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第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『灯火』 ~section8:再会の旋律と、震える指先~

 旧市街のどんよりとした空気が澱む、古い木造平屋の玄関。その薄暗い上がり(かまち)で、白川千代さんはシワに深く覆われた両手で顔を覆い、もはや言葉にもならない悲痛な嗚咽を漏らし続けていた。

 六十年前、彼女のもとへ毎日通い続けていた郵便配達員の青年が、いつも右手に大切そうに握りしめていたという『光を放つ燭台』。千代さんの母親がそう教え、千代さん自身もその温もりを信じて疑わなかったその美しい幻影は、如月瑠璃という孤高の観測者によって、たった今、残酷なまでに解体された。

 それは光を放つ道具などではなかった。盲目の彼女に向けられる世間の『同情』という名の凶器から彼女の尊厳を守るため、青年が周囲の目を欺くべく作り上げた強固な視覚的偽装。そして、その真の機能は、海風を動力源として彼女にだけ自身の接近を知らせるための、極めて高度に計算された『高周波の共鳴器』だった。

 失われた架空の手紙と、光という名の優しい嘘。その二つの非合理な行動の裏側に隠されていた、気が遠くなるほどに純粋で不器用な青年の想いの質量が、六十年の時を超えて、今、完全に千代さんの魂へと到達したのだ。


「……ううっ……ああぁっ……」


 畳に額をこすりつけるようにして泣き崩れる千代さんの震える背中を見つめながら、僕はただ、自分の胸の奥が熱く、そしてひどく苦しく締め付けられるのを感じていた。

 六十年前の月見坂市。海風が吹き荒れる広大なススキの丘陵地帯を、重い真鍮の金属塊を両手で庇うように握りしめ、強風の中でその見えない炎を守るような不自然な姿勢で、ただひたすらにこの家を目指して歩き続けていた一人の青年の姿。

 僕の持つお人好しな『情動の視座』は、その痛いほどの愛の証明をありありと脳裏に描き出し、僕自身の目頭をも熱くさせていた。


「……さて、サクタロウ。情動の解体は完了した。次は、最後の物理的な証明じゃ」


 しかし、僕のそんな感傷的なノイズを、如月瑠璃の氷のように冷徹な声が容赦なく切り裂いた。

 彼女は、足元で泣き崩れる老婦人に慰めの言葉をかけることも、その悲哀に寄り添うことも一切しない。ただ、目前の巨大な事象の計算式が美しく紐解かれたことへの純粋な満足感をアメジストの瞳に漂わせながら、純白の手袋を嵌めた右手を僕へと真っ直ぐに向けた。


「お主の持っている『あるガジェット』の出番じゃぞ。六十年間、完全に停止して酸化していたこの共鳴器のシステムを、わしが今から完全に再起動させてやろう」


「ガジェット……? アンプのことですか? でも、あのアンプは黒田さんの車の中に置いてきましたよ?」


 僕が涙声を隠しながら戸惑って聞き返すと、如月さんは心底呆れたように小さく息を吐き出した。


「お主の自身の装備に対する認識能力には呆れるばかりじゃ。わしが要求しているのは、そのような無駄に質量の高い据え置き型の音響機器ではない。お主のカーゴパンツの右側面に、先ほどから不自然な長方形の膨らみを作っている、その無駄に高出力な『携帯用送風機(ハンディファン)』を起動するのじゃ」


「えっ……携帯用送風機(ハンディファン)?」


 僕はハッとして、右足の太もものポケットに手を突っ込んだ。

 そこに入っていたのは、僕が愛してやまない推しの地下アイドル『魚魚ラブ』の、熱気と湿気が限界突破する狭小ライブハウスの最前列を生き抜くために、常に持ち歩いている重装備のハンディファンだった。

 市販されている数百円の安物プラスチックファンではない。航空機のジェットエンジンを模した特殊な二重反転ローターを採用し、産業用の小型DCブラシレスモーターを無理やり換装して搭載。さらに、側面の無段階ダイヤルによって、風速をミリ単位で精密に調整できるように基盤を書き換えた、僕のオタク的な執念と電子工作の技術が詰まった特注の冷却ガジェットである。如月さんは、僕がこれを常に持ち歩いていることを完全に記憶し、計算に組み込んでいたのだ。


「……なるほど。これを使って、六十年前の『海風』を人工的に再現するんですね」


「その通りじゃ。真実を言語情報として対象者に提示しただけでは、事象の観測としては極めて不完全じゃ。実際に物理現象を当時のパラメータで完全に再現し、入力に対して正確な出力が得られることを証明して初めて、論理は盤石なものとなる」


 如月さんは、深い紺色のケープコートの裾を静かに翻し、千代さんの膝の横に置かれていた、あの赤茶色に錆びた金属球と真鍮の柄を再び拾い上げた。


「千代。お主の視覚センサーが捉えられなかった『光』の真実を、今度は六十年間お主の脳内の海馬に刻み込まれ続けている『聴覚データ』と完全に照合させるぞ。己の感覚器のすべてを研ぎ澄まし、耳を澄ませるがよい」


 如月さんの絶対的な宣言に、千代さんは涙で濡れた顔をゆっくりと上げ、その見えない瞳を如月さんの声のする方へと向けた。そのシワだらけの表情には、過去の幻影が崩れ去った喪失感と、これから何が起こるのかという微かな期待が複雑に入り混じっていた。

 如月さんは、コートのポケットから再び医療用よりも精巧な銀のピンセットを取り出した。そして、純白の手袋に包まれた手で、赤茶色に錆びた極小の金属球を寸分の狂いもなく摘み上げる。

 彼女は、真鍮の表面に彫り込まれた蔓のレリーフの谷間……幅一ミリにも満たない、流体力学的に計算し尽くされた極小のスリットへと、その金属の心臓を一切の淀みなく押し込んでいった。

 チリッ、という微かな、しかし硬質な摩擦音が鳴る。

 金属の球体が、六十年の時を経て、再び真鍮の暗い空洞の内部へと収容された瞬間だった。


「サクタロウ、送風機を構えよ。吹き出し口を、この真鍮の側面に点在するスリットの集合体に対して真正面から向け、距離を正確に三十センチに保つのじゃ。一ミリのズレも許さぬぞ」


「はいっ」


 僕はハンディファンを右手にしっかりと握り直し、如月さんが上がり框の上で両手で水平に構えた真鍮の柄に向かって、正確に三十センチの距離を取って照準を合わせた。


「電源を入れよ。まずは初速、秒速三メートルの微風からじゃ」


 僕は息を止め、側面のダイヤルを親指でカチッと回した。

 ヴィィィン……という、低く重いモーターの駆動音が旧市街の古い家屋に響き渡り、二重反転ローターが回転を始める。人工的な風の束が、一直線に真鍮の黒ずんだ表面へと吹き付けられた。


「どうですか、如月さん」


「まだじゃ。ベルヌーイの定理に従い、スリットを通過する気流が内部の気圧を十分に下げるには、この程度の流速では物理的エネルギーが全く足りぬ。長年の酸化で質量を増したあの金属球の慣性を打ち破る閾値(しきいち)には、遠く及んでおらん」


 如月さんは、真鍮の表面に叩きつけられる風の抵抗を純白の手袋越しに冷静に感じ取りながら、一切の感情を交えない観測者の声で僕に次の指示を下した。


「ダイヤルを回せ。風速を秒速四・五メートルへ。……モーターの回転数を三千二百回転まで上げるのじゃ」


 僕は頷き、親指の腹でゆっくりと、しかし確実に風量調整ダイヤルを回し込んだ。

 ヴィィィイイィィン! というモーターの駆動音が一段と甲高く跳ね上がり、吹き出される風の圧力が目に見えて強くなる。真鍮の周囲の空気が乱され、千代さんの白髪が微かに風に揺れた。


「まだじゃ。六十年前の気象データが示していた、あの丘陵地帯の定常風の領域まで一気に押し上げよ。秒速六・〇メートル。そこが、この共鳴器が最も美しく機能するように設計された、物理的なスイートスポットのはずじゃ」


 秒速六・〇メートルの強風。

 それは、傘を差して歩くのが困難になり始め、樹木の枝が大きくしなり、電線が風切り音を立てて鳴り始めるほどの明確な『強風』の領域だ。現代のスマートシティの制御された環境下では、台風でも来ない限りまず遭遇することのない風力である。

 僕は奥歯を噛み締め、ダイヤルをさらに深く、ハンディファンの出力の最大手前まで一気に押し込んだ。

 ギュイイイィィィンッ!!

 まるで小型のジェットエンジンが離陸するかのような、暴力的なまでの風切り音とモーターの咆哮が狭い上がり框に響き渡る。僕の右手首に強烈な反動が伝わり、生み出された人工的な暴風が、三十センチ先の真鍮の柄へと一直線に叩きつけられた。


「よし。風のベクトルを完全に固定せよ、サクタロウ。手首の角度を一ミリもブレさせるな」


 如月さんは、強烈な風圧に煽られて深い紺色のケープコートの裏地の星図を激しく波打たせながらも、両手に持った真鍮の柄をまるで万力のように固定し、微動だにさせなかった。

 強烈な風の束が、蔓のレリーフに巧妙に偽装された極小のスリットへと、暴力的なまでの速度で吸い込まれていく。

 内部の円筒形の空洞で、計算され尽くした強烈な乱気流が発生する。気流は六十年間内壁にへばりついていた微細な埃を瞬時に吹き飛ばしながら、空洞内の気圧の急激な低下を引き起こす。

 その、圧倒的な流体力学の力が。

 内部の底に横たわっていた、赤茶色の重い金属球の慣性を、ついに完全に打ち破った。

 重い金属球が風の渦によって垂直に巻き上げられ、不規則な軌道を描いて、真鍮の分厚い内壁へと激しく連続して衝突する。


 チィィィン……。


 ハンディファンの荒々しいモーターの咆哮を完全に置き去りにし、空気を切り裂くような極めて高く、そしてどこまでも澄み切った『純音』が、旧市街の古い平屋の空間に響き渡った。


「鳴った……!」


 僕は、右手に伝わるモーターの振動を感じながら、思わず声を漏らした。

 それは、一般的な自転車のベルのような『ジリリリ』という下世話で耳障りな連続音でもなければ、ガラスの風鈴のような『チリンチリン』という涼しげで環境音に溶け込む音でもない。

 一万五千から一万八千ヘルツという、人間の可聴域の限界に近い超高周波の帯域。

 その音は、まるで極細の純粋なクリスタルガラスの針で、鼓膜という物理的センサーを直接、優しく撫でられているかのような、ひどく繊細で、しかし絶対に他のノイズに掻き消されることのない、圧倒的な存在感を持った旋律だった。


 チィン……チリィィン……チィィン……。


 秒速六メートルの人工的な海風を受け、内部の金属球が空洞内で跳ね回り、連続して真鍮の壁面に衝突を繰り返す。真鍮の空洞という、厚みと容積を完璧に計算された共鳴箱(レゾネーター)がその極小の打撃音を極限まで増幅させ、スリットを通して外部へと連続的に放ち続ける。

 どんなに激しい風切り音の中でも、どんなに海鳴りが轟く環境であっても。この高く細い周波数の音波だけは、決してホワイトノイズに掻き消されることなく、一本の光の糸のように空間を真っ直ぐに貫いていくように設計されているのだ。

 これが、六十年前の青年が、盲目の少女のためだけに削り出した『世界でたった一つの音』だった。


「……あ、ああ……」


 ハンディファンの暴風が吹き荒れる中、上がり框に突っ伏して泣き崩れていた千代さんが、見えない何かに弾かれたように、ハッと顔を上げた。

 閉じられた瞳の隙間から、再び大粒の涙がとめどなく溢れ出し、深いシワの刻まれた頬を伝い落ちていく。


「この、音……。間違いない。この高い、透き通るような……美しい鈴の音……」


 千代さんのシワだらけの震える両手が、まるで空中の見えない何かを優しく掴み取るように、ゆっくりと虚空へと力なく伸ばされた。


「あの人が……彼が、丘の下から登ってくる時の、あの音です。毎日、毎日……午後三時の強い海風に混じって、少しずつ、少しずつ私の家に近づいてくる……あの、優しくて、温かい音……」


 千代さんの耳の有毛細胞は、六十年という加齢による物理的な経年劣化によって、当然ながら機能低下を起こしているはずだ。一万五千ヘルツの高周波など、本来であれば八十歳近い彼女の聴覚センサーでは、正確に拾い上げることなど不可能な帯域である。

 しかし、彼女の脳は、その音の波形を完全に認識していた。

 鼓膜という物理的なハードウェアの限界を完全に超え、彼女の脳内の海馬に、生涯で最も大切な記録として刻み込まれていた『最も愛おしく、最も待ち望んでいた記憶の周波数』が。今、如月さんの手によって完全に再起動された真鍮の共鳴音と、寸分の狂いもなく完全に同調したのだ。


 千代さんにとって、この音はもはや単なる空気の振動ではなかった。

 それは、彼女を同情の目という社会的な圧力から守るために、青年が自分の姿を消してまで作り上げ、毎日六十年間前のあの丘陵地帯で響かせ続けていた『愛の質量』そのものだった。光の幻影という、母親の詩的な翻訳を介さない、彼が直接彼女の耳へと届けていた、本物のメッセージだったのだ。


「聞こえる……聞こえます……」


 千代さんは、虚空に伸ばした両手を激しく震わせながら、まるで少女のように泣きじゃくった。


「ススキの揺れる音の中で……彼が、強風に煽られながらも、私に向かって、一直線に歩いてきてくれる……。『もうすぐ着くよ、怖がらないで、待っていてね』って……彼が、風に乗せて私に教えてくれている……」


 六十年前に存在していた、見渡す限りの広大な草原と、海鳴りの音。

 そして、その激しい環境ノイズの中を、一つの見えない光を灯して、真鍮の金属塊を風に晒しながら歩いてくる、若き郵便配達員の青年の姿。

 如月瑠璃という孤高の天才令嬢が、ハンディファンという現代の電子ガジェットを用いて行った純粋な流体力学と音響工学の物理的実験は。結果として、千代さんの脳内に六十年前の愛の風景を、完璧な解像度で再構築させるという、究極の『過去の召喚』を成し遂げてしまったのだ。


 僕は、ハンディファンを構えたまま、自分の目から溢れ出る熱い液体を、もはや止めることができなかった。

 視界が涙で完全に歪み、モーターの反動に耐える右手が小さく震える。

 事象のルーツを物理的に解体するという行為は、時に人間の美しい思い出を破壊し、残酷な真実を突きつける。しかし、その嘘や偽装という名のメッキをすべて剥がし切った最深部に、これほどまでに美しく、純度の高い人間の想いが残されているのなら。

 如月さんの行う冷徹な物理的解体は、どんなに優しい慰めの言葉よりも深く、対象者の魂を根本から救済するのだと、僕は確信していた。


「共鳴波形の安定と、継続的な出力を確認した」


 千代さんの歓喜の嗚咽と、ハンディファンの咆哮が交差する旧市街の空間に、如月さんの氷のように透き通る声が静かに、しかし絶対的な響きを持って落ちた。


「長期間の過酷な酸化による金属球の質量変化と、真鍮内壁の腐食によって、初期状態よりもわずかに振幅(しんぷく)が低下しておるようじゃが、基本となる周波数帯域の出力には全く問題はない。六十年前の物理的インターフェースの、完全なる再現じゃ」


 如月さんは、荒れ狂う人工的な風の中で、アメジストの瞳を細め、六十年前のシステムが完璧に稼働している様を、ただ純粋な観測者として見届けていた。彼女の表情には、千代さんの涙に対する共感も、僕の感傷に対する呆れも存在しない。

 ただ、この世界に隠されていた美しい物理法則の一つが、完全に証明されたことへの、冷たくて静かな歓喜だけがそこにあった。



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