の午後三時に燭台を持って歩くなんて、逆に不自然じゃありませんか?」


 僕が疑問を差し挟むと、如月さんは僕を愚か者を見るような目で一瞥した。


「配達業務が夕暮れの暗い夜道にまで及ぶ郵便配達員にとって、携帯用の照明器具である燭台を持ち歩くことは、極めて合理的な『実用品の携行』という視覚的偽装になるのじゃよ。午後三時にそれを持っていたとしても、『夕方からの配達に備えて手入れをしている』あるいは『配達用の装備として常に持っている』という名目が完全に成立する。誰も、労働者が己の仕事道具を持っていることに不審や同情は抱かぬ」


 そういうことだったのか。

 青年は、ただの『暗い夜道を歩くための実用品』を持っている郵便配達員として、周囲の目を完全に欺いていたのだ。


「そして、ここからがこの道具の最も恐ろしいほどの物理的最適化じゃ」


 如月さんは、千代さんの手の中にある真鍮を指差した。


「この真鍮のベルは、特定の方角から風を正面に受けた時にしか共鳴音を発生させぬ構造になっておる。青年は、海からの強風が吹き付ける丘陵地帯を歩く間、この真鍮の柄を己の身体の『前方』へと突き出すようにして、大切に両手で握り締めていたはずじゃ」


「……スリットに、正確に海風を取り込んで音を鳴らすためですね」


「そうじゃ。だが、その姿勢は、遠目に見る周囲の人間からはどう映る?」


 如月さんの問いかけに、僕の脳裏で強烈なスパークが起きた。


「あっ……!」


 体の前で、何かを大切そうに両手で包み込むようにして持つ姿勢。


「……『風で火が消えないように、燭台の炎を庇って歩いている姿勢』……!」


「その通りじゃ、サクタロウ」


 如月さんは満足げに頷いた。


「音を鳴らすために風に『晒す』という物理的運動が、視覚的には炎を風から『守る』という全く正反対の行動へと見事に偽装されておる。青年は、町の人間の目を欺きながら、同時に千代へと確実な『音』を届け続けていたのじゃよ。……すべては、彼女の周囲から哀れみという名のノイズを完全に排除し、彼女の尊厳を守り抜くためだけにな」


 なんてことだ。

 僕は、あまりの衝撃に足の震えが止まらなくなっていた。

 ただの音を鳴らすおもちゃではない。それは、世界中から向けられる『可哀想な盲目の少女』という冷酷な視線をすべて跳ね返すための、分厚く、そして限りなく優しい『物理的な装甲』だったのだ。

 彼は六十年前、重い真鍮のベルを右手に握りしめ、強風の中でその見えない炎を庇うようにして、ただひたすらに彼女の元へと歩き続けていた。彼女の静かな世界を、決して誰にも汚させないために。


「千代の母親は、おそらくその青年の意図に気づいておったのじゃろう」


 如月さんは、千代さんを見下ろしたまま、冷徹な分析を締めくくった。


「青年が何故、音の鳴る燭台を持っているのか。何故、手紙もないのに毎日通ってくるのか。母親はすべてを悟った上で、青年のその『音響のファイアウォール』を、お主のために『優しい光』という詩的な表現に翻訳して伝えていたのじゃ。青年が言ったという『この燭台の光があるから迷わずに来られる』という言葉も、光学的な意味ではない。お主の元へ向かおうとする己の絶対的なベクトル……すなわち、お主という存在そのものが、彼にとっての道標だったという、ひどく非合理で迂遠な情動の表現に過ぎぬ」


 静寂。

 旧市街の古い家の玄関先で、もはや何も言うべき言葉は見つからなかった。

 如月瑠璃は、一切の涙も流さず、微塵も同情することなく、この六十年間隠され続けてきた巨大な真実を、ただの『物理的な機能の解体』として完璧に白日の下に晒したのだ。

 彼女は思い出を壊したのではない。

 幻影という名のメッキを剥がし、その下にあった、これ以上ないほどに純粋で、気が遠くなるほどに重厚な『愛の証明』の質量を、老婦人の手のひらへと正確に叩き返したのだ。


「……ああ……ああぁっ……」


 千代さんの口から、嗚咽が漏れた。

 彼女は、六十年の時を経て完全にその正体を現した真鍮の柄と、錆びた小さな金属球を胸に固く抱きしめ、畳の上に泣き崩れた。

 それは、光の幻影を失った悲しみではない。自分がどれほどまでに深く、そして強く、あの見えない青年に守られていたのかを知った、圧倒的な感謝と歓喜の号泣だった。

 見えない彼女の代わりに、彼が世界と戦ってくれていたこと。その冷たい真鍮の重さの中に、彼の熱い体温が、確かに封じ込められていたこと。

 そのすべての想いが、六十年の時間を超えて、今、完全に彼女の魂へと到達したのだ。


 僕は、涙で歪む視界の中で、一人静かに佇む孤高の天才令嬢の横顔を見つめていた。

 彼女のアメジストの瞳は、足元で泣き崩れる老婦人に慰めの言葉をかけることもなく、ただ事象の計算式が美しく解かれたことへの純粋な満足感だけを漂わせていた。

 情動を理解しつつも、決して共感はしない。

 だからこそ、彼女の放つ絶対的な論理の光だけが、人間の複雑な感情の奥底に隠された『本物のルーツ』を、これほどまでに鮮やかに解き明かすことができるのだ。

 僕は、彼女のその冷酷なまでの純粋さに、心からの敬意と畏怖を抱かずにはいられなかった。


「さて、サクタロウ。情動の解体は完了した」


 如月さんは、深く静かに息を吐き出すと、純白の手袋を嵌めた手を僕へと向けた。


「次は、最後の物理的な証明じゃ。お主の持っている『あるガジェット』の出番じゃぞ。六十年間停止していたこの共鳴器のシステムを、わしが完全に再起動させてやろう」


 彼女のケープコートの裏地で、星図がひときわ鋭くきらめいた。

 僕は涙を乱暴に拭い、力強く頷いた。この冷たくて優しい天才令嬢が導き出す、最高のフィナーレを見届けるために。



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