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コネクト・クエスト  作者: ノリト ネギ
紡いだ絆を力に変えて
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第六十八章 畏れよ、私を(Ⅴ)

 誰よりも金を稼げ。家を失ったのだから、大金が必要だ。

 誰よりも日常に飢えろ。冒険者の大事な原動力だ。

 誰よりも情報を集めろ。戦闘を有利に運ぶためには欠かせない要素だ。

 そんなことはわかっている。リーダーとして、自覚もできている。

 それでも、趣味を後回しにできるほど大人でもなければ我慢強くもない。

 海に面した港が近くにあるのだから、釣り糸を垂れようと責められる言われもない。

 約束の時刻は朝の十時。

 そろそろ片付けを始めても良い頃合いだ。歩けば二十分近くもかかる遠方ゆえ、そうのんびりとはしていられない。

 走るという選択肢はない。行き交う人々を驚かせるだけだからだ。

 だが、事情が変わった。

 状況に至っては最悪だ。

 海面から糸を回収し、大事な釣竿をそっと足元に置く。竿を縮めてマジックバッグに収納する時間すら今は惜しい。

 手荷物は一つ、どこか頼りないカッパー製の片手剣だけだ。茶色い鞘も、それよりも少しだけ黒い刃も、灰色の唾と柄もどこか安っぽく、それでも長年愛用していた相棒だ。握れば自然としっくりくる。

 誰よりも速く走れ。守りたいものがあるからだ。

 誰よりも強くなれ。倒すべき相手がいる。

 この国を覆う漆黒の意志が、周囲の風景を一変させる。

 デフィアーク共和国は三大大国の一つゆえ、人口は非常に多い。本来ならばどこを歩こうと人で賑わうのだが、今だけは真夜中のような静けさだ。

 なぜなら、道端には数えきれないほどの人々が倒れている。

 刃物を喉元に突きつけられた時よりも脳は死の概念を植え付けられ、決して敵わない巨大なモンスターが目の前に迫っているような絶望感に苛まれる。

 意識を失う以外に、恐怖から逃れる術はない。創造主の前では、人間にできることなどこの程度だ。ゆえに、彼らの反応は正しいと言える。

 だが、この少年は抗う。そうしなければならない理由と、そうできるだけの手段を持ち合わせている。

 走りながら、先ほどの出来事をふと思い出す。

 港に到着した城のように仰々しい乗り物、定期船。その姿は何度見ても人々の心を震わせるが、今回はそれ以上に驚かされた。

 降り立った軍人が、騒音など気にも留めず圧倒的な速度で走り去ったからだ。

 一人の姿がそこから消えると、少し遅れて三人がその大男を追いかける。

 何事だろう、と考えを巡らせるも、答えは見つからず、この少年は釣竿を握る手に集中し直す。

 今になって答えが提示される。

 あの女が現れた。

 あの女が何かをしている。

 居場所はわからないが問題ない。圧迫感の発生源を自然と感じ取れる以上、それを追いかけるだけで良い。


(急げ!)


 そんなことは自覚している。それでも自分に言い聞かせながら両手を全力で振り回し、二本の足を激しく前後させる。

 重苦しい波動はまだまだ遠くから放たれている。ぼんやりとそう理解できるからこそ、この少年は歯を食いしばって街道を突き進む。

 石造りの道には大勢の国民が倒れているが、うろうろと歩いていない以上、障害にすらならない。

 走る。

 跳ねる。

 飛び降りる。

 ことあるごとに階段と遭遇するこの国は広いだけではなく立体的だ。岩山を削り領土を確保したことによる弊害だが、情景は三国で最も近代的かつ美しい。

 その中を、突風を起こしながら突き進む。その速度は常人の眼には映らず、引き換えにスタミナは急激に減り続けるが、後先のことを考える余裕などない。

 走れ。ものの十秒ほどで中央の住宅街に辿り着けたが、女の姿は見当たらない。

 跳ねろ。伏せる人々を蹴り飛ばすわけにはいかない。

 飛び降りろ。下り階段を一段ずつ、流暢に下りる時間はない。


(コネクトを使うか? いや、意味ないか)


 三秒間の時間停止。その間も己は突き進むことができるのだが、相手もこの静止時間に介入できてしまう。

 コネクトを発動させることで走力を高めることはできるが、自身の接近を無為に知らしめるだけだと考え、出し惜しみかもしれないが使用を控える。

 ゆえにやれることをやるしかなく、顔や体の全面にぶつかる空気すらもわずらわしく思いながら、一年前とは比べものにならないほど高まった脚力でこの国を横断する。

 一年前。まだ見回りに精を出していた頃は、妹を家で待たせながら自分だけがモンスター退治に明け暮れていた。もちろん仕事だからしていたのであって、金にならないのなら砂丘地帯を練り歩きはしない。

 その後、故郷の過疎化に伴い職を失う。

 村長の計らいで二人旅に興じ、その先で謎のモンスターと背の高い女冒険者と出くわす。

 なぜかその女性を仲間に引き入れ、少年は新たな生き方を決意する。

 冒険者。己の信念に基づき、勝手気ままに生きる自由人。危険な職業のトップに君臨するこの生き方は、子供なら誰もが憧れるものの、大人に近づくにつれ諦めてしまう。

 この世界にはびこる異物、モンスターがその夢を打ち砕くからだ。

 ただの人間がこれら異形に敵うはずもなく、道端をうろつくアリが易々と踏み潰されるように、大人だろうと子供だろうと例外なく蹂躙され死を迎える。

 冒険者を目指す人間は、様々な理由を胸に己を鍛え、道を切り開く。

 その過程で命を落とす者も少なくないが、晴れて冒険者になろうと行き着く先はやはり死だ。

 寿命や病気ではなく、やはりモンスターに殺害されてしまう。

 毎日ではないが、日々の多くをクエストや旅に費やす彼らの前には、モンスターが必ずつきまとう。

 出会えばやることは簡単だ。

 殺し合う。そうすることが、神に与えられた使命なのだから。

 殺し合う。この少年とその女もまた、そういう宿命を二人の神から与えられている。

 一方はタイミングが合致したから選ばれただけ。

 もう一方も同じようなものだが、素質も加味された上で選出されている。

 イリックとリイン。

 両者は戦わなければならない。コネクトを宿した時からそう運命づけられている。

 コネクト。異なる二つを結ぶこれは、魔法という体を成してはいるが、本質は戦技に近い。

 詠唱時間はほとんど無に近く、なにより魔法のエネルギー源であるマジックポイントを必要としない。

 当然だ。その創造主にとって魔法は専門外なのだから、必然的にそうなってしまう。

 もっとも、そんなことは彼らには関係ない。この魔法は単なる手段でしかなく、相手を倒せるのなら、もしくは仲間を救えるのなら背景などどうでも良い。


(この先か!)


 目の前には道が見当たらない。それもそうだろう。そこから先は長い長い下りの階段が待ち構えているのだから。

 歩けば何分もかかるそれを降りきると、殺風景な平地と味気ない建物群がどこまでも広がる。

 軍人達の拠点であり、デフィアーク共和国における防衛の要だ。

 そして、神威の発生源もまた、そこから感じ取れる。

 少年は一気に飛び跳ねる。まるで空を飛ぶような跳躍は、風の抵抗を受けて音速未満へ落ち込もうとするも、それ以上の力強さが減速を阻止する。

 まばたきをするだけで、それが一瞬であろうと景色の移ろいを見落としてしまう。ゆえに、ここまでの道中は目を凝らしてきた。

 だが、我慢はもう必要ない。眼下の大地から得られる情報が、一目で惨状を説明してくれたからだ。

 グラウンドが立ち並ぶ区画の一部が真っ赤に染まっており、目を背けたくなる塊で溢れかえっている。

 その手前、すなわち着地予定地点のやや前方には、十人近くの色とりどりな集団が見受けられる。

 見知った顔も多く、中心に立つ赤い髪の女もまた、ある意味知人のようなものだ。

 予想通り、三人の仲間が見つかるも、彼女達は元気そうなため、一先ずは胸を撫で下ろせる。

 赤い水たまりに浸りながら親しい軍人が倒れている。この少年にとって、この光景はおおよそ信じられず、しかし、今のリインはそういうことが可能なのだろうと素直に受け入れる。

 赤い軍服を着たエミリアや、カーディガンの上からエプロンをまとうリンダは当然ながら、他の面々もその顔と名前程度は知っている。軍長はその外見と実力ゆえに、そこにいるだけで目立ってしまう存在だからだ。

 どんな過程を得てこうなったのか。通常ならば、どんなに思考を巡らせようとわかるはずがない。

 だが、この少年はおおよそ見当をつけることに成功する。

 大勢の軍人を殺し、軍長および仲間達が駆けつけ、マッカスが倒された頃合いに他の軍長が駆けつける。

 追い詰められたリインがついに神威を発動させ、今に至る。

 正確ではないが、正解と言っても差支えない。

 ここまでは彼らが踏ん張ってくれた。

 ここからは自分の出番だ。

 そう解釈するだけで、何もかもが解決する。

 つまり、自分一人であの女を戦闘不能に追い込めば良い。

 できるか否かは関係なく、やらなければならないことだ。

 確信などないが、リインから放たれている悪寒をまとった重圧は、そうすることで解除できると推測する。いかに不死身であろうと、殺された瞬間は一瞬だろうが意識の遮断が発生するはずだ、と予想というよりは願望に近い。

 全身で重力の力強さと風の抵抗を感じながら、急激に落下しながらも前進する。

 右手が握る剣の鞘を左手で取り外し、むき出しのそれを大空へ向ける。

 冒険者と言えども、落ちながらの遠投は困難だ。ましてや、相手に命中させなければならない以上、全神経を集中させる必要がある。

 それでもやるしかない。体を脱力させ、勢いに身を委ねながら赤い長髪を真っ直ぐ見下ろす。

 その女はゆっくりと歩みを進めており、進行方向には水色の軍服を着た軍長が立っている。つまり次の狙いはこの男ということだ。

 ルードリッジはエミリア達のやり取りから、時間を稼ぐことで何かが起こることを察する。体が一切動かない以上、やり方は挑発行為しか見当たらず、自分を狙わせることでその時間を作ろうと画策したのだが、もちろん正解だ。

 その策は功を無し、仲間達の命は救われたのだが、上空から眺める限りではそこまでを察することはできず、自分の使命を果たすために、少年は最安値の片手剣を全力で投擲する。

 イリック。仲間と冒険を続けるために戦う男。

 リイン。神の意志を代弁し、人間を殺す女。

 接点のなかった両者だが、見えない力によって交わっては離れ、再び会いまみえる。まるで舞台上で踊る劇用の人形だが、事実そうなのだから仕方ない。

 人間である以上、今は諦めるしかない。受け入れるしかない。

 もし抗いたいのなら、それは後回しだ。

 先ずは目先の脅威を取り除く。

 それがリインであり、この女をこれ以上野放しにはできない。

 自分から姿を現してくれたのだから、探す手間が省けたと喜びつつ、感謝の弁を述べる代わりに刃を突きつける。

 もう十分だろう。

 一体何人殺したんだ?

 これ以上は俺が阻止する。

 たぎる感情を抱きながら、突き進む相棒の行く末を静かに見守る。

 さぁ、戦闘に介入だ。リインは嫌がるだろうが、むしろ本望だ。そうするためにここまで駆けたのだから、そう思われた方が心地よい。

 上空からは広大な軍区画を一望できる。

 地面は薄い茶色で塗られており、視界の左側に広がる住宅街付近までその色は続く。

 眼下の殺風景な場所は、空き地のようなグラウンド地帯としゃれっ気のない建築物が立ち並ぶ。

 地面の一部は真っ赤な色で塗り替えられており、少なくともこの地で過ごした一ヶ月の間にはお目にできなかった光景だ。

 遥か前方には、巨大な山脈が人やモンスターの往来を遮るように立ちはだかる。壁のようなそれらは視界の右側までぐるりと続いており、そこには海があるはずだが、ここからでは確認できない。

 鼻に届く匂いはやんわりと潮の香りを含んでいるようで、実はそうでもなく、二十秒ほど前まで港にいたからこその勘違いだ。

 そう。そこからここまで、その程度の時間で辿り着けている。

 本人としてもうれしい誤算だが、自分を褒めている場合ではない。もし笑顔を浮かべるとしたら、これから戦う女を葬りされた時か追い返せた時だ。

 残念ながら、今日は後者が限界だと察している。倒すための方法は見つけているが、手段が無い。

 つまりは、立案した作戦は絵に描いた餅ということになる。

 だからといって戦闘を放棄するつもりもなく、それならそれでやれることをやるまでだ。

 その攻撃が閃光となり、空から降り注ぐ。

 茶色い一閃は雨粒のように大地を目指すが、大きさも色合いも似て非なる。そもそも役割からして全く別だ。

 真っ先に二人が気づくが、反応は正反対となる。

 一方は口を大きく開いて目を輝かせる。

 もう一方は眉をしかめ、迎撃態勢へ移行する。


「来たー!」

「何?」


 空から片手剣が降ってくるはずもなく、それでも今回に関してはそうなのだ。ゆえに、ネッテは何が起きたのか誰よりも察し、歓喜の雄叫びをけたたましくあげる。

 待っていた。

 待ちわびていた。

 助けて欲しかった。

 救って欲しかった。

 そして、倒して欲しい。

 そんな願いを叶えてくれる存在こそ、両親亡き後、自分を支えてくれた兄だ。

 その投擲は鋭く、どうしようもないほどに重たい。

 だが、その女の身体能力は人間を超越している。仮に直撃を受けたとしてもカッパー製の刃程度では致命傷足りえない。

 それでも攻撃を受けること自体が癪なため、リインは上空から迫り来る塊を見上げ、矢のように迫るそれを右手の甲で裏拳の如く叩き落とす。

 鳴り響く金属音は、カッパー製の刃が粉砕された結果だ。

 相手を倒すという目的は果たせなかったが、上空から見下ろす少年は満足そうに落下する。

 対するリインは、軍人から冒険者へ標的を変える。神威の支配下においても自分の意思を貫き、あまつさえ暴れまわる不届き者がいるのだから、この上なく面倒な障害だ。

 なにより、この男が気に食わない。イリックがリインを嫌うように、リインもまたこの人間を心底毛嫌いしている。


「岩が降ってきたのか?」

「いや、武器のようです。この色は……」

「ミスリルにしてはくすんでるわね~」


 三人の軍長は未だ状況を飲み込めない。砕かれた物体が何なのか、それすらも掴みかねている。


「カッパーの剣だ。やっと来てくれたか」


 エミリアは縛られた体の代わりに眼球を動かし、空から落ちてくるその勇士を目に焼き付ける。

 ネッテのように騒いだりはしないが、現状を打開できる唯一の可能性が到着したのだから、うれしくないはずがない。


「――例の坊主じゃの」

「我らがリーダーのご到着よ。ほんと、じらすんだから」


 ザザは目を閉じ、その音に耳を傾ける。もはや視界からの情報は必要なく、風切り音だけでその強さは十分伝わってくる。

 ロニアは小さくため息をつきながら、ぼやくように両肩を落とす。その男の登場がもたらす安心感が、リインという脅威を上回った瞬間だ。


「なんだなんだ。そういうことか。いるならもっと早く来てくれよ。ぜってー笑われるじゃねーか。ちくしょう」


 マッカスは血だまりに浸りながら愚痴るも、その顔はやんわりとほぐれている。手塩に育てた、という言い方は大げさすぎるが、ここで一か月間もかわいがったことは紛れもなく事実だ。その実力はお墨付き故、自然と表情は崩れてしまう。


(でも、まだ油断できない)


 変わらない人物は一人だけ、アジールだ。余計なことを口にしないだけとも言えるが、湧き上がる雰囲気に染まらず無口を貫く。

 駆け付けた男を信頼していないわけではない。それでもなお、戦力的には劣ると分析できてしまう。

 イリックがこれから相対する女は、自分達以上の実力者でさえ苦戦しかねない化け物だ。そんな相手と戦い、勝利を得られるかと問われれば、首を縦には振れない。

 イリックが加わろうと、自由に動ける戦力は自分達四人だけ。軍長の手助けがない以上、劣勢のままだ。

 贔屓目に見たところで、戦力差はまだ覆せていない。

 アジールとしてはそう判断せざるをえない。

 そして、その少年は着地する。

 長い、とにかく長い落下時間をえて、何人もの観客に見守られながら薄茶色の大地に着地する。

 ドスンと鳴り響く騒音が、落下の衝撃を物語る。空気は震え、それ以上に軍区画が振動する。

 砂埃が一際大きく舞い上がり、少年はその中心で真っ赤なコートと共にゆっくりと姿を披露する。


「……足が痛い」


 二つの意味で当然だ。

 定期船が行き交う港からこの場所までを限界以上の走力で駆け抜けたのだから、太ももは張りつめている。

 二百段を越える最後の下り階段を跳躍で飛び越えたのだから、着地の際に足へ加わる負担は人間をバラバラにするほどだ。普通の人間ならトマトのように砕け散ってもおかしくはない。

 ゆえにイリックは心境をぼやく。痛いのだから仕方なく、ほろりと涙がこぼれるが、そんな兄の姿でさえ妹には二枚目に映る。


「キャー! かっこいい! 後で抱いて!」


 イリックの登場とネッテの歓声が、張りつめた空気をさらに軟化させる。

 だが、その女は影響を受けることもなければ臆することもなく、両足を震わせる人間から視線を外さない。

 黒髪は男らしく短い。一時は長かったが、今では以前のようにこざっぱりとしている。

 顔は十八歳にしてはいささか童顔だが、端正な顔立ちゆえ決して悪くはない。ネッテに至っては高評価だ。

 身長はリインよりも一回りは低い。平均程度はあるのだが、冒険者の中ではいささか物足りない。

 羽織っている服は特注のピーコートだ。真紅のそれは少しだけ黒がかった赤色をしており、一般的なコートのようにだぼっとしたゆとりはなく、胸元から腹にかけて三つのボタンが縦に並んでいる。ブレイズマーシャラーと命名されたこれは立派な防具だ。金属製の鎧には敵わないが、魔法耐性だけなら比較にならないほど高い。

 対して、黒いズボンはただの街着だ。コートは長くなく、本来ならば脚部にも相応の防具が必要なのだが、懐事情との兼ね合いで妹が選んだズボンを履いている。

 黒い靴も一般的な皮製だ。こだわる冒険者はここにも相応の金額をつぎ込むが、そうでないものも少なくなく、イリックとしてもどうでもよいと考えている。

 背中は何も背負っておらず、マジックバッグや釣竿を港に置いてきたためだ。

 両手ももちろん手ぶらだ。先ほど唯一の武器を放り投げたのだから、現状は素手ということになる。


「殺されに来たんだ」

「そんなわけあるか。しかしまぁ……、暴れに暴れたみたいだな。わんぱく過ぎるだろう」


 いい歳して、と言いかけたが、イリックは余計な一言を飲み込んで発言を締める。空気を読まない妹に感化されかけたが、遠方の真っ赤な死体群を眺めてしまうと、どうしても気持ちは滅入ってしまう。


「フシュ~。小僧、勝算はあるのか?」

「あ、はい。多分……」

(改めて見ると本当にでかいな……)


 巨人のような男が、しわを寄せながらその目を見開き、物色するように少年を見定める。自分達は動けない以上、途中参戦したこの男に託すしかなく、現状選択肢などないのだが、その意思だけは確認したい。

 イリックはこの軍長を知っている。否、知らない人間など圧倒的に少ない。

 背丈が三メートルにも達する大男など、他を探してもこの男しかいない。ましてやそれが第一海軍の長なのだから、この国の子供ですら名前くらいは知っている。

 ザザ。五十代でありながら肉体は衰えを知らず、肥満のような巨体は驚異的なまでに筋肉の塊だ。

 上着とシャツは吹き飛んでおり、ごつごつした上半身が顕になっているが、強面な顔つきが威厳を保っている。


「勝てるってか? 言うね言うね~。マッカスの野郎をぼこぼこにした女だぞ? おまえのような小僧にどうこうできるとは思えないね~」

「こら、そういうこと言わないの!」


 悪態をつく同僚へ、半裸の女が遠くから叱りつける。

 ルードリッジはこの少年の実力を十分把握している。一か月間もこの地で汗を流していたのだから、洞察力の鋭さも相まって認識済みだ。

 それでもつい心配してしまう。

 そう。イリックとリインの実力差を加味した上で、率直な感想を述べている。

 この冒険者は確かに強いが、相対する女はそれ以上だ。マッカスでさえ敗れ去ったのだから、この少年では手も足も出ない。

 ルードリッジは冷静に分析し、そう結論付ける。自身の命を担保に時間を稼いだ結果がイリックの登場ゆえ、本人としては複雑な心境だ。


「気を付けて戦えよ」

「あ、生きてたんですね」

「死んじゃいねーよ! 死にかけたけど……」


 自身の血液に浸りながらマッカスが声援を送るも、その光景はどこか情けない。

 上空からは死体が転がっているようにしか見えなかったが、こうして元気そうな顔を見れたことでイリックは安堵する。


「そういうことだ。当然、私も敗れた。どう戦う?」

「作戦なんて一つです」


 エミリアの鋭い眼光に晒されながら、イリックはハッキリと言い切る。

 格上の相手と戦う際、戦法は限られてしまう。冒険者が長年積み重ねた上に編み出したそれらはほとんどがパーティを前提にしており、残念ながら今回は使用できない。

 それでもこの少年にはこの少年だけの手札がある。

 コネクト。この魔法が、どんな相手とも渡り合える戦法を提供してくれる。


「あなたが殺されたら全員が死ぬんです。それを承知で挑むように」


 心の中で眼鏡をくいっと持ち上げながら、凛々しい男が避けられぬ事実を突きつける。

 ルーガーの言う通り、イリックは最後の切り札であり、希望だ。

 敗北は全滅を意味する。

 ひたすらに重い責任が少年の双肩に圧し掛かるも、本人はその程度で萎縮したりはしない。


「あそこでぐったりしてるリンダをさっさと解放してあげなさい。このままだと死んじゃうかもしれないわよ」

「リンダさーーん!」


 ロニアが後方を指差すと、その方角には白髪の女性がエプロン姿のまま倒れている。神威に抗えない人間はこうなるため、そういう意味では正しい反応だ。

 前しか見ていなかったネッテは慌てて介抱しに向かうが、リンダからは一切反応が返ってこない。生気を抜かれたような表情は、思考を奪われた結果だ。


「がんばって」

「ガッテン!」


 アジールのやわらかな声援を燃料に変え、イリックは闘志をさらに燃えあがらせる。

 知り合いとの長話はもう終わりだ。待ってくれたリインに少しだけ感謝しつつ、恩を仇で返すように作戦を開始する。


「……んで、何回殺された? この人達が相手じゃ、さすがに無傷じゃいられなかったろう? 十回? 二十回? いや、もっとだろうな」

「いちいち数えてない」

「それでもある程度は把握できてるんだろう? 残量から」


 イリックが口にしたその単語が、リインの細い眉を少しだけ震わせる。周囲の人間達からすれば意味不明なやり取りだが、当の本人には突き刺さる重い言葉だ。


「マッカスさんと死闘を繰り広げて、最終的にはなんとか勝つも包囲されてボコボコにされた……、と。んで、何回くらい?」

「知らない」

「あっちの死体はぐちゃぐちゃだから、魔法は温存したのか。無駄にマジックポイントを消耗できないからな。暴れに暴れた後、この人達にぼこぼこにされたんだよな。後何回死ねるんだ? 十回? 五十? 百?」

「……何回でも」

「有限の癖に見栄張っちゃって。まぁ、本当のことは言えないか。仕組みがばれたとしても、そこさえ隠し通せれば無敵なことには変わりないもんな」


 この問答によって、エミリアとロニアも真相に至る。

 それでもなお、わからないことがある。この少年はなぜそれに気づけたのか、大事なこの部分がわからない。


「人間離れした魔力とマジックポイント……。本当にモンスターみたいな奴だな。まぁ、そのおかげで気づけたんだけど」


 この発言はリインを揺さぶるためではなく、言ってしまえば感想のようなものだ。イリックの言う通り、モンスターはどういうわけか膨大なマジックポイントを余裕している。人間の優秀な魔法使いと比較しても、その値は桁が一つ違っている。

 マジックポイント。魔法を使う上で必要となる消耗品だ。精神力に置き換える学者もいるが、どちらにせよ、目に見えないエネルギーと言える。

 魔法を習得する盾役や後衛に属する人間なら、生まれつきある程度のマジックポイントを有している。

 体を鍛え、魔法を使い、モンスターを倒すことでその量は上昇することから、軍人や冒険者は後衛であろうと鍛錬を欠かしはしない。

 当然だ。マジックポイントの総量がそのまま魔法の使用回数に繋がるのだから、強化は必須事項だ。

 後衛回復役に分類される子供の場合、もしキュアを使えるのなら、平均すると二、三回は使えると言われている。

 大人はその倍くらいだろう。

 一方、専門家の軍人や冒険者の場合、最低でも十回は使えなければスタートラインには立てない。

 もちろんこれは出発地点だ。理想は二十回以上なため、魔法だけで戦闘に貢献する彼らと言えども日頃から汗をかかなければならない。

 対して、モンスターは仮に魔法が使えない個体であろうと、膨大なマジックポイントを内部に溜め込んでいる。

 差はあれど、キュア五十回、百回分に相当する量も決して珍しくはなく、むしろそれらは少ない方だ。

 動物や昆虫は、モンスターと姿形は似ていようとマジックポイントを有していない。

 人間とモンスターだけの特権であり、認めたがる者は少ないが希少かつ貴重な類似点だ。


「意味がわからない」

「しらばっくれちゃって。不老不死だってことは認めてやるけど、その特性は必ず何かと繋がってるはずなんだ。人間が生きてくために飯を食うように、おまえも死ぬ度に何かを消費してんだろう?」


 ここまで言えば、誰であろうと気付けてしまう。エミリアとロニアだけでなく、他の軍長達もついに辿り着く。

 ネッテだけはリンダの頭を太ももに乗せながら、兄の高説を思考停止状態で聞き流している。話が長い、という感想しか抱いていないからだ。

 本を読むようになってもなお、人の話はあまり聞かない。この性格だけはなかなか直らない。


「それが……、マジックポイント?」

「正解です。だよな?」


 ロニアのつぶやきに、イリックが代わりに反応する。本当はリインにそう答えてもらいたいのだが、口を真一門に結んでいるため、その期待は実現しない。


「なぜ、そう思える? 突拍子がない、とは言い切れないが、根拠も証拠も見当たらないぞ」


 エミリアの疑問はもっともだ。不老不死の時点で摩訶不思議な現象ゆえ、その源泉や仕組みを解き明かすことは不可能に近い。

 ましてや、リインが尻尾を掴ませていない。イリックの勝手な妄想だとあざ笑うことさえ可能な段階だ。


「勘です! でも……、あってるよな? 悔しそうな表情してるし~。アジールさんと違って案外表情読みやすいな、おまえ」


 ぷぷぷと笑う少年は誰よりも楽しそうだ。正解を言い当てたという事実と、能面な女が表情の変化を隠し通せていないことがおもしろくて仕方ない。

 勘。しかし、ただのそれではない。

 冒険者の勘。枕詞一つで信憑性が変わることはないのだが、今回ばかりは非常に重たい。

 冒険者。彼らの歴史は案外浅い。ギルド会館が建設され、放浪者達がその職業に納まってからまだ百年も経過していないからだ。

 それでも、それ以降蓄積された情報と編み出された戦術は、もはや何物にも代えられない宝物だ。

 一方で、冒険者が話す噂話の中には、およそ信じられないものが混じっている。

 ネイン渓谷に生息する目玉を多数備えたスライムを倒したら、マジックポイントがじわじわ回復するマントを落とした。

 クルル原野の遺跡には地下があり、そこには巨大なスコーピオンが生息している。もし暴れた場合、遺跡一階にまで衝撃が届いてしまう。

 マンルルス坑道では夜中にサイレンが鳴り響く。そのタイミングでお化けがひっそりと出現するが、あっという間にいなくなる。

 炎の魔法を使用する巨大な鳥のモンスターを、たった一人で打倒した冒険者がいる。魔法の火力はすさまじく、当たれば即死も免れない。そんな相手にこの変人は一人で挑み、見事討伐した。

 どれも話好きな連中の戯言かもしれない。

 作り話であろうと真実であろうと、おもしろければ構わないのかもしれない。

 どうであれ、噂は噂。信じるか否かは受け手側次第だ。

 イリックを筆頭に、一部の冒険者はその噂話を信じている。

 フレイムや上位のインフェルノを使用する真っ赤な毛色の鳥型モンスター。鳥ではあるが空を飛ぶようなことはなく、浮きはするが細い足で俊敏に走る。

 ジャイアントよりも大きなそれは真っ赤な体毛に覆われており、放つフレイムは人間程度なら容易く焼却可能だ。

 そんな強敵相手に、その一匹狼は無謀にも単身で挑み、長い時間をかけて討伐してしまう。

 本来ならば十人以上で立ち向かうウォンテッドモンスターだ。

 盾役が二人以上。

 攻撃役が前衛後衛で複数人。

 回復役が二人以上。

 補助役が三人以上。

 最低でもこの程度の戦力を有しなければ手も足もでない。

 しかし、その男は二つの戦術を結び付け、勝利を掴む。

 マラソンおよびマジックポイントの消耗。この二つだ。

 人間離れした判断能力と高い俊敏性、何より優秀な魔力とマジックポイントを持ち合わせているからこそ、可能な芸当と言える。

 やり方はこうだ。

 初手はグラウンドボンドから始める。相手をその場に拘束するこれは弱体魔法だ。

 すなわち、この愚か者は後衛補助役に分類される。

 モンスターが動けなくなったことを受け、スリップペインを浴びせる。これも弱体魔法だ。効果は毒のように相手の命を蝕む。

 巨大鳥が動けないからと言って油断はできない。即死級のフレイムとインフェルノを唱えるのだから、その位置に立っていたらあっという間に殺されてしまう。

 ゆえに、やるべきことをやり終えたらすぐに離れる。この際、相手の魔法を無駄撃ちさせることが重要だ。

 巨大な火の玉は目にも止まらぬ速さで突き進むが、範囲外まで下がれば自然と消滅する。

 その後は間合いを計りながらひたすら待ち続ける。

 グラウンドボンドとスリップペインがその効果を終えるまで、男は魔法が届くギリギリの位置と安全圏を何度も往復する。

 モンスターが勢いよく走り始めたら、すぐさま次の弱体魔法を詠唱する。

 グラビティボルト。対象の動きを鈍らせるこれは、モンスターの身動きだけではなく足取りもまた遅らせることが可能だ。

 いかに俊足のモンスターであろうと、これを受けてしまうと老人のようにとろとろと歩くはめになる。

 これ以降は繰り返しだ。二種類の魔法で真っ赤な鳥をコントロールし、スリップペインでじわじわとダメージを与える。

 攻撃魔法は範囲外に逃げることでやり過ごし、冒険者側だけが魔法を成立させ続ける。

 姑息且つ突拍子のない戦い方だが、誰にでも真似できるわけではない。なぜなら非常に神経をすり減らすからだ。たった一度のミスで命を落とすのだから、強靭な精神力も求められる。

 本来ならば、この戦術で強敵を倒すことはできない。モンスターは魔法に対して免疫力を備えるからだ。

 まるで、誰かがこのようなずる賢い戦い方を否定するようなルールがモンスターには適用されている。

 弱体魔法への累積魔法耐性。つまり、同じ魔法に何度も晒されると、そのモンスターはやがてその魔法を受け付けなくなる。

 ゆえに、グラウンドボンドで足止め可能な回数は数回程度だ。それ以上はどんなに魔力で勝っていようと、当然のように無効化されてしまう。

 だが、この仕組みにも抜け穴が存在している。

 そして、この冒険者はその穴を突くことで世界の理に抗い、勝利を掴む。

 時間経過による耐性の減衰。この時間を感覚で覚え込んだこの男は、二種類の足止め魔法を交互に駆使し、累積魔法耐性の枷から脱却してみせる。

 このモンスターとの戦闘において、もっとも注意すべき点は殺人的な攻撃魔法だ。間合いを詰められたタイミングでこれを使われてしまうと、耐えるという選択肢すら浮かばずに即死してしまう。

 ゆえに、その時が訪れるまでは逃げ腰くらいが丁度良い。

 倒すよりも凌ぎ続ける。

 相手を弱らせるよりも消耗させる。

 その果てにご褒美とも言うべき時間が待っているのだから、男は極限の緊張感に包まれながらもミス一つなく機械のように作業を続ける。

 モンスターのマジックポイント切れ。こうなってしまえば、魔法で戦うモンスターは無力化されるに等しい。

 巨躯そのものが脅威ではあるが、この冒険者にとってはどうということもない。

 ここからは攻撃魔法を気にせず、作業を継続すれば良い。だからといってはしゃぐこともなく、ただただ安全に、一定の距離を保って弱体魔法を撃ち続ける。

 本来ならば自身のマジックポイントも枯渇してしまうのだが、後衛補助役にはそれすらも解決する術が二つ存在する。

 マジックポイントを回復する魔法、カスケード。

 マジックポイントを完全に補充する戦技、トランスポーズ。

 前者はマジックポイントの消耗が大きく、乱立するとあっという間に詠唱者が疲弊する。

 後者は再使用時間が九分と長く、つまりはこの期間内にマジックポイントを枯らしてはならない。

 だが、この男はなんなくやってのける。

 トランスポーズが後どれくらいで使えるようになるのか、携帯時計を確認することなく感覚で正確に掴んでいる

 カスケードのかけ直しも、数秒程度の誤差で実行し続ける。

 何千、何万と積み重ねてからからこそ可能な芸当だ。

 ゆえに、今回のモンスターにも臆することなく挑めてしまう。

 二時間を超える戦いの果てに、巨大な鳥は地鳴りを響かせ倒れ込む。もはや動くことはなく、外傷は一切見られないが絶対的な敗北と共に死を受け入れる。

 この戦闘において重要な要素は、両者のマジックポイントだ。

 一方はやりくりを続け、最後まで枯渇させることはなかった。

 もう一方は途中で使い果たし、その後は翻弄され続ける。

 その差が勝敗を分けたとは言えきれないが、その重要性を理解している者が有利に立てることは間違いない。

 このモンスターを倒すためには、実力者を相当数揃えなければならなかった。にも関わらず一人の冒険者が倒してしまった。

 この逸話はつまりはそういうことなのだが、イリックは別の受け止め方をしている。

 相手にマジックポイントを使い果たさせるという戦術がこの世には存在する、と。普通は思いつかない発想だが、それゆえに記憶には強く残る。

 そして、リインとの邂逅だ。不老不死を謳うこの女は、紛れもなく不死を達成している。バラバラに切断しようと、頭部や腹部に穴を開けようと、最終的には元の姿に戻るのだから疑いの余地などない。

 イリックはその特性を目の当たりにし、あることを連想する。

 先ほどの噂話だ。

 人間を寄せ付けないほどの火力を武器にする鳥のモンスター。

 死んでも蘇る女。

 似ても似つかぬ両者だが、冒険者の感性がやかましいほどに訴えてくる。この逸話とリインを関連付けることは可能だ、と。

 ゆえにイリックは自分自身を信じ、同時に偉大なる先人達を信じる。

 この女はマジックポイントと引き換えに生き返っている。魔法を使う度にそれが減るのと同じメカニズムで、蘇生にはそれ相応のマジックポイントを消費していると決めつけ、ついには本人に言い放つ。

 そもそも論として、イリックは無条件な不死などありえないと考えている。必ず何か種があるはずだと予想しており、生命力を補充できるとしたら精神力、すなわちマジックポイント以外には思いつかない。

 推測の上に勘を混ぜ込み、導き出せた結論を突きつける。

 ここからは答え合わせの時間だ。

 先ず、沈黙が訪れる。リインが反論できないために生まれた静寂は、冒険者の言い分が正しいと雄弁に語ってしまっている。

 からくりが露呈したところで不老不死が解除されるわけではないのだが、この状況はリインの優位性を曇らせるには十分だ。


「……事実のようですね」

「フシュ~。坊主、よくやった! さすがは冒険者じゃ!」


 弱々しい風では、短い黒髪を揺らすことすらできない。クルトは赤い眼鏡ごしにその女を見つめる。

 黙る姿もそうだが、少しだけこわばった後ろ姿が彼女の焦りを如実に表現しており、ルードリッジでなかろうと、リインの感情を推測することは容易に可能だ。

 巨人のような男は、動けない代わりに満面の笑みをイリックに贈る。勝算を得られたことがうれしく、もたらした者には格別の称賛を与えなければならない。シンプルな図式だが、大人として当然の振る舞いだ。


「つまりは、殺しきれるまで殺し続ければ良い、と……」

「わかりやすくていいね~。動けないけどな!」


 エミリアの発言は正しい。だが、それが困難なことはわかっている。それでも、この面子が揃った今なら不可能ではない。種明かしが済んだことで、こわばっていた彼女の表情はいっきに氷解する。

 呼応するように、左頬の傷をぐしゃりと歪ませながら、ルードリッジは大声で笑う。方針が決定したことから、本当なら今すぐにでも実行したいのだが、金縛り状態がそれを邪魔するため、今は道化のように笑うことしかできない。


「少なくともあなたにはできない」

「わかってる。だけど、今ならそれでも構わない。俺はおまえと違って独りじゃないからな」


 リインとイリック。二人の立ち位置は全く異なる。

 女と男。

 異常な年長者と十代の若者。

 魔法の天才と魔法の落ちこぼれ。

 神の命令に従う者と自由な生き方を選んだ冒険者。

 孤高の存在とパーティのリーダー。

 そして、少年の輪は今なお広がり続ける。

 失業と共に始った旅は、二人の仲間以外に錬金術師および女性冒険者と巡りあわせてくれた。

 冒険者登録を行うために訪れたデフィアーク共和国では、軍人との出会いを果たし、報酬まで受け取る。

 長い船旅の果てに辿り着いたガーウィンス連邦国では、最先端の研究に打ち込む学者に興味を持たれ、クエストまで斡旋してもらえた。

 長居したサウノ商業国では、防衛隊の長を筆頭にそこで活動する冒険者とも打ち解ける。

 一介の、それこそ駆け出しの冒険者とは思えない交流関係だ。北の地に生息するモンスターとの遭遇およびコネクトの習得が可能とする稀有な状況とも言える。

 絆を力に変える。この魔法はそういう神秘だが、そのこととは別に、イリックは頼もしい縁を手にしている。

 ウェイクおよびエミリアから始まった軍人との交流は、マッカスをえてこの地に染み渡る。

 その結果、見返りは小さかったがいくつもの依頼を任され、果てには心に傷を負ったものの有意義な鍛錬で一回りも成長することに成功する。

 そして、この包囲網だ。

 中心に立つ女は真っ赤な髪を腰近くまで垂らしつつも、黒いロングワンピースを凛と着こなしている。ドレスのようなそれはわびしい大地には相応しくないが、命を対価に赤く塗られた地面が彼女の異常性を幾分緩和している。

 肩口から伸びる右腕はただただ美しく、暴力を実行できるようには見えない。

 左腕もそれは同様だが、手のひらはぎゅっと硬く握られている。

 この女は独りだ。一人で生きることを選んだのから、後悔などしていない。そんなことを考えたこともなければ、寂しいという感情に至っては紛失済みだ。

 相対する少年は独りではない。三人の仲間以外に、ただただ頼もしい軍人達が左右に映り込んでいる。

 イリックが一人で何度も何度も殺し続ける必要などない。肌を貫く崇高な圧力を取り払うことさえできれば、後は見ているだけでも良い。

 そのためには神威を解除させるしかなく、達成の手順はやはり殺害する他ない。

 リインは知っている。今の自分はこの人間に殺されることはない、と。

 イリックは知っている。今の自分でもこの女を一度くらいなら殺せる、と。

 どちらの推測が正しいかは、答弁ではなく実際に試せばよい。わかりやすく、何より間違えることのない絶対的な確認方法だ。


「一人じゃ戦えない愚か者。それが人間。人間の限界」

「おまえだってお父さんとお母さんがあんなことやそんなことをしたら生まれたんだぞ。同じ人間の癖に偉そうなことを」

「神威が神に代わってこの地を覆う中、あなたは結局一人。それとも、あそこの雑魚に手伝ってもらう?」

「それもいいんだけど、先ずは俺が相手してやる。途中からの参戦なんだから、根性見せないとな」

「殺してあげる」

「絶対無理」


 これ以上の討論は必要ない。たっぷりと意思を伝えあったのだから、ここからは互いの実力を競う段階だ。

 いくつもの瞳に見守られながら、少年はゆっくりと一歩目を踏み出す。相手よりも先に攻撃をしかけたい。そういう思惑からの第一歩だ。

 イリックは十分理解している。自分と相手との戦力差を。

 以前なら、コネクトに頼らずともある程度はやりあえる実力差だった。しかし、自身が成長したように、リインも急激に進化している。

 それでもなお、雲の上の存在とは思っていなかった。

 自分とマッカスないしウェイクとの間くらいだろうと踏んでいたが、その読みは地に這う男の姿を目の当たりにしたことであっさりと否定される。

 つまりは、自分は当然ながらマッカスよりも強い女がリインということだ。

 これは想定外だ。正面から挑んでよい相手ではない。

 だからといって臆することもなければ逃げるつもりもない。勝算が無に消えたわけではないのだから、堂々と胸を張って前進する。

 己の実力だけでは届かないのなら、背中を押してもらうまでだ。イリックはそのための手段を持ち合わせている。


「コネクト」


 そして、世界から色彩が抜け落ちる。

 青い空は漂う雲のように薄まり、肌色のような大地はどこが赤いのか識別できなくなってしまう。

 遠方にそびえ立つ岩山は黒色と灰色の二色で構成されていたが、今では中間色のみの巨大な壁に成り下がっている。

 夜とも明け頃とも言えない異常な風景は、ここがウルフィエナではないと錯覚させるには十分だ。

 だが、ここは間違いなくデフィアーク共和国の軍区画だ。

 二人の周囲には、先ほどまでと同様、軍人達と冒険者達が立ち尽くしている。彼らは変わらず色を保っており、それは舞台上の役者達も同様だ。

 誰もが動かない時間の中で、少年だけは悠々と歩みを進める。

 否。もう一人の女もまた、臆することなくまたばきをしている。


「早速奥の手」


 芸がない。そう言いたいのだが、言葉足らずでも相手には伝わる。

 イリックは言い返さず、そんなことよりもやるべきことがあると急加速を開始する。

 コネクトは間違いなく最終手段だ。これ以上の手札はなく、だからといって出し惜しみできる状況でもない。

 ゆえに躊躇なく発動させる。その豪胆さは冒険者に必要な素質だ。使わずに殺されでもしたら、それこそ笑い話にもならない。

 冒険者。彼らは完全なるアウトローだ。平穏な人生を過ごせない異端者だが、自身の命と引き換えに自由を手にしたのだから文句を言われる筋合いはない。

 専門分野はモンスターの討伐だ。朝から晩まで、そればかり考えているのだから、やはり彼らはどこか壊れている。

 モンスターとの戦闘に特化しているということは、対人戦は不向きではないか。

 実は正解だ。普段から模擬戦に明け暮れる軍人と戦った場合、冒険者の多くは後れを取るだろう。

 モンスターと人間。これらはそれほどまでに異なる存在だ。だからといって、冒険者が人間相手には素人のような立ち振る舞いしかできないわけでもない。

 彼らの順応性は異常だ。対人戦であろうと、ものの数回こなせばたちまちこつを掴んでしまう。

 そう。イリックは既にリインと何度か戦っている。相手が格上に成り果てようと、主導権までは握らせない。


「!?」


 痛みは感じずとも、腹部に加わった鈍く重い衝撃によって意思に関わらず口から空気が漏れ出てしまう。

 リインの体がくの字のように折れ曲げる。イリックの右腕が体の中心点に拳をめりこませたのだから、そこを支点にして上半身は前方へ突き出るしかない。

 速さも、反射神経も、イリックは下回っている。それでもなお、痛打が届いた理由は情熱の差だ。今回に関しては、経験よりもそれが勝り、リインは先制攻撃を許してしまう。

 目の前の男を見くびっていた。それは紛れもない事実だ。

 高まった身体能力および、この地での大量虐殺によってもはや接近戦でも抜きんでることができたと自負したからこそ、イリックの動きには対応できない。

 そもそもの前提として、リインは思い違いをしている。

 今日、この場所で、二人の軍長を負かすことに成功したが、イリックの実力はそのどちらにも大きく劣るわけではない。

 エミリアと比較すれば、むしろ上回っている。

 だからこそ、何の得にもならない油断や慢心は足を引っ張る。コネクトを使えるだけの人間だと見くびってしまえば、少年は何度だろうと攻撃を命中させるだろう。

 イリックは今回、至極簡単な行動に打って出る。

 フェイントだ。

 右から追い越すと見せかけ、警戒心を抱かせたタイミングで右腕を叩きこむ。たったそれだけのことだが、流れるような挙動がリインを欺き、静止した時間の中で初撃を成立させる。

 二度は通用しないだろうが、そんなことは百も承知だ。

 ぎょっとしてくれれば良い。

 動揺してくれればなお良い。

 目的は自分自身を敵だと認識させることと、主導権の強奪だ。

 遅れて現れた冒険者など、もののついでに殺せてしまう。そう思われることは構わないのだが、相手にされず周囲の知り合いが狙われることは避けなければならない。

 ウォーシャウトを使って攻撃対象を制限するように、イリックは敵対心を稼ぐための打撃を成功させ、その目論見を成就させる。


「ぐ、う……」


 真っ赤な眼球が震え、口からは唾液がこぼれる。女が吐かずに済む理由は胃が空だからだ。そうでなければ、今頃吐しゃ物を地面に散らしている。

 反撃を警戒し、イリックはすっと後退する。その方向は無人の平地ゆえ、戦場の誘導も兼ねている。

 そして、時は動き出す。

 体は動かずとも、周囲の人間達は首を傾げるほかない。

 リインはその場から一歩も動いておらず、けれども腹を抱えて苦しそうだ。

 イリックは一瞬で後方への移動を終えており、だからといってテレポートか何かを使った節も見受けられない。

 攻防に費やされた三秒間が抜け落ちているのだから、現状把握など不可能だ。エミリアや三人の冒険者だけが事情を察する。


「魔法を使わないとこんなもんか。まだ体が馴染んでないのか?」

「――いい気にならないで」

「なっちゃいないけど。そっちこそ出し惜しみしてると、どんどん追い込まれるだけだぞ。俺としてはありがたいけども」


 らしくないと理解しつつ、イリックは挑発行為を続ける。取り囲む観客の安全を確保するためには必要なことだ。

 ゆえに、嫌われるようなことを、苛立たせる言葉を放ち続ける。


「アジールさんより胸が大きいからって調子に乗るなよ。ロニアさんよりは小さいんだから、上には上がいることを思い知れ。そもそも、大きさだけじゃなく形も重要なんだ。まぁ、おまえのも悪くはないけど。あ……」


 途端、仲間から突き刺さるような視線を向けられる。真面目にやれ、と叱られているのだが、むき出しな欲求をぶちまけたことがそもそも間違いだ。

 ネッテに至っては大層目を吊り上げている。この戦いに終止符を打つことができたとしても、その後を無事でいられる保証はもはや無い。


「こ、来い! 人間を殺したいんだろう? それなら俺から始めろ」


 今更取り繕っても遅い。だからといって逃げ帰るわけにもいかず、イリックは威圧するように啖呵を切る。とってつけたような牽制だが、必要な行為だ。

 リインは大量の軍人を殺している。過去にも村を滅ぼしており、イリックを特別視してはいるものの、超人との戦闘を経験したことでもはや雑魚扱いだ。

 だからこそ痛打を受けてしまう。自身も出し惜しみはできないとやっと痛感する。


「神の加護は私にこそ相応しい」


 赤い髪と両腕をだらんと垂らし、女は静かに宣言する。呪言のようなそれは、自分に言い聞かせるためのものだ。他人に意味が伝わろうがそうでなかろうが、そんなことはどうでもよい。

 寵愛を受けるには資格が必要だ。

 その資格は自分だけが持ちうるものだ。

 ただの人間にはモッタイナイ。

 人間は私に狩られなさい。

 独占欲と怒りを混ぜ合わせ、リインは両目を力強く見開く。

 呼応するように現れた火の玉は殺意の塊だ。青いそれらは二つ、四つと増え続け、ついには二桁に到達する。

 地獄の炎は空よりも青く、船の上から一望できる海面のように恐ろしい。空気すらも燃やし尽くす火力は、人間を駆逐するための究極的な排除方法だ。

 燐火と名付けられたこの魔法は、コネクトの習得をえて彼女に宿る。フレイムとは似ても似つかないこれは、雨のような連射速度で標的を狙うことが可能だ。


「やっとその気になったか。なら俺も……」


 この構図はわかりやすい。

 イリックはリインを殺したい。神威を解除するためだ。

 リインはイリックを殺したい。人間を滅ぼす。その一環だ。

 互いが互いにその手段を持っている。

 観客を巻き込まないための導線は引き終えたのだから、ここからは本気と本気がぶつかりあう。


「燃え尽きなさい」

「オムニシエンス」


 発射された炎はどんな武器も溶かす。もはや常識など通用せず、そもそも冒険者はそんなものに縛られない。

 少年の頭上には一本の剣が生成される。見えない蛇口から流れ出した水は瞬く間にその形を主のイメージ通りに変え、握られた瞬間から片手剣として機能する。

 刃は先端でぎゅっと細まり、拳を守る唾は一般的な形だが、柄には芸術作品のようにきめ細かな模様が彫られている。

 迫り来る青い炎は、ダーク製の装備品すらも融解するのだから、これを受け止めることは何人足りにも不可能だ。

 唯一、アダマン製のそれなら可能性もあるが、希少かつ高級なことからこの場には見当たらない。

 だが、問題ない。そのための対抗策が、手の内にあるからだ。

 炎属性。フレイムや燐火がこの分類に当てはまる。

 炎は氷に強く、すなわちこれらの魔法は氷属性の生き物に対して効果的だ。

 対して、水を苦手としており、多くの水性モンスターはフレイムに高い耐性を持つ。

 なにからなにまで、イリックはリインのカウンター的存在だ。

 炎の魔法を専門とする彼女にとって、水魔法を扱うこの人間は相性としては最悪だからだ。

 五月雨式に迫るそれらを、イリックは水の剣で次々と切り裂く。途端、それらの火力は急激に減退し、イリックの後方であっけなく霧散する。

 同時に全弾を撃ち込まれたら回避するしかなかったが、数発ずつなら問題ない。この武器なら溶けることもなく、体力が続く限り迎撃は可能だ。

 水の武器。そんなものは元来存在しない。自然界にも人間の創造物にも見当たらないからこそ、煉獄の炎は人間を燃やし尽くせる。

 そのはずだった。

 もはや、誰の目から見ても明らかだ。

 アジール。

 ロニア。

 エミリア。

 マッカス。

 ザザ。

 ミーズ。

 クルト。

 ルードリッジ。

 彼らもついてに確信する。

 リインを名乗るこの女を打倒せるとしたら、この少年を除いて他にはいない、と。

 神威の最中でも縛られず、何もかもを溶かす炎すら切り裂ける。

 冒険者として十分な柔軟性を持ち合わせており、誰が相手でも気おくれしない。

 優秀な人材かどうかは人それぞれの判断次第だが、少なくとも逸材だ。エミリアだけでなく、他の軍長達もこの少年に無限の可能性を見出す。

 なお、ネッテだけはイリックとリインの相反する関係性に気付けていない。そもそもそんなことには興味を抱けず、なにより兄がどれほど優秀かは、この中の誰よりも前から把握できている。

 太ももにリンダの頭を乗せながら、今は見守るように応援する。今はそれだけで十分だと、妹として理解している。

 凝縮された青い炎をさばきながら、イリックはじりじりと後退する。数の多さと途切れないことによる圧力に押されていることもあるが、身動きの取れない軍人達から離れることが主たる理由だ。

 追うように、リインは歩みを進めながら次々と炎を補充する。青いそれらは間髪入れず発射され、入れ替わるのように生み出される。


(これはやばいな……)


 イリックの額から汗が滴り落ちる。右手は忙しく、両足も今は止められない。

 ミスをするつもりなどないが、一向に落ちない火力はどこまでも脅威だ。たった一度でも切り損ねると致命傷を負うため、それだけは避けたい。

 高まった魔力が命を繋いでくれるが、痛いことには変わりない。

 なにより、生じる隙が追撃を許してしまう。それだけは決して許容できない。してはならない。


(あの魔法……、厄介。試してみる?)


 一方、リインも眉をひそめる。燐火が通用しないのだからおもしろいはずもなく、その原因はイリックが作り出した水の剣だ。

 オムニシエンスはロニアが将来至る水魔法の極致であり、その性能は既存のそれらを大きく凌駕する。

 水を他の何かに仕立て上げ、固定するだけでも未知の領域だ。この魔法はその段階に留まらず、硬度を極限まで高めている。

 もはやミスリル製の武器すらも圧倒するこれをもってすれば、どんな炎であろうと切り裂くことは可能だ。

 それでもなお、リインは怯むこともなければ臆することもしない。

 燐火は通用しないが、それは現時点の話だ。

 魔力および魔法の質を高めてしまえば、どうとでもなると予想している。

 そして、それを成す為の手段が彼女の内側に宿っている。


「見せてあげる。これが私のコネクト。絶対なる権力」

「やっとお披露目する気になったか」


 リインの発言に後方の観客はドキリとするが、イリックだけは奮い立つ。

 この女を倒すためには、この壁は避けては通れない。どれほど厄介な魔法かは誰よりも承知しているが、三人と繋がっている自分なら突破できると信じている。

 ゆえに、この少年も怯まない。

 そんな気概が増々軍人達を驚かせ、虜にするのだが、今はそんなことに気づくこともなく、最後の炎達を両断する。

 そして、一瞬の静寂が訪れる。

 呼び出された青い殺意は掃討され、集団から離れた位置で二人は距離を保ちながらも静かに向き合う。

 北の荒野から吹く風は乾いており、真っ赤な髪と黒い髪をさわさわと揺らす。

 頭上の太陽はまんべんなく大地を照らそうとするが、ところどころに居座る雲が時折地面に影を作る。

 冒険者と女。

 男と盲信者。

 どちらが正義でどちらが悪か、それは勝った方が決めればよい。

 この世界の仕組みとしては、彼女の行いが正しいのかもしれない。だが、そこに住まう人々がそのルールに縛られる道理はない。

 無味無臭の空気を吸いながら、リインはそっと口を開く。


「コネクト」


 静かな、しかし、力強いその詠唱はやはり一瞬だ。

 同時に、先ほど同様この世界から色が抜け落ち、生あるものだけがその色艶を維持し続ける。

 聴覚を失ったと錯覚するほどの静寂はただただ不気味だ。イリックはこの違和感の正体を知っている。

 時間停止だ。自身のコネクトは三秒間の沈黙を実現するが、この女の場合はどうなのだろうと様子をうかがうことから始める。


「私のコネクト。私の絆。神との絆」

「神?」

「そう。ゆえにあなたには不要。私だけに必要」


 リインの発言は根幹を言い当てている。

 イリックにとっては単なる手段でしかなく、優れた利便性に感謝はすれど、その仕組みなどどうでも良い。

 だが、神からの勅命を受けたこの女は別だ。内に宿したことで、真相へと至る。


「何が起きてる?」

「会話が……、飛んでる?」


 エミリアとロニアはイリック達の言動に困惑せざるをえない。

 リインはゆっくりと歩みを進めるが、周りからはなぜか一定のリズムで前方に瞬間移動を繰り返しているように映る。

 会話のやり取りも途切れ途切れなため、外野にはその内容が把握できない。


「必要もくそもあるか。俺も使えるんだから、おまえだけが特別じゃない」

「あなたを殺して、東の王も殺す」

「すぐそれだ。って、これがおまえのコネクトか。何回続くんだか……」


 イリックは近づく女へ反論を続けつつ、視線だけを動かして周囲を見渡す。

 一秒おきに時間が止まる。

 停止時間も一秒なため、この状況を認識できる二人には景色の推移が目まぐるしい。モノトーンとカラーが交互に押し寄せるのだから、目が回りそうな錯覚に襲われるも、今は一刻も早く慣れなければならない。

 既に五回は時間が停止しており、すなわち、リインのコネクトが発動してから十秒が過ぎ去ったことになる。

 長い。イリックはそう思わずにはいられない。


「コネクトを使えば、あそこの人間達もすぐに殺せる」

「それはどうかな」


 この差が素人と冒険者の差だ。

 リインの憶測はあながち間違いでもない。一秒毎に一秒、時間停止が発生する。本人はその影響を受けないのだから、一方的な虐殺が可能なはずだ。

 つまり、神威に頼らずとも、コネクトを用いれば勝利は揺るがない。

 そんな考えにイリックは同意できない。むしろ神威の方が確実だとすら思っている。

 リインの時間停止はイリックのそれよりも長いが、一回に一秒しか止まってくれない。超人相手だろうと十分な猶予かもしれないが、相手も超人な上、今は六人が集結している。

 すなわち、リインが一秒で十分ということは、その後の一秒は彼らにとっても事足りる。

 自身に満ちた代行者と戦況分析に長けた冒険者。決して埋まらない溝は立場の差から生じている。


「神を愚弄することは許さない」

(ん? 何のことだ?)


 止まっては動き出す時間の中、リインの表情がわずかに歪む。目的地に立つ人間の発言が気に入らないからだ。自分だけでなく、崇め奉る主にさえ唾を吐く言動を許容できるはずもない。

 その感情変化がイリックには不思議で仕方なく、怒らせるようなことを口にしたつもりもなければ覚えもなく、なんにせよ戦闘中なのだから戦うだけだ。


「滅ぼされなさい」

「おまえがな」


 そして、両者の距離は完全に縮まる。手を伸ばせば届く距離で、男と女は儀式のように向き合うも、その眼光は相手を否定し続ける。

 既にコネクトの時間停止現象は終わっており、ここからは色を取り戻したこの場所で優劣を競い合う。

 その果ては絶対なる死そのものだ。片方はそれを乗り越えた超越者ゆえ、本来ならば勝負など成立しない。

 神がそうなるよう仕向けたのだから、人間が敵うはずなどないのだ。

 それでは不公平過ぎる。そう判断したものもまた、神だ。

 その役を誰かに任命せねばならず、偶然選ばれた少年が、今はこうして目の前に立っている。

 見えない糸を結ばれ、手繰り寄せられた結果が、この立ち位置だ。

 両者がそのことに気づけるはずもなく、そんなことはどうでもよい。こうなってしまったのだから、互いが互いを敵として認識し、後は殺し合うだけだ。


「火車」


 女が先に動く。むき出しの右腕が前へ突き出されると同時に、青い炎がその腕に巻かれながら現れる。

 ぐるぐるととぐろを巻くそれは二の腕あたりから拳までを覆い、もし掴まれでもしたら瞬く間に炎が燃え移ってしまう。

 火車。リインがコネクトを発動させることで使用可能となる新たな魔法だ。

 平時はフレイムを変化させた燐火しか使えないが、神の用意した魔法を発動させることでリインはさらなる変化を迎える。

 魔力制御のさらなる向上だ。

 魔法の威力は魔力に起因する。

 魔法の使用可能回数はマジックポイントに左右される。

 では、魔力制御という概念は何かというと、魔法の威力を上下させるという意味では魔力と大差ないが、真なる意味合いは具現化された魔力、すなわち魔法の操作性が上手いか否かということだ。

 この概念は非常に軽視される。なぜなら、誰もが皆、ほぼ横並びな上、杖やマジックアイテム等で上乗せできないからだ。

 魔力制御の素養が高い場合、フレイムやアイスクルのように決められた魔法をそのまま使うのではなく、日常生活に役立てたり、あまつさえ新たな魔法の会得を可能とする。

 水やお湯を指先から流せるロニアや、空を飛べるシャルロットがそういった人間の筆頭だ。

 リインもまた、魔力だけでなく魔力制御が非常に高い。だからこそ、神の知識という後押しがあったとはいえ、独自の転移魔法、テレポートレムを編み出すことに成功する。

 そして、コネクトの習得がさらなる高みを実現し、その結果が単一の炎を吐き出すフレイムから、複数の塊を発射する燐火への昇華だ。

 魔力制御。誰もが魔力と似たような概念であると考える中、リインだけは全く異なる見解を抱いている。

 これは魔法に関する素養ではない。人間および魔法、ひいてはウルフィエナを作り出した創造主に見出される可能性だ。彼女はそう理解している。

 目立つからこそ、神に選ばれる。選んでもらえる。

 そう推測し、崇高しているからこそ、与えられた使命にも疑問を抱かずにいられる。

 その目は人間の死を見届ける。

 その足は人間に死を運ぶ。

 その手は人間の命を弄ぶ。

 青い炎を巻きつけながら、伸びた右手がイリックの首をわしづかみにする。単純な身体能力は彼女の圧勝だ。

 油断や慢心からかけ離れた今、その攻撃は必中となる。

 ミシッと軋む音は命が削れる悲鳴だ。

 火車など必要なかったかもしれない。彼女の握力をもってすれば、人間の骨など木の枝を折ると同義だ。

 だが、慌てない。慌てる必要などない。

 観客の一部は手を差し伸べたい気持ちでいっぱいになるが、そのような心配は必要なく、少年は自分だけでこの危機を突破できる。

 自力ではないのかもしれない。少なくとも自分の力ではないのだから、一人で戦ってはいるものの、背中は常に支えられていることになる。

 これも一時的に拝借するだけだ。返却の必要はなく、持ち主の意思を確認するまでもなく借り受けることができるが、どんな屁理屈を述べようとその事実は揺るがない。

 イリックは眼前の女をじっと見る。

 身長は幾分負けており、仲間の一人、アジールに勝るとも劣らない背丈は少なくとも自分よりも頭半分程度は高い。

 瞳に宿る赤い瞳孔は吸い込まれるような美しさと鋭さを備えており、敵対関係になければ見惚れていただろう。

 すらりと細い鼻はまさしく女性のそれだ。イリックのものよりもわずかに小さい。

 唇の色は薄く、これから人を殺すという状況にも関わらず、平然と閉じられている。

 血よりも赤い髪は櫛で通したようにストレートだ。前髪は眉毛付近まで伸びており、おでこはほとんど隠れている。

 顔同様、肌色の首からは色気すら漂う。男を魅了してもおかしくはないが、惹きつけられた者は例外なく漆黒の闇へ沈んでいく。

 着ている衣服はそんな彼女に相応しいロングワンピースだ。黒一色だが決して地味ではなく、下へ進むにつれふわりと広がるデザインは、ドレスのように煌びやかだ。

 袖がないことから、肩から先は細い腕を露出させている。筋肉の見当たらない二本のそれが男を殺せるようには見えないが、今日だけでも三百人近くの軍人をこの両腕で死に追いやっている。

 そして、右腕が掴む部位はイリックの首だ。

 あっけない。

 所詮、この程度。

 コネクトは私だけのもの。

 様々な感情をうねらせながら、その女は腕の力を強める。

 目の前の人間を殺すため。

 首をへし折るため。

 コネクトの所有者を減らすため。

 なんにせよ、やることは一つ、人間の殺害だ。

 イリックの首が締まる。

 青い炎が燃え移る。

 ゆえに、もはや助かる術などない。


「絶望の炎に抱かれて焼かれなさい」

(――ここからが勝負だ)


 一方は勝ちを宣言する。

 一方は戦いの始まるを謳う。

 この差もまた、二人の違いから生じている。

 ゾワリと噴出された圧迫感の正体は、神威のそれではなく少年から生まれ出た対抗策だ。

 途端、リインは思い出すと同時に思い知る。この人間をすぐには殺せない。そういう手段を持ち合わせた憎き宿敵だと、以前にも痛感した記憶がどっとあふれ出る。


「インビンシブル……」

「正解。さぁ、これで同じ条件だ」


 リインは一旦腕を引っ込める。青い炎も意味を成さないため、消し去る他ない。

 この瞬間、イリックの発言通り、両者の立場は同等だ。

 不老不死の女。

 時間制限はあるが無敵の男。

 ここから一分間は、どちらも決して死なないため、決着などつくはずもないのだが、戦いの勝敗なら決することはできる。

 この国を覆う、禍々しくも神々しい重圧の消滅。

 そのための手段が、発生源の殺害だ。すぐに再発動されるだけかもしれないが、その隙間をぬって活動できる超人が六人も集結している。

 イリックの仕事はそこまでだ。裏を返せば、その段階までは自分の手で達成せねばならない。

 本来ならば不可能だ。今のリインは団長達をも凌ぐ実力に至っている。彼らに劣る冒険者がどうこうできる相手ではなく、逃げることすら不可能だ。

 独りでは敵わない。

 一人の力ではどうすることもできない。

 だからこそ、問題ない。

 その魔法が、三人と手を取り合うことを実現してくれる。

 コネクト。他者との絆を力に置換する魔法。これを発動させることで、所有者は様々な恩恵を受けられる。

 インビンシブル。アジールが将来習得するこの戦技は、あらゆる攻撃から使用者を守る究極の防衛能力だ。盾役の彼女が宿ったようなこれは、一分間のみのタイトなスケジュールを要求するものの、使い勝手は他を寄せ付けない。

 ゆえに、戦える。

 互角以上の戦闘が可能となる。

 もちろん、まだ足りない。相手は奇襲以外の攻撃を受け付けない反射神経と、自身を上回る速度を実現しているからだ。

 だからこそ、残りの二人にも手を貸してもらう。見守る彼女達の吐息を身近に感じながら、少年はここからの一分間に全てを出し切るつもりでいる。


「覚悟しろ」

「小生意気」


 そして、二人は爆ぜる。

 防御を捨てて良いのだから、イリックの攻撃は一撃一撃が必殺だ。肉体への負担を考慮せずに繰り出される打撃は地面を陥没させ、筋肉や筋が千切れそうな疾走はリインの動きを捉え続ける。

 だが、速力は未だにリインが上だ。地盤の質が違うのだから、付け焼刃の加速では溝を埋めきれない。

 何より前提が異なる。

 イリックは一分以内に相手を殺さねばならない。

 リインは一分間、逃げ続ければ良い。

 この差が存在する以上、両者の戦闘スタイルがかみ合うはずもなく、少年が望む攻防は成立しない。

 そんなことは百も承知だ。イリックは冒険者らしく知恵を絞ることで対策を打つ。


「ちょろちょろと逃げ回りやがって」

「インビンシブルが解除されたら殺してあげる」


 至極まっとうな方針だ。この戦技が稼働している間は、逃げ回ることが得策と言える。近接戦闘の心得がほとんどないリインですら、その程度のことは十分理解可能だ。

 その結果、イリックは大事な時間を無為に消耗させられているのだが、この状況は想定の範囲内ゆえ、次の手を講じる。


「オムニシエンス」


 みなぎる魔力が具現化し、水の槍が二本、イリックの頭上に生成される。

 魔力も、魔法も仲間の一人、ロニアのものだ。コネクトにより繋がったことで、貧相な魔力は人間を超越したレベルにまで増幅される。

 だからこそ、この魔法はあらゆるものを貫き、切断することが可能となる。

 穂先がねじれている一本目は、その部位が轟々と燃えており、水製ゆえに蒸発してもおかしくはないのだが、魔法の神秘がそれを否定する。

 二本目はシンプルかつ愚直な見た目をしており、先端が凍っていることを除けば極々ありふれた槍そのものだ。

 イリックの右手には水の剣。

 頭の上には二本の槍。

 この状況、どちらが不利かと言えば、当然リインだ。

 攻撃が勝利に繋がるイリック。

 逃げることしかできないリイン。

 時間が限られているからこそ、裏を返せばその間は優位に立てる。

 対戦相手の手数が増したことと、この魔法のやっかいな特性がリインの心をわずかに揺さぶる。

 オムニシエンスが作り出す武器は、どれも超常的な破壊力を秘めている。リインですら粉砕することが可能なのだが、問題はそこではない。

 発射された後の速度があまりに速く、超人ですら回避を困難とさせる点が女の眉を歪ませる。

 手足の一本、二本が欠損しようが、リインには関係ない。瞬く間に生やすことができるのだから、損害は軽微だ。

 しかし、その瞬間ないし直後には隙が生じてしまう。

 とりわけ、今は左手だけは死守しなければならない。

 そういった背景があるからこそ、ここからは彼女もあらゆる手を講じる必要がある。

 先ずは同質の物体を引き寄せる能力だ。イリックを観客の誰かに突っ込ませることで、一分間を消耗させようと企てる。

 しかし、失敗だ。インビンシブルはそれすらも受け付けない。いかに神から授かった能力であろうと、戦技という神が作り出した仕組みを書き換えるには至らない。


「くらえ」


 イリックは二本の武器を発射する。わずかに引っ張られたような気がしたが、体は微動だにしなかった。そういうことなら攻撃の手を止める理由はない。

 そのために生み出された水色の槍が、獲物目がけて突き進む。

 リインが臆する通り、その速力は発射した本人ですら目で追えない。遠方から眺める軍長達も、目を疑うほどだ。

 空気を貫き、風を粉砕しながら進む一本目は、主から指令を出された次の瞬間にはリインの胴体をかすめ、その余波だけで彼女の右腕を消し去る。

 そう。リインは超人的な反射神経と光のような速さでギリギリの回避を実現してみせる。完全には避けられなかったが、腕一本で済んだのなら上出来だ。

 だが、槍は一本だけではない。間髪入れず撃ち込まれた二本目が、今度こそ死という概念を突きつける。


(よし! ……え?)


 イリックは二つの事実に驚かされる。

 リインは二本目を避けられず、首から上を完全に失う。穂先が顔より大きいわけではないのだが、その威力は周囲の肉を巻き込んで消滅させる。

 頭部と右腕を失った肉体は、それでもなお、二本の足でぐっと直立を維持できている。死んでもなお、死んでいないということになる。

 これが一つ目だ。

 二つ目の理由、どちらかと言えばこちらの比重が大きいのだが、リインの殺害に成功したにもかかわらず、神威が継続している。

 つまりは、予想が外れた。方針が誤っていたということになる。

 この事実、先ほどまで戦っていた者なら既に周知の事実だ。

 マッカスは数えきれないほどこの女を葬っている。しかし、インターバルをおかずに活動を続ける不死身具合には苦戦を強いられた。

 バラバラにされようと、意思を保って言葉を発していたのだから、生命活動の停止を完全に克服したことになる。

 だからこそ、神威は解除されない。

 冒険者の勘が外れてしまったことになるが、イリックは戦闘を継続せねばならず、何よりまだ何も諦めてはいない。


(残り時間は……、半分ってとこか)


 つまり、無敵でいられる時間は三十秒程度だ。イリックの余命とも置き換えることができるが、なんにせよ、この時間を無駄にはできない。

 リインは顔を失っている。光と音を完全に遮断されているのだから、追撃するならまさしく今だ。

 イリックは右手の片手剣を強く握り直し、いくらか離れた距離をいっきに詰める。

 一度や二度の殺害程度では足りないのなら、それ以上をプレゼントする。方針をそのように変更し、そのための剣撃を首のない女へ打ち込むため、迷いや動揺といった感情は軍区画のわびしい大地へ投げ捨てる。

 リインは視覚も聴覚も失っている。だが、それ以外の方法で人間の接近を感知することが可能だ。

 これも神からの贈り物ゆえ、第三者が知る由もなく、リインの左肩から胴体を断絶させるはずだった水の刃は無人の空間で空振りに終わる。

 この瞬間、イリックは思い知る。


(この女、ただの不死身じゃない!)


 十分だ。

 もう満腹だ。

 これ以上の情報提供は必要ない。

 リインは三百年以上の時を生きる不毛な放浪者ではなく、何かを背負った上でそれに突き動かされている。

 神を信じない少年ですら、もはや疑う余地などどこにもない。

 決して遅くはない斬撃は、ひらりと後方へ跳ねられてやり過ごされてしまった。普通なら仕方のないことだ。リインの身体能力はそれほどまでに高く、正面から勝負を挑めばイリックでさえ返り討ちにあうだけなのだから。

 しかし、今は目も耳もそこにはない。顔すらまるまる消え去っているのだから、この現象をどう説明すればよいのか、誰にもわかるはずがない。

 あまのさかて。常に発動し続けるこれは、人間の殺意を視覚や聴覚に頼らず感知することが可能だ。ゆえに戦闘中は、相手の姿を視界に捉えずともその居場所を把握することができる。

 それだけではなく、その人間が過去に犯した過ち、つまりは殺人行為についても見破ることができてしまう。

 イリックはリインに殺意を抱いている。決して隠せないそれが仇となっているのだが、この感情を制御しながら戦うことなどできるはずもなく、そもそもこのからくりは露見していないのだから、対処方法など見いだせるはずがない。


「もうすぐ終わり。あなたの命も、ここの人間達も」

「ま、まだだ!」


 動揺するイリックをあざ笑うように、リインの顔が急激な細胞分裂によって復元される。右腕はまだ戻らないが、時間の問題だと誰が見ても明らかだ。

 目的を果たせないのだからイリックの負けは確定している。

 それでも諦めない理由は、全てを出し切っていないことと諦めたくないからだ。

 この女には負けたくない。

 この女には負けてはならない。

 そう思えてしまうのだから仕方なく、少年は奥の手を披露する。


「その魔法にも慣れてきた。次は当たら」


 リインの自信に満ちた発言は、背後から右脇腹を蹴られたことで中断させられる。

 誰が成したか。当然、イリックだ。

 誰もが目を見張るその速度は、この少年一人の力では到底成し遂げられない。


(あの人間くらい速い?)


 リインは地面に激しくこすられながらも、最終的には体勢を立て直し、自分を蹴った男を探す。

 自分達が先ほどまで立っていた場所には見当たらない。完全にもぬけの殻だ。

 では、どこにいる?

 目で見つけられないのなら、殺意で探す。

 手段を変えたことで対戦相手の居場所を突き止められたが、その瞬間には水の刃によって顔が縦にさばかれてしまう。


「――戦技」

「アサシンステップ」


 片手剣は背後から突き入れられている。リインは二度にわたって背後から攻撃されたことになるのだが、イリックの自力ではそこまでの芸当はできない。

 足りないならば、力を借りるまで。コネクトという神秘がそれを可能としてくれる。

 十秒間という非常に限られた時間だが、インビンシブルの効果時間もその程度しか残っていない。

 最後の悪あがきかもしれないが、それならそれで全てを出し切るまでだ。

 イリックは自分を奮い立たせ、がむしゃらに相手を痛めつける。

 斬る。顔に続き、体を何度も斬りつけていく。

 殴る。左手は空いているのだから、ウェイク流の戦い方を実践するまたとない機会だ。打撃が通用するとは思えないが、斬ってだめなら打撃を試すしかなく、つい先日、そういうモンスターを討伐したばかりだ。

 蹴る。高まった移動速度がリインの回避を追い越してくれる。スカートに隠れた脚を蹴り飛ばし、骨を砕くことで一時的な行動遅延を狙う。

 そして、不気味な違和感がイリックを襲う。


(なんだ? 何がしたい?)


 わからない。わからないが一つだけ不思議なことがある。

 イリックは相手の全身をくまなく攻めているのだが、どうしても傷つけられない部位が一か所だけ存在している。

 左腕だ。

 黒いワンピースの肩口から伸びるそれは、防御にも攻撃にも活用されない。いかに相手が鉄壁の防御を実現しているとは言え、腕を掴み、攻撃を阻害することは可能だ。

 イリックとしてもそれを警戒せねばならず、大胆さの中にも慎重さを見失ってはいないのだが、細いその腕はいっこうに使われない。

 それどころか、上半身で左腕を庇おうとしているのだから、冒険者の感性をもってしてもこの状況は理解の範疇を越えている。

 ぎゅっと握られた左手が、イリックの視線を誘い込む。

 相手を殴るための拳ではないことは明らかだ。そうするチャンスは何度もあったが、一度も攻撃に転じることはなかった。インビンシブルが発動しているがゆえに、無駄な行為だと諦めた可能性は捨てきれないが、それなら自分の命よりも大事そうに庇う理由が説明できない。


「……何を隠し持っている?」


 そう問いかける以外に知る術はない。戦闘中にも関わらず、不自然に握られた拳の理由を知るために、攻撃の手を止めてまで話しかける。

 何かを握っていることはもはや明白だ。それ以外には思いつかない。

 だが、それが何なのかはわからない。

 遅れて駆け付けたからこそ、わからない。

 ゆえに、質問を投げかける。

 リインが何を所有していようが興味などないが、今は確認せざるをえない。

 そして、二人は立ち止まる。

 傷だらけの女はじわじわと傷とドレスを修復させながら、少年の瞳をじっと見返す。本来ならば答える義理などないのだが、返答は時間稼ぎとしても有意義だ。

 対戦相手の戦技はもうじき効果を失う。アサシンステップはこのやり取りの最中に失効され、厄介なインビンシブルもそろそろだ。

 一分が過ぎ去れば、この人間を殺せる。圧倒的な力で他者を葬ってきたリインとしてはらしくない企てだが、イリックという冒険者はそれほどに厄介だ。

 奇妙な縁を強要されたが、見えない線をここで断ち切る。そのために、演じるようにそっと左腕を差し出す。


「エムム遺跡の施錠を開く鍵」


 広げられた左手の上には、小さな丸い輪が鎮座している。

 美しくも妖艶は紫色と、何よりその造形には見覚えがあるため、イリックは驚きと共に目を見開くことしかできない。


「……なんでおまえが持ってる?」

「もらった」

「ふざけるな」

「奪った」


 その返答がイリックの思考を澱ませる。

 本来の持ち主は仲間の一人、アジールだ。自分がそう決定したのだから、忘れるはずなどない。

 ライトニングリング。雷の大精霊から譲り受けたこれは見た目こそ綺麗なだけの指輪だが、本質はリインの述べる通り、古代人の遺した施設とペアとなるマジックアイテムだ。

 仲間がこれを敵対しているリインに譲るはずなどない。そもそもの前提として、この女の手に渡ることを阻止するために自分達が先んじて入手したのだから、茶化されてもおもしろくない。

 奪った。この発言を事実と受け止め、イリックは恐る恐る仲間達の方へ振り返る。そう誘導したのだから当然だが、自分達と彼らの距離は随分と離れており、本来ならば表情の確認すらも困難だ。

 だが、イリックは冒険者だ。妹ほどではないが、その視力は常人のそれよりも優れている。

 目を凝らせば十分だ。仲間の心配そうな顔も、軍人達の驚く顔も見て取れる。

 今、注視すべき場所は長身の女性、アジールだ。ロニアの隣に立つ彼女は、一見すると普段通りに見える。

 髪は茶色。顎の下まで伸びており、肩には届かない長さを今日も維持してある。

 身長は高く、隣に立つロニアのてっぺんが彼女の鼻、口付近と横並びだ。

 銀色の鎧は新品のように輝いており、返り血のようなもので赤く汚れていることから、戦闘の激しさを物語る。

 そう。違和感はいくつもある。

 先ず、武器を携帯していない。刃が幅広なブロードソードが、右手か背中に見当たらないという事実が奇妙だ。

 次いで、片手剣よりも大事な盾が見当たらない。否、探せばすぐに見つかる。

 ネレネン王国から贈呈してもらったセンチネルシールドは、青い色が目立つことから視野を広めることでその所在を確認できる。

 場所は集団から少し離れた地面、落としたように転がっている。

 アジールの現状を示すもっとも不気味な点は、鎧を汚す鮮血だ。出血量の多さを裏付けるそれは、左腰から下を赤く染めあげている。

 リインと戦ったのだから、多少の傷は仕方ない。イリックはそう推測するも、思考をかき乱す焦燥感はぬぐえない。

 背後には宿敵が立っているにも関わらず、じっと仲間を凝視する。どんな攻撃をもはねのける今だからこそ可能な芸当だが、その時間は残りわずかだ。

 そして、イリックの思考は完全に停止する。

 気づいてしまった。

 やっと気づくことができた。

 何もかもが手遅れだが、仲間の実情を把握できた。

 左手が存在しない。手首から先が切断されたかのような断面は、魔法によって傷口が塞がっていることから流血せずに済んでいる。

 誰の仕業かなど考えるまでもない。ライトニングリングを所有している女こそ、アジールの左手を奪った犯人だ。

 なぜ、こんなことに。

 真っ白になった頭で考えるを巡らせるも、答えは既に提示されている。

 指輪を奪うためだ。

 つまりは、その重要性を承知の上で、もしくはそうでなかろうと関係なく、左手の薬指で面妖な光を放つそれを入手するため、手首こと略奪したことになる。

 鎧を汚す出血量が物語る。迅速な処置を施されなかったため、流血が長引いた、と。

 イリックはその理由を予想する。

 ロニアや他の後衛回復役がその場にいなかったから。

 もしくは、手首を奪取してから回復魔法を試みようとした。

 正解は後者だが、どちらにせよ、思惑通りには進まなかったと現状が物語っている。


「――アジールさんの左手はどこだ?」

「燃やした」


 イリックの声は震えている。冒険者という稼業に身を置いている以上、身体欠損の危険性はついてまわる。だからといって許容できるわけではなく、何より実行犯はモンスターではなく意思疎通が可能な人間だ。

 指輪を入手するためだけに。この事実がどこまでもイリックを苛立たせる。

 指から外すだけでよかっただろう。

 手首だけは返却すべきだった。

 そういった主張を吠えたいが、時既に遅い。アジールのそれは燃やされ、塵一つ残っていないのだから、もはや取り戻すことは不可能だ。

 激しい戦闘が突然停止したことで、そしてイリックがじっとこちらをうかがっていることから、仲間達と軍長達は不思議そうにその様子を見つめ返す。

 二人が時折会話を交わしていることは遠目からでも明白だ。しかし、その内容まではわからず、アジールに関しては自分が見つめられていることすら飲み込めていない。

 だが、イリックの珍妙な行動は彼らを不安がらせる。

 アサシンステップは効果を終え、切り札とも言うべきインビンシブルすらもはや時間切れ間際だ。

 何を話しているのかわからないが、今は戦いに専念すべきだろう。そう思う者も少なくなく、しかし、当の本人はそれどころではない。

 よもやこのようなことになっているとは露知らず、威風堂々と戦いに熱中した自分が恥ずかしくて仕方ない。

 その上、神威の解除には失敗し、戦技はいよいよ費えようとしている。

 情けない。

 リーダー失格だ。

 釣りに励んでいる場合ではなかった。

 救えなかった。

 そんな負の感情がイリックをざわざと支配する。

 本来ならば、この件に関して落ち度を感じる必要などない。港で釣りに励んでいたことは決して落ち度ではなく、リンダの発表会に間に合うよう出発するつもりでいたのだから、隙間時間を有効に利用していただけだ。

 それでも、イリックは自分を責める。リーダーとしての責任を感じると同時に、仲間を危機的状況から救うという責務を果たせなかったことが、少年の心をどこまでもかきまぜる。

 もっと早く出発すべきだった。

 釣りにいそしんでいる場合じゃなかった。

 定期船から降り立った軍長達の後を追うべきだった。

 悩んでも仕方ないのだが、今はうじうじと思考を循環させてしまう。

 その結果、ついにその戦技は制限時間を迎え、主を守るという役目を終えようとする。

 イリックから発せられる威圧感は視認できない。それでもなお、肌を刺すような、目の前に立ちはだかるような何かが感じられることから、周囲の人間はその凄みに後ずさりさえする。

 それが、この場からスッと消滅する。

 インビンシブルが一分間の効果時間を終えた瞬間だ。

 待っていた。

 リインはこの瞬間を待ちわびていた。

 やっとこの人間を殺せる。

 イリックという名前の人間を葬れる。

 数奇な処遇同士ということから、先日名前を覚えたが、明日には忘れてしまっても良さそうだ。

 今から殺すのだから、明日には意味を成さない単語に成り下がるのだから。


「コネクトに、いえ、神に選ばれたのは私だけのようね」


 リインはそう信じたい。仮にこの言説が間違っていようと、自分の実力で真実に変えるつもりだ。

 創造主たる神は人間に二つの力を授ける。

 戦技と魔法。

 ペアでもなければ、同質の能力でもない。

 神秘という意味では同種だが、その性質は突き詰めるほど別種だ。

 コストを必要としない戦技と必要とする魔法。

 詠唱を必要としない戦技と必要とする魔法。

 連発できない戦技とできる魔法。

 共通点と言えば、それぞれが多岐に渡ることくらいだ。

 攻撃。

 防御。

 強化。

 弱体。

 回復。

 人間はこれらを用いることで、モンスターという外敵を排除し続けている。

 モンスター。昆虫や動物、はたまた無機質や人間にも似た姿を持つそれらもまた、戦技や魔法を駆使する。

 ゆえに、人間の多くはこの二つが神からの授かりものだとは思っていない。

 もしそうだとしたら、なぜ神はモンスターにも与えたのか、これっぽっちも理解できないからだ。

 だが、リインは完全に近い形で理解している。

 戦技と魔法は、二人の神が作り出した神秘そのものであり、親が子に与えるように、神が人間に授けたものだ、と。

 モンスターも使える理由まではわからない。興味すらない。

 大事なことは、人間は神に作られ、今も見守ってくれているということだ。

 その証拠がコネクトだ。

 これは現存する魔法の中で、最も新しい発明品だ。

 ゆえにその性能は最先端に相応しい最高峰を有している。

 作られた理由も既に予想はついている。

 人間の抹殺を早めるための新たな手段。

 そして、神を信じた者へのご褒美だ。

 リインはイリックよりもある意味で真実に近づけている。同時に、決定的に誤っている点もあるのだが、そんなものは盲目的な信仰心の前では些末な問題だ。

 この力を独占するために。

 神の願いを叶えるために。

 何より、気に食わないから。

 リインはゆっくりと歩みを進める。

 真っ赤なコートをまとった背中は、今なお動くことなく対戦相手に向けられている。隙だらけだが、仮に戦闘態勢を保っていようともはや関係ない。

 アサシンステップとインビンシブル無き今では、この人間など殺し尽くした軍人に毛の生えた程度の存在だ。

 勝ち誇るように。

 満足そうに。

 使命を果たせる喜びを胸に。

 殺意と寒気と畏れと憎悪と妬みでこの国を覆いながら、赤い瞳は少年の心臓に狙いをつける。


「畏怖の念を抱いて滅びなさい」


 これが最後の言葉だ。

 別れの挨拶にしては物騒だが、両者の関係からすれば正しいのかもしれない。

 さようなら。そう言い合う間柄でもなければ、仲睦ましく談笑する知人ですらない。殺すか殺されるかを競い合う二人にとって、本来ならば言葉など不要だ。

 コートを突き破り、背骨を粉砕し、心臓を掴む。

 相手の背後に立った今、リインは至極簡素な一連の行為を開始する。

 イリックの心臓を抜き取るか、体内で潰してしまうか、そこまでは決めていない。そんなことは暖かな体温を堪能しながら考えればよい。

 再生したばかりの右腕が、前ならえのようにすっと始動する。腕を伸ばしきる前に到達する距離だ。避けられるはずもない。

 そう。今のイリックにはどうすることもできない。アサシンステップを使えたとしても、与えられた時間はあまりに短く、まばたきの猶予すらない。大人しく命を差し出すことが唯一与えられた選択肢だ。

 仲間達はリーダーの危機を察知しており、競うように走り出している。駆け付けたところで何ができるわけでもないが、アジールのウォーシャウトが間に合えば一時的な時間稼ぎにはなる。

 だが、それすらも届かない。戦場はまだまだ先だからだ。

 イリックは背後の殺意を気にもせず、この事実を受け入れ続ける。同時に拒絶し続ける。

 この事実。つまりは、アジールの左手首が失われたことだ。

 回復魔法では復元できない。部位が残っていればチャンスもあったが、それも既に燃やされている。

 指輪が欲しいから。重要なことかもしれないが、イリックにとっては受け入れがたいちっぽけな理由だ。

 女が背後で何かを言っていたが、そんなものは聞こえない。届いてすらいない。興味すら抱けない。

 今は淡々と自分を責め、仲間の今後を嘆き、そして、諸悪の根源を憎む。

 そう。イリックは愚かな人間ではない。

 誰が悪いかなど、きちんと理解できている。

 間に合わなかった自分にも責任はあるのかもしれないが、事の発端は、そして根本の原因はこの女だ。

 リイン。

 怒りをぶつける相手。

 憎むべき相手。

 許せない相手。

 理解できない相手。

 怒鳴りたい相手。

 そして、殺さなければならない相手。

 だが、このままでは殺される。

 殺される。

 誰が?

 誰に?

 そんなことはわかりきっている。

 背後の女は俺に殺される。

 ここがお膳立てされた舞台の上であろうと、自分達が操り人形であろうと、そんなことは構わない。

 この感情は紛れもなく自分のものだ。奥底に潜む、無条件な苛立ちは植えつけられたものかもしれない。

 それでもなお、その上にべったりと張り付く衝動は揺るぎなき本物だ。

 真実か偽者か。それをこれ以上問うことは不毛だとわかっている。そんなことをしに駆けつけたわけではないのだから、今はやるべきことをしなければならない。

 このままでは殺される。

 先ずはこれを否定しなければならない。

 そして、リインの所業も根絶すべきだ。

 そのための力はない。

 そのための力はなかった。

 この二つは根本から異なる。似ているかもしれないが、全く似ていない。

 今のイリックは、秘蔵の戦技を二つ使い切っている。

 残された手札は以下の通りだ。

 デュアリズム。ネッテの戦技。

 ウォーシャウト。アジールの戦技。

 オムニシエンス。ロニアの魔法。

 どれを行使しようと、この状況を覆すことはできない。頼もしい能力には違いないが、今は使いどころではない。

 では、どうする?

 考えるまでもなく、本能と体は既に気づいているのだから、それに身を委ねるだけだ。

 コネクト。少年が宿した神秘は、段階的に成長する奇跡の魔法だ。

 第一段階、他者との接続および戦技と魔法の共有。

 仲間や知り合いと交流を深め、かけがえのない絆を紡ぐことでコネクトの使い勝手は格段に向上する。

 再使用時間の短縮。

 戦技と魔法の使用を可能する効果時間の延長。

 これらの特性は魔法の常識からはかけ離れており、使用主はそれほど驚きはしなかったが、見識ある者ほど耳を疑う。

 だが、事実だ。

 そして、この魔法はそれだけではない。

 コネクト発動時の時間操作もまた、使用者毎に異なる現象を体現させる。

 イリックは三秒間の時間停止が可能だ。この間は自分だけが動けるため、一対一においては無敵を誇る。

 ネレネン王国の王、ロメロンは時間の遅延を実現する。スローモーションと呼ぶにはあまりに遅すぎる進行具合から、イリックのそれと同様のことが可能なものの、分類としては似て非なる。

 リインは一秒おきに一秒間の時間停止を行う。合計十回、すなわち累計で十秒間の時間停止を可能とするため、男二人よりも優秀かつ凶悪だ。

 過去に類を見ないこれら能力は、コネクト本来の性質とは関係なく、言わば副産物のようなものだ。

 絆と時間操作。全く異なる二つだが、実は根底を共有している。

 絆とは、他者と他者を繋ぎ合わせる見えない糸だ。言い換えると、人間と人間を結びつける引力と表現できる。

 時間とは、どこであろうと均等に進行する絶対普遍な概念と思われているが、実は間違いだ。ある状況下では遅延するのだが、それはウルフィエナの地上では見受けられない。裏を返せば、他の世界や遠い場所では見つけられる。

 生き物がその形を保てないほどの桁違いな重力下では、時間はそれに引っ張られるようにゆっくりと時を刻む。

 つまり、時間もまた、引力に左右されてしまう。

 コネクト。絆を力に変える魔法。他者と他者を引き付ける現象が、副作用として時間にまで影響を及ぼすことから、発動時に時間操作という現象が発生する。

 神からの贈り物としては最大級の秘術だろう。

 それを手にした男と女は、互いの存在を許せないため、殺し合う。

 独占するためでもなければ、その力を脅威に感じるからでもない。

 相手を、正確には異性の同業者を許せない。

 そう。イリックとロメロンは共感し合うことが可能だ。

 一方で、二人はリインを排除したい。

 当然だが、リインもそれは同様だ。

 コネクトは人間と人間を絆という呪縛で拘束する。それが力に変換されるのだが、用意された好敵手とも引かれあう性質をその奥底に秘めている。

 その結果がこれだ。

 イリックは敗れる。

 リインは勝利を掴む。

 否。少年はそれを否定することから始める。

 この女が憎いため。

 自分の命を守るため。

 そして、仲間を守るため。

 コネクトは成長する魔法だ。

 第一段階では、仲間の力を借りることを可能とする。

 第二段階。この領域が少年に新たな力を授ける。今のリインにすら辿り着けていない段階へ、先ず、イリックから足を踏み入れる。

 細く美しい右腕は、真紅のコートを突き破るはずだった。目の前の人間を殺すためのそれは、当の本人すら理解できぬまま空振りに終わる。

 そこにいるはずのイリックがなぜか姿を消したのだから当然だ。そうなって必然なのだが、その理由は誰にも飲み込めない。


(――どこ?)


 わからない。少なくとも、視界内に対戦相手の姿は見つけられない。遥か前方には軍人達が立ち尽くしており、冒険者三人がこちらへ向かって走り出しているが、その付近にも少年は見当たらない。

 転送魔法で逃げた?

 アサシンステップ以外の戦技で移動した?

 どちらも不正解だ。イリックは淡々と駆け、対戦相手の背後へまわっただけなのだから。


「ああととななんんかかいい」


 後何回。少年の低くない声は、録音された自分のそれと合わせて話すように重複している。

 途端、リインは寒気を感じながら、背筋を強張らせる。

 仕留めようとした人間がそこにいるからではない。

 おかしな話し方を実演しているからでもない。

 発せられる闘気が、どこまでも愛おしく、そして恐ろしいからだ。

 リインは知っている。

 そして、知らない。

 この感覚は自分がもっとも憧れ、崇高し続けた存在を匂わせる。否、まさしくそのものと言っても過言ではない。

 神性。この世界において彼女だけが独占すべき威厳と威光が、どういうわけか背後から感じ取れる。

 ゆえに、リインと言えども動揺を隠せない。


「こころろせせばばいいいい」


 殺せばいい。

 後何回、殺せばいい。

 おまえを倒すためには、後何回死を与えれば、そのカウントをゼロにできる。つまりはそういうことだ。


「何をし」


 リインは一度に三つの行動を始動させる。

 一つ目。何をしたの? そう問いかける。

 二つ目。左回りに振り返る。どうやったかは不明だが、相手は後ろにいるのだから、その姿を視界に捉えたい。

 三つ目。勢いを活かし、右腕を尖らせ、男の体内に突き刺そうとする。疑問の答えは得られないかもしれないが、最優先は抹殺だ。

 だが、そのどれもが失敗に終わる。

 口が質問を言い終えるよりも先に、すなわち左回りの反転が完了するよりも前に、右腕が相手の体を捉えることもなく、彼女の頭は髪の上から押さえつけられ、そのまま地面に叩きつけられる。

 途端、肌色よりは茶色い大地が鈍い音を鳴らし、花びらが咲いたように真っ赤な鮮血が周囲に飛び散る。

 リインの頭が潰れ、爆ぜたからだ。それを実行した人物こそ、コネクトに選ばれし少年であり、体からは湯気のような何かがゆらゆらと噴出している。

 イリックは続ける。どちらも相手の問いかけに答えるつもりなどなく、そうである以上、やるべきことは明白だ。

 イリックは殺し続ける。

 ガツンガツンと鳴り続く騒音は、リインの頭が固い地面に叩きつけられているからだ。

 彼女の頭部が硬度としては勝っていようと、そんなことは関係ないと主張するように、イリックは掴んだ頭をわずかに持ち上げては、すぐさま大地に押し付ける。

 頭蓋骨は割れ、脳は損傷し、顔に至っては原型など留めてはいない。

 音が鳴り響く度に、彼女の命は減少する。単なる負傷などでは済むはずもなく、ひび割れた地面が彼女の命の源泉を吸い尽くしていく。


「これは」

「何じゃ?」


 二人の軍人は目を疑う。

 水よりも儚い色の軍服をまとうルードリッジは、一瞬の出来事を見落とすことなく、しかし、自分よりも素早い動作に唸ることしかできない。

 誰よりも巨体な持ち主、ザザは冒険者の変貌っぷりがただただ不思議だ。この場で唯一、イリックの動きを追うことができたのだが、だからといってそのからくりまでは理解できない。


「私見えないのよね~」

「あいつらにケツ向けてるからな」


 ミーズは同僚から借りた黒い軍服を裸体の上に羽織っている。だが、下半身は下着すらつけておらず、冷たい風に晒されっぱなしだ。

 彼女の目の前には血まみれの地面にうつ伏せで倒れているマッカスがいるのだが、イリック達の戦いを眺めるとどうしてもミーズの下半身が視界に飛び込んでくる。

 三十代とは言え、その肉体は若々しく、本来ならば喜んでしかるべきだが、この男は既婚者な上、相手は異性として見れない同期なのだから最悪な状況だ。


「今の動きが彼の本気ですか?」

「そういうことになるな。知ってるか? あいつ、ウェイクを追い詰めたことがあるんだぜ」


 クルトは上着を貸したことで上半身は白い薄着だが、赤い眼鏡ごしの眼光は鋭く、軍長として冷静に戦況を分析する。

 イリックについて詳しく知っているわけではないが、それなりに有名な冒険者ということから、その実力にもある程度は納得ができた。

 しかし、リインを押し倒した動きは自分ですら対処できないほどに速く、口ぶりとは対照的に心の中は誰よりも驚いている。

 マッカスは知っている。仲の良い同期であり、同じ軍長のウェイクからネレネン王国での土産話をたんまりと聞いたからだ。

 武神祭。一年に一度開催される傭兵達の宴において、今回はトリストン大陸からの客人が二名参加する。

 軍人のウェイク。

 冒険者のイリック。

 どちらもその国にとっては異彩であり、同時に未知数の参加者だった。

 前評判は早々にどちらも敗退すると思われたが、結果は全くの逆だ。

 両者が最後まで勝ち上がり、前回優勝者と戦うためのチケットを奪い合ったのだから、当事者達は狼狽する他ない。

 その試合において、ウェイクはイリックの本気を引き出すためにある程度の手心を加えながらも、その上で本気を出す。

 コネクトを駆使することで一対一という条件下では部類の実力を発揮できるイリックだが、圧倒的な実力差を覆すには至らず、ついには追い詰められ、敗れ去ってしまう。

 二人にとっては順当な結果かもしれないが、勝者は大いに肝を冷やし、帰国後、その出来事についてマッカスにぼやく。

 あいつにはまだ先があるぞ。

 野生的な性格ゆえ、分析など一切できておらず、それでもその本質を十分に見抜いた一言だ。

 イリックには、正確にはコネクトには次の段階が存在しており、武神祭での戦いにおいてわずかに漏れ出たのだが、それ以降はすっかり鳴りを潜めていた。

 コネクトの使用者本人すらほとんど自覚できていなかったのだから仕方なく、危機的状況はその後も何度かあったのだが、この領域を必要とせずとも状況を打開できていた。

 だが、今回ばかりは必要だ。神に選ばれ、神の最高傑作を手にしたリインを前に、イリックは明らかに実力不足だ。

 生きるために。

 守るために。

 倒すために。

 紡いだ絆が彼の背中をそっと後押ししてくれる。


「だ、大丈夫そうね……」

「ふおぉ~、すごいすごい!」

「あれは……」


 三人の仲間は足を止め、三者三様の反応を示す。

 ロニアは豊満な胸にそっと右手を添える。追い込まれたリーダーが逆転してくれたことがうれしく、安堵の息も自然とこぼれてしまう。

 左耳の後ろで束ねられた長い髪を揺らすネッテは、満面の笑みでピョンと跳ねる。兄のやっている攻撃はむごたらしいが、そういうことに免疫があるため、この少女はこの光景を前にしても無邪気でいられる。

 アジールの反応だけは別だ。喜んではいるが、それ以上に頭が冴えわたってしまう。イリックの変貌具合がそうさせるのだが、ガラリと変わったこの雰囲気には見覚えがあるため、記憶の糸を手繰り寄せる。


「武神祭でも少しだけ見せた戦技もどきよね?」

「多分、そう……」


 ロニアの聡明な頭脳をもってしても、この現象には綺麗な説明文を用意できない。本人ですら飲み込めていないのだから当然だが、その根幹はうっすらと理解できている。

 アジールもそれは同様だ。

 イリックが不思議なことをやってのける場合、必ずその魔法がついてまわる。

 コネクトだ。

 これが宿主に何かをもたらしている。そう考えることは自然であり、それ以外は不自然だ。

 命が砕かれる音は止まない。小刻みに鳴り響くそれは、頭の再生と破壊によってもたらされている。

 当然だが、死してなお、活動を停止しない今のリインが抵抗をしないわけもなく、頭を強制的に上下させられながらも、後頭部を掴む男の右腕には掴みかかっている。

 だが、外せない。

 外れない。

 砕くことも折ることもできない。

 ゆえに、顔面を何度も打ち付けられているのだが、抗おうとしても圧倒的な腕力差が継続を許可してしまう。

 死ぬ。

 死ぬ。

 何度も死に続ける。

 顔面は潰れ、眼球や鼻は残骸すら見当たらない。前歯は失われており、奥歯だけがかろうじて残っている状態だ。

 殺す。

 殺す。

 動かなくなるまで殺し続ける。

 もはやこの女の生存を受け入れることはできず、不死身の原理が確定した今、少年はマジックポイントを絶つために繰り返し頭蓋骨を破壊し続ける。

 リインの体は痙攣するように揺さぶられ、細い腕で健気にもがき続ける。その姿は完全に敗者のそれだ。

 乾いた大地は陥没し、生き血をすすり続ける。軍人達の血だけでは足りなかったのか、もしくは不死者の鮮血は美味なのかもしれない。

 空気を震わせる怒号が響く度、女の命は一つ減少する。

 カウントダウンが終わりを告げるタイミングはわからない。イリックにはわからない。

 残量を把握できているリインだけが知りえる情報だ。他人に口外すべき事項ではなく、それでも確定していることが一つだけある。

 自身が死を迎える度に、魔法を放った時以上の消耗が発生している。

 リインのマジックポイントは人間を遥かに上まわっており、膨大な容量を保持するモンスターでさえ、彼女の前では貧相だ。

 だが、存命を実現するための減少量は、強力な上位魔法すら足元に及ばない。

 十回、二十回の死では微々たる程度だが、軍長達との攻防で彼女はそれ以上に殺されている。

 そして、イリックもまた、彼らと同等の死をこのやり方で達成済みだ。右腕を上下させるだけで容易く殺せるのだから、カウントアップはどこまでも継続する。

 調子に乗るな。

 そう言い返したいリインだが、復元を上回る速度で頭部が破壊されるため、声帯を震わせることはできても発生には至らない。

 体をくねらせようと、右腕で男の腕を粉砕しようとしても、あらゆる行動が無駄な抵抗に終わる。

 そう。かたくなに左腕は使わない。

 大事な鍵を握りしめているのだから、攻撃には転用できないという事情があるのだが、その仕草がイリックに考えを改めさせてしまう。


「かかええせせ」


 返せ。それは俺達のものだ。

 ゆえに、優先順位を変更する。リインを殺し続けることも大事だが、先は見えないため、ライトニングリングの奪取を優先する。

 右腕は潰れたトマトのような頭を掴んだまま、暇を持て余していた左手で女の細い左手首をグッと握る。

 このままへし折ってもいい。

 地面にへばりつけながら、踏みつけ砕いてもいい。

 なんにせよ、目的は果たせるのだから手加減などせず、実行するまでだ。


「離セ!」


 頭部が前後しなくなったことと、左腕が掴まれたことで女は即座に察する。

 人間の目的が指輪に変更された、と。

 それだけはさせない。

 これだけは死守しなければならない。

 絶対に返却しない。

 この指輪は神が提示した宝物だ。エムム遺跡という中間地点を通過し、目的の場所に辿り着くための鍵な以上、あらゆる手を尽くしてでも持ち帰るつもりでいる。

 女性にしては擦れた声は、リインの叫び声だ。魂を震わせるほどの声量が周囲の空気を激しく震わせるが、男を怯ませるには至らない。

 ここからは代行者としてのプライドなどかなぐり捨てる。この人間を殺すためなら、そして指輪を守るためなら、そんなものは不要だ。

 イリックに向けられた壊れた顔、正確には全身が三色の膜で覆われる。

 白、黒、赤が混ざりながらも決して溶け合わないそれは、幻の強化魔法によって体現している。


「オーラまで使えるとはね~。報告書通りだが、常識って単語は奴の脳内には載ってないのかね~」

「フシュ~。久方ぶりに見るのう」


 ルードリッジは棒立ちのまま目を丸くする。本当なら黄色い髪をワシャワシャとかき乱したいのだが、神威の影響でそれはできない。

 ザザも思わず感心してしまう。この魔法はそれほどまでに珍しく、この国の軍隊でそれを習得している者はいない。

 オーラ。強化魔法の一つ。希少魔法と呼ばれる通り、使用できる人間は非常に限られる。効果は対象の身体能力全てを向上させるため、移動速度だけを高めるオーバースペックよりも優秀だ。効果時間は一分と短く、再詠唱には三分を必要とするため、二分間はインターバルが発生してしまうも、強化魔法の中では最も重宝される。

 高まった身体能力が、イリックを引き剥がすために行使される。何度殺されようと構わないが、左手に狙いをつけられたのなら話は別だ。

 死にながらも逆上し、魔法で己を強化したのだから、この男と対等に渡り合えると踏んで右手の握力を高める。

 後頭部を掴む右腕を破壊し、自由を取り戻してから殺し返す。そういう算段だ。

 これ以上は許さない。

 指輪だけは触らせもしない。

 イリックが自分と同質の、もしくはそれ以上の力を宿したという事実を否定するように、リインは怒りをあらわにしながら全身を震わせる。


「むむだだ」


 だが、通用しない。付け焼刃の強化など、今のイリックを前にしては全くの無意味だ。

 単なる強化魔法程度では、コネクトのさらなる領域にはこれっぽっちも近づけず、リインの顔面は再び地面へ押し付けられ、平らに圧縮される。

 途端、三色のオーラは消え失せ、誰の目から見ても彼女が死亡したことが見て取れる。もちろん、命の源泉はまだまだ残っているため、離れた右腕は再び動き始めるが、圧倒的な力量差は埋まらない。

 この事実はもはや明快だ。

 コネクトの第一段階しか知らない女。

 コネクトの第二段階へ踏み出せた男。

 その差は大きく、リインは不老不死な上、神から与えられた特異能力を所持しているが、その程度の要素では埋めきれない。

 そもそもの前提として、二人のコネクトは同じ魔法ではあるものの、その根幹は全くの別だ。

 リインは他者との絆を紡ぐことなく、コネクトの恩恵を受けている。

 イリックはかけがえのない縁を築き上げたことで、その恩恵を最大限享受している。

 そう。リインは完全にイレギュラーな状態だ。これは彼女だからこそ可能なのだが、それゆえに自力では第二段階に到達できない。

 今のままでは勝てない。

 だからといって、負けもしない。

 リインがイリックを殺せないように、イリックもまた、リインを殺せない。

 いかに相手を上回ろうと、不死身という特性ととある魔法の存在が、決着をいつまでも先延ばしにできてしまう。

 不死身の仕組みがマジックポイントによる命の肩代わりだと解き明かそうと、そのからくりを突破できなければ意味などない。

 ましてや彼女には、正確には二人共、テレポートを習得している。

 逃げ出すことは、いつでも可能ということだ。


「ううででごごととももららうう」


 腕ごともらう。

 イリックは左手に力を籠める。女の細い手首を握っているのだが、手っ取り早く握り潰し、左手および握られた指輪を奪い取る算段だ。

 そもそもこれは彼ら達の所有物だ。リインにだけは渡すわけにはいかず、この発言は残虐ではあるものの当然の主張と言える。

 だが、受け入れるか否かの裁量権は彼女も有している。


「次ハ絶対ニ殺ス」


 左腕の骨が潰れ始めるや否や、リインはどす黒い殺意を口から放ちながらもその魔法を詠唱する。

 それは一瞬だ。イリックが習得している魔法とは異なり、詠唱時間など無に等しい。

 今回は敗者という事実を受け入れる。死を乗り越えた自分にとって、敗戦は互いがどのような感情を抱くか程度の問題だ。

 憎い相手に殺されながら、反撃もままならぬまま逃げ失せる。滑稽かつみじめな惨状だが、主から提示された鍵を守るためなら致し方ない。

 大人しく受け入れる。

 殺意をほとばしらせながら、リインは自ら編み出した転移魔法を用い、手品のようにパッと全身を消失させる。

 この光景が観客達を安堵させる一方、イリックだけは冷静なまま、初めて目撃するそれを目で追うことしかできない。


(なんだ、これ?)


 先ほどまでリインが伏せていた場所に、うっすらと霧のような何かが留まっている。青い幻影のようなそれは瞬く間に四散するのだが、わずかな残骸は何かを追いかけるように細まりつつも東へ向かい、ついには消え失せる。

 イリックはその意味を即座に理解してみせる。


(もしかして、これが魔法の感知ってやつか?)


 正解だ。しかし、その精度は常人のそれを遥かに超越している。コネクトの第二段階がそれを可能としており、今のイリックが目撃したものは、リインのテレポートレムによる魔力の残滓そのものだ。

 すなわち、この女がどこへ向かったのか、今回に関してはある程度追跡できてしまう。


(あっちは東……。ガーウィンス? いや、エムム遺跡か!)


 この推測は外れだ。ひどく消耗したリインは、一先ずの帰還を目的に無人のヨアナ村跡を目指す。

 装置を稼働させるための鍵を入手したのだから、回復が済み次第、彼女はエムム遺跡へ向かうだろう。

 そういう意味ではあながち誤りでもないのだが、イリックが考えるよりは時間の猶予はあるということだ。

 そうであろうとなかろうと、今すぐ追跡できるかどうかは別問題であり、イリックは暫定勝利を手にしながらも、指輪を奪われたこととアジールの負傷を受けてこれっぽっちも喜ぶことなどできない。

 誰にも成しえなかったことをやってのけたのだから、素直に笑えばよいのだが、それ以上に今は体を襲う疲労が重く圧し掛かる。


「つつかかれれたた~。……ここれれななんんななのの?」


 ほう、と息を吐きながら、声の二重化に今更ながら驚いてしまう。武神祭でも同様の状況に陥ったが、あの時もかなり追い詰められていたため、あまり気にしなかった。

 今は完全に呆けており、敵が去ったのだから自身の変化も客観的に分析可能だ。

 みなぎる力。

 あふれ出る闘志。

 リインすら圧倒できる戦闘力。

 初めてコネクトを使用した時を彷彿とさせる。もしくはそれ以上だ。

 そして、今思うことは一つだけ。


「お兄ちゃ~ん!」


 最愛の妹が走りながら向かって来ている。目的地は自分であり、本来ならば喜んで受け入れるべきだ。

 しかし、その顔がイリックをどこまでも冷めさせる。

 両目は血走りながらも微笑んでおり、それでいて獲物を狙う際の野生動物を彷彿とさせる。つまりは、気持ち悪い。

 口からは透明な液体が滴っているのだが、全力疾走中ゆえに勢いよく漏れ続けている。やはり気持ち悪い。


(育て方、どこで間違えたかな~)


 溺愛しているが、今は反省せずにはいられない。親らしいことは労働以外に何一つしていないが、奇声を発しながら近づいてくる妹を眺めていると、後悔するように過去を振り返ってしまう。

 人間の意識と威厳を奪う重苦しい圧迫感が消失したことで、軍人達が呪縛から解き放たれる中、小さな女の子は軍人顔負けの速度で兄を目指す。

 軍長すらも驚かせる脚力ではあるものの、今のイリックにとっては止まっているに等しい。避けようと思えば造作もない。

 だが、体が動かない。正確には動かす気すら湧かない。

 兄として妹を受け止めるつもりなどさらさらないのだが、その挙動と表情がどこまでもイリックのやる気を削ぐ。

 もはやどうでもよい。

 好きにしてくれ。

 半ば自暴自棄になりながら、緊張した体から身に余る力を解き放っていく。

 この力を自らの意志で発動させることはまだできない。

 一方で、その解除だけならまさに今、習得完了だ。脱力するだけではなく、頭と体を冷ますように、そして自分を客観的に観察するような感覚に晒すことでそれは実現する。大勢でのどんちゃん騒ぎを楽しんだ後、一人で帰路についている最中に襲いかかるテンションの格差の自覚。そういった覚醒感を連想すればそれに近い。

 この習得をネッテのおかげとは思いたくなく、それでもその事実は揺るがない。

 気づけばネッテの顔面によって視界が占有され、以降は事の成り行きをぐったりと見守ることを選ぶ。

 そもそもの話として、イリックは疲労困憊だ。一国を数十秒で横断しただけでなく、汗一つかかずに軍人達を滅ぼせる女と対等以上に渡り合ったのだから、ベッドに飛び込みたいくらいだ。

 そして、兄はものすごい勢いで押し倒される。その際、後頭部を地面に強打するのだが、もはや痛がることすら面倒だ。妹からの熱い接吻で口を塞がれながら、ゆっくりと瞳を閉じる。


「抱いて! 激しく愛して!」

(どこで育て方間違えたかな~)


 妹の咆哮が木霊する。

 兄は眠ることを選ぶ。

 平和が訪れたのだから、今は素直に喜ぶべきだ。

 しかし、誰もがそうすることはできない。

 周囲をぐるりと眺めれば、そこには三百人分の残骸によって大地が真っ赤に染っている。その数はこの国の防衛力を何割かは確実に削ぎ落とすのだから、国家として非常事態だ。

 この大量殺戮はたった一人の女によって実行された。ゆえに、リインを名乗る女に対して、その脅威度をさらに高めることは必須だろう。

 時刻はまだ朝の十時前。

 多くの店はこれから客を招き入れる。つまり、一日はまだ始まったばかりだ。

 大空の雲が薄まる一方、サンサンと照りつく太陽は火力を強めようと息巻いている。

 勝利か。

 敗北か。

 イリック達に考える余裕はなく、六人の軍長もまた、考えを巡らせる。

 熟考するまでもない。この戦いはイリックの勝利だ。勝ち負けは当事者が決めるのではなく、第三者、今回なら最後まで見守ったエミリア達だ。

 逃げるように立ち去った者が勝者のわけがなく、イリックが仮に自分だけの力で戦い抜いたわけではないとしても、その審判は覆らない。

 そもそもの前提として、女が神からの授かりものを手中に収めているのなら、少年もそうあってしかるべきだろう。

 流れ去る雲のように、この国はゆっくりと動き出す。

 神威の重圧は人間にとっては毒でしかない。思考を遮断され、毒の沼地に沈められるようなものだ。

 そのような状況に国民達は長時間晒されたのだから、その被害は想像を絶する。

 今日という一日は、彼らにとって忘れられない日だ。町の機能は停止し、大勢が病院にすら駆けこめずに茫然と過ごす。

 死者の数は少ないが、軍人や冒険者のように丈夫な人間以外は外出する気概すら奪われており、外を出歩けば、まるでゴーストタウンのように静かだ。

 ゆえに、彼らがそれを知るまでには少し時間を要する。

 軍区画で大勢の軍人達が息絶えたことを。

 たった一人の化け物が今回の事件を引き起こしたことを。

 そして、この国を救った少年が冒険者ということを。

 蒼い炎を操る女。

 赤いコートをまとう少年。

 後に、蒼赤の死闘と呼ばれる出来事はこうして幕を閉じる。

 だが、彼らの戦いは終わっていない。

 両者が決着を望むのだから、次なる死闘は必然だ。

 空を仰ぎ見るその場所で、両者は再び会いまみえる。

 そう。一日はまだ終わらない。

 今日という一日は終わらない。

 今はまだ朝。つまり、時間はまだたっぷりと残っている。


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