第三十三章 少年と老人
その日も空は青く透き通っており、街道を歩く人達からは自然と笑顔がこぼる。
街道と言っても踏みつけられた土の道であり、周囲の壁も土を固めたものだ。
町のあちこちには木々が林のように並んでおり、その中でなら野生動物と簡単に出会えてしまう。
イリックは一人歩く。
時刻は午後一時。最も暑い時間帯だ。
スムルス平原の気温はそれほど上昇しない。何より、バサラ山脈での猛暑を体験した今となっては、ちょっとやそっとで弱音を吐かない自信がある。
まだ昼過ぎだが、実は既にクエストを一件終わらせている。テレポートを習得しているがゆえにできる早業だ。
だからと言って、二件目にとりかかるほど焦ってもいなければ金欠でもない。いや、手持ちはなかなか貧しいが、豪遊しなければ問題ない。
本当は歯を食いしばってがんばるべきかもしれない。なぜなら、イリックは未だにカッパーソードを装備しているのだから。
片手剣で最も安く、貧弱なカッパーソード。こんなものを装備している冒険者などどこにもいない。
いや、いた。ここに。
(もう一回、スチールソード買った方がいいのかな~)
スチールソードの値段は八万ゴールド。かなり高額だ。見回り時代の給料で換算すると九ヶ月に相当する。そもそも手持ちがいくらか把握できていないため、思っただけですぐには実行に移せない。そんな気もあまりしていない。
とは言え、いつまでもカッパーソードが許されるわけもなく、どうしたものかとイリックは気だるげに考える。
今日のクエストの報酬は千五百ゴールド。悪くはない額だが、一日分の宿代と食費でごっそり無くなる。
スチールソードはまだいいや。そう考えを改め、研究区を目指し歩き続ける。
その時だった。
「お兄さん? お兄さんだ!」
その声は子供の声。そして、男の子の声。聞き覚えがあるようなないような、そもそも子供の知り合いなどいないため、自分が呼ばれたのではないと無視しようかと思ってしまった。
しかし、声のベクトルは明らかに自分であり、イリックは歩みを止めて声の方へ振り向く。勘違いだったらどうしよう。その不安は杞憂だったらしい。
男の子と母親らしき女性。見覚えがある。声だけでは情報不足だったが、外見を見てしまえば一発だ。
「イリックさん。お久しぶりです。その説は本当にお世話になりました」
女性が深々と頭を下げる。
男の子もそれを真似る。
ジャイル森林で助けた親子が笑顔で並んでいる。
「お久しぶりです。お元気そうでなによりです」
イリックも小さく頭を下げる。
母親の名はマーニョ。
男の子の名はドントン。
母親の名前に関しては一度忘れてしまったが、ネッテ達にぼろくそに言われたため、今ではすっかり覚えている。
男の子の名前については、変わった名前ということもあり忘れかけてもすぐに思い出せる。
ジャイル森林で救出した際は泥だらけのみすぼらしい姿をしていたが、今では小奇麗な姿をしている。
マーニョはやや長い黒髪を後ろで結んでおり、ピンクの羽織りと長めの白いスカートがやさしそうな顔にマッチしている。
ドントンは母親譲りの黒髪をしており、白い長袖と黒いズボンが新品のようにピカピカと輝いている。ジャイル森林では随分と頼もしい男の子だったが、改めて眺めるとやはりどこにでもいる子供にしか見えない。平和な環境がドントンを本来の姿に戻したのだろう。
「イリックさん達のおかげで、今ではこうしてガーウィンスに住めるようになりました。なんとお礼を言えば……」
「い、いえ。たまたま居合わせただけですから。礼はゴルドのじいさんにでも言ってください。俺は送り届けただけですし……」
ぺこぺこと頭を下げるマーニャと、ただただ狼狽するイリック。
一方、ドントンは伝えたい気持ちを抑えきれない。二人に割って入るように口を開く。
「お兄さん! 俺、冒険者になりたい!」
(ええ~……)
めんどくさいことになった。そう思わずにはいられない。
冒険者は危険な職業だ。モンスターと戦う。それはこの世界で最も危険な行為だろう。
モンスターは全力で人間を殺そうとする。そんな相手と戦うということは、一歩間違えれば死に繋がる。
モンスターと言っても、強さはピンからキリまでバラバラだ。
最弱のモンスターは周囲に広がるスムルス平原のリトルスライムだ。武器を持った大人が数人いれば、怪我をせずに倒せるかもしれない。しかし、怪我くらいはするかもしれない。
最強のモンスターは誰にもわからない。おそらくドラゴンだろうか。だとしても、その強さをイリックは想像することもできない。
炎は地を焼き払い、ジャイアントすら軽々と踏み潰すその巨体を相手にできる人間などいるのだろうか?
過去にはいた。冒険者として名を馳せたその二人は、現在は行方不明となっている。誰も彼女らの所在を把握できていないだけで、おそらくどこかでモンスターと戦っているのだろう。それが彼女らを知る者達の総意である。
白い鎧を身に付けた茶色い長髪の女性。右手には片手剣、左手には大きな盾。
白いローブをまとった眼鏡の男性。左手には魔法を発動させるための魔道本。
現在、二人の所在は一切わかっていない。
ドントンはまだ子供だ。装備を整えれば、いずれはリトルスライムくらいなら倒せるだろう。しかし、一朝一夕というわけにはいかない。
弱かろうとモンスターはモンスター。その体当たりは人間の骨を折ってみせる。
軟体生物ゆえ、武器による攻撃は効きにくい。刃物か魔法で戦えるなら問題ないが、それらを扱えるようになるまでには相当の鍛錬が必要だ。
才能の無いイリックは、アイール砂丘のモンスターに勝つまで四年かかった。
ちなみにネッテは二週間で倒してみせた。
実は、アイール砂丘のモンスターはスムルス平原のそれらよりも遥かに強い。ゆえに、ドントンはもっと早くリトルスライムを倒せるかもしれない。
だからと言って、ネッテのように数週間でどうこうできる可能性はゼロに等しい。
「この子ったら、あれ以来、イリックさんに憧れを抱いているようでして……」
「お兄さん、戦い方教えて!」
「う、う~む……」
イリックは二つの意味で渋る。
一つ目は、ドントンを冒険者にさせたくないから。
二つ目は、そもそも他人に戦い方を指導できるほど優れた冒険者ではないから。
イリックの戦い方はほとんど我流だ。サラミア港の冒険者に片手剣の扱い方を教わったが、気づけば自分なりの癖や思想に凝り固まってしまう。すなわち、素人の延長線上に落ち着いてしまう。
冒険者の多くがイリックのような感じなのだが、だからと言って開き直っていいわけでもない。
(魚の仕事を目指せって伝えたのに、ダメだったか~)
救出した際も、ドントンは冒険者になりたいと口にしたが、イリックは魚関連の仕事にしろと伝え、それで納得してもらえた。
しかし、相手は子供。一度抱いた憧れをそう簡単に諦められるわけもなく、街行く冒険者を日常的に眺めてしまえば、その気持ちはより一層強まってしまう。
どうしたものか。イリックは天を仰ぐ。
「ドントン。イリックさんが困ってるでしょ」
「ね~え~」
困る母親とねだる子供。よくある風景だ。もっとも、ねだられているのはイリックゆえ、なかなかにありえない光景だったりする。
「ドントンはどの適性なんだい?」
「何それー?」
がっくし。とりあえず訊いてみたが、そこから説明する必要があるらしい。
ここから先は長話になってしまう。道端での立ち話もどうかと思い、イリックは周りを見渡す。酒場というわけにはいかないため、近場の適当な食堂を目指すことにした。
移動中、マーニョが二万ゴールドの返却をイリックにそっと伝える。ジャイル森林からガーウィンス連邦国にテレポートで移動した際、軍資金として手渡した金額だ。
すっかりそのことを忘れていたイリックは、笑ってその申し出を断る。気にしないで下さい、とあっけらかんに言ってのける。
二万ゴールドは決して大金ではないが、安い額でもない。新天地で母親が子供を育てようとしているのだから、返却に応じることなどできない。
一同は最も近い食堂に入る。
無骨な店構えだが、店内はかなり繁盛している。少し遅れて昼食をとる町民や冒険者達で賑わっているからだ。席はまばらにしか空いていないが、裏を返せば満席でもない。
三人とも昼食は済ませてあるため、飲み物だけを注文し、イリックは冒険者についての説明を始める。
何年も鍛錬をしなければならないこと。
ドントンの冒険者としての適性を見極めなければならないこと。
それに応じた魔法や戦技を習得できなかった場合、諦めなければならないこと。
ゆえに、安定した仕事の方がおすすめだと付け加える。
それでもドントンの目は輝き続ける。どうやら説得には失敗したらしい。
そもそもドントンは、足を負傷した母親を支えながらジャイル村から逃げ出し、完全な暗闇に飲み込まれた夜のジャイル森林を歩き続けた。その勇気と根性は並大抵ではない。ちょっとやそっとの脅しには怯まない勇敢な子供だ。
どうしたものか。イリックがそう頭を悩ましていた時だった。
「あら、イリックさん」
「ん?」
「ええ!?」
名前を呼ばれたため顔を向けると、茶色いローブを着たススリリと黒いローブを着たシャルロットが並んで立っている。
どういうわけかシャルロットが一番驚いてみせる。
「シャ、シャルロット館長! こんにちは!」
マーニョが慌てて立ち上がり、シャルロットに一礼する。
「あら、マーニョ。どうしてこいつと一緒に? って、そういえば知り合いってことになるのね」
一瞬不思議そうな顔を見せたシャルロットだが、すぐに状況を察する。
マーニョとドントンを助けたのはイリックであり、会えば話くらいはするだろうとすぐに理解する。
どちらかと言えばマーニョとシャルロットの関係の方が不思議で仕方ない。イリックはそのことをたずねる。
ススリリ曰く、マーニョの職場はシャルロットが館長を務める風の図書館だ。丁度事務方の手が足りなくなってきたため、、事情を汲んで職員として採用した。
つまり、マーニョとシャルロットは遠いなりにも上司と部下ということになる。マーニョがペコペコするのも不思議なことではない。
「チビのくせに偉そうにしやがって」
「な、なんですって!」
そして睨み合う。
イリックとシャルロットはどういうわけかすぐにこうなる。
イリック的には、シャルロットの口の悪さが気に食わない。
シャルロットはそんなイリックの態度が気に食わない。ゆえに、争いが始まる。
「ススリリさん達は昼食を?」
「ええ。丁度食べ終わったところです。イリックさん達は?」
「久しぶりにお二人と再開したので、お茶しつつ世間話です」
冒険者談議なのだが、イリックはそういうことにする。
ススリリとシャルロットは二人で昼食を食べ終え、まさに戻ろうとしていた矢先だった。ちなみに二人は休日出勤ゆえ、遠出をしてだらだらと食事を楽しんだ結果、この時間になってしまったという経緯がある。
「それじゃ、私は戻るから、シャルはマーニョさん達と親睦でも深めてなさい」
「し、仕方ないわね~」
ススリリの口車に乗せられ、恥ずかしそうな、うれしそうな表情を浮かべながらシャルロットも相席する。
不思議な面子が一同に会する。
イリック。
シャルロット。
ドントン。
マーニョ。
ススリリが立ち去った後、口火を切ったのはシャルロットだ。
「それで、何話してたのよ?」
「ん~、冒険者について」
「へ~。何で?」
「なりたいの!」
シャルロットとイリックのやり取りに割って入る子供特有の威勢の良さに、シャルロットは少し驚いた表情を浮かべる。同時に、イリックのどこか乗り気でない態度にも察しを付ける。
子供が将来成りたがる職業の一位は冒険者だ。
モンスターと戦える。
世界中を旅できる。
宝物を見つけられる。
子供ならこういったことを夢見て当然だ。しかし、ほとんどが現実に直面し、この道を諦める。
鍛錬に挫折する。
装備品の高額過ぎる金額を知り、途方に暮れる。
戦技や魔法を習得できない。
そして、モンスターに勝てない。
諦めるという選択肢を選べるのなら、それはそれで良いことかもしれない。無慈悲な話だが、モンスターに殺されてしまう子供も少なからず存在してしまう。
ゆえに、大人は夢見る子供の目を覚まさなければならない。冒険者を目指す場合に限ってだが。
「ふ~ん。あなた、戦技か魔法覚えてるの?」
「ううん!」
「じゃあ、冒険者適性は?」
「何それ?」
シャルロットもまた、イリックと同じ状況に陥る。
ドントンは何も知らない。つい最近まで冒険者を目指していたわけではなかったのだから、当然と言えば当然かもしれない。
こういう段階ね、とシャルロットはイリックに視線を向ける。はい、そうです。イリックは目で返答する。
「シャルさ~。その適性を調べる手っ取り早い方法とか知らない?」
「あ~……。東の大陸でそんなのが発明されたらしいわよ。あっちはこことは比べ物にならないほど、適性についての研究が進んでるから」
「へ~。となると、今は地道に訓練するしかないか……」
シャルロットをシャルと呼べる人間は今まで二人しかいなかった。
ススリリとガラハだ。そこにどういうわけかイリックも加わったのだが、当の本人はそのことを気にしない。
「ところで、仕事いいの?」
イリックは当然の疑問を口にする。シャルロットは風の図書館の館長だ。今は昼食を食べ終えた状況だ。本来なら、ススリリのように仕事へ戻らなければならない。
「あんたね~。今日は休日よ。だからマーニョさんもここにいるんでしょ? 冒険者なんかしてるから、曜日感覚が狂うのよ」
「ああ……」
いちいち辛口なシャルロットに腹を立てたりはしない。そして、言われて初めて気づく自分も大概だと少し反省する。
マーニョもアハハと乾いた笑いで場を取り繕うとする。
「でも、ススリリさんは仕事に戻ったぞ?」
「休日出勤よ。どうせ家に居てもすることないし、ゴルドに頼まれた仕事を片付けないといけないの。あんたも噛んでるんでしょ、サハハ遺跡の件よ」
なーるほど、とイリックは把握する。
サハハ遺跡については、様々な点を大至急調べなければならない。
岩のモンスター、ゲシュタルトがいた広間の奥に張られている結界。
サハハ遺跡の機能。
三百年前の大災害の原因。
そして、ウーディ。
ゴルドとヨールモールとコドウンが中心となって動いているが、それだけでは手が足りないのが実情だ。
「お姉さんもお兄さんのように強いの?」
二人の話を聞きながら行儀よく座っていたドントンが、目をキラキラと輝かせてシャルロットを見つめる。子供ゆえ、強い弱いは重要なことだ。
「ええ。私の方がこいつより強いわよ」
えっへん、と偉そうにふんぞり返るシャルロットだが、イリックは冷めた目でそれを見守る。
「よく言うわ。ドラゴンに殺されかけた癖に。俺が助けなかったら確実に死んでたぞ」
「ちょ!? でたらめ言わないで! 一人でもなんとかなってたわよ!」
「嘘つけ。後ちょっとで踏み潰されてたじゃねーか。やーいやーい」
ネッテをからかうように、イリックはシャルロットを小バカにする。もっとも、嘘は何一つ言っていない。
シャルロットは顔をトマトのように赤くし、キィーと反論する。
二人の喧騒は、マーニョを含め、周りの客や店員を心底驚かせる。なぜなら、シャルロットを知らない人間はこの国に存在しない。
若くして風の図書館の館長に就任した天才中の天才。その上、膨大な魔力は人間の規格を大きく逸脱しており、最強の人間の一人と思われている。
そして、孤独ゆえに冷徹な性格の持ち主。
そんなシャルロットがイリックにからかわれ、ワーワーと悲鳴のような声をあげながら顔を赤くしているのだから、その光景はガーウィンス連邦国の国民にとってはおよそ信じられない。
「お二人は、仲がよろしいんですね」
「え!?」
「え~?」
マーニョの発言に、シャルロットはさらに顔を赤くし、イリックは心底嫌そうな顔をする。
「ねえ~。二人はどっちが強いの~?」
「私よ!」
「俺」
ドントンが再び戦いのゴングを鳴らす。
「あんたなんて、この前みたいにフレイムで一発でしょ!」
「よく言うわ。本気出せば、この前みたいにブラジャー晒すのも簡単なんだぞ」
「なっ!?」
ルークス洞窟に結界を張りに行った際の出来事をイリックは振り返る。仕返しとして、シャルロットの寝間着を首の上まで持ち上げ、頭上で結んで下着を丸出しにした。シャルロットとしては触れられたくない話題の一つだ。
「ふふ。こんなシャルロット館長、初めて見ました」
兄妹喧嘩のように騒ぐ二人に対し、マーニョは小さく笑う。
普段のシャルロットは凛とした、それでいて冷徹な立ち振る舞いを職員達に見せる。自分が天才であるがゆえに、他人にも相応の実力を求めてしまう厳しさは自覚しているのだが、そういう性分ゆえ、実は葛藤している。もっとも、それを表に出すことはせず、寡黙に日々の研究に励んでいる。
職員達からはその厳しさと異常な魔力を恐れられているが、決して嫌われているわけではない。ただただ怖いだけなのだ。イリックのような鈍感には全くわからないが、シャルロットの膨大過ぎる魔力は、それを感知できる人間にとってはただそこにいるだけで畏怖でしかない。
ゆえに、風の図書館で働く人間には、魔力に関する鈍感さも必要不可欠と言われている。いちいち驚いていたら、胃に穴が空くか髪の毛が抜け落ちてしまう。
「今日のところはこれで勘弁してやるわ」
「勘弁て……。話を戻すけど、冒険者になりたいんだよな?」
「うん!」
腕を組んで今更取り繕うとするシャルロットを軽くあしらい、イリックは本題に戻る。
ドントンは冒険者になりたい。しかし、実力は完全に子供。自分の適性すら把握できていない。
ここでイリックの取りうる行動は二つ。
冒険者になるための道を指し示す。
冒険者を諦めさせる。
イリックとしては、この場で諦めさせたい。なぜなら、本当に危険だからだ。せっかく救えた命を無残に散らして欲しくはない。
かと言って、むげに諦めさせるのもどうかと思ってしまう。冒険者は魅力的かつやりがいのある職業だ。
イリック自身、実感できている。冒険者として日々を走り回っている現状は、見回り時代よりも遥かに充実している。
どうしたものか。イリックはむむむと考え込む。
「冒険者なんてたいしたもんじゃないわよ? モンスターどうこうって言ったところで、基本同じようなやつとばかり戦うハメになるんだから、あっという間に飽きるわよ」
(うわぁ。身も蓋もないことを……。間違ってはいないけど)
シャルロットがいたいけな子供に現実を突きつけようとする。
正論ゆえにイリックは反論できない。むしろ今は応援したいくらいだ。
「毎日毎日、ギルドの依頼をこなしてお金を稼がないとやってられないみたいだし。それだって、たいした給料にはならないみたいよ」
「うぐぅ……」
シャルロットの発言はいちいちイリックの胸に突き刺さる。しかし、今は耐える。
「その果てに、モンスターに殺されるかどこかで野垂れ死ぬんだから、大人しく止めておいたら?」
「え~。なりた~い」
シャルロットの脅しのような説得にもドントンは怯まない。鋼の精神は伊達ではないらしい。
「お母さんを一人残して死にたいの?」
「死なないように……、守れるように強くなりたい!」
「そう……。案外頑固なのね」
「も、申し訳ありません……」
シャルロットが呆れるほどに食い下がるドントンに代わり、母親が申し訳なさそうに謝罪する。
手に負えない、とシャルロットは匙を投げ、イリックをチラッと見る。後はあんたがどうにかしなさい、表情がそう物語っている。
「本当は適性を把握してからの方がいいんだろうけど……。とりあえず、モンスターと戦うってことがどういうことかだけでも見てみるか?」
「うん! お願い! お兄さん!」
イリックは状況を一歩前へ進める。ここでダラダラ問答を続けても意味はないと考えてのことだ。
ドントンは夢を諦めない。ネッテがいつまでも冒険者を夢見たように、やはり子供には冒険者という職業は魅力的に見えてしまう。
そこで年長者としてずるい手を行使する。モンスターを見せて、実践の厳しさを見せつけ、萎縮させることにした。ドントンに通用するとも思えないが、現状それくらいしか思いつかない。
スムルス平原に向かうということから、マーニョには帰ってもらい、三人で向かうことにした。
イリック。ただの冒険者。
シャルロット。風の図書館館長。そして、ガーウィンス連邦国の最大戦力。
ドントン。ただの子供。
(なんだこの組み合わせは……)
当事者のイリックですら、不思議で仕方ない。
緑の絨毯がどこまでも続く平原に辿り着く。周囲にはちらほらと若い冒険者が散見している。
スムルス平原ほど駆け出し冒険者に適した土地はないだろう。それほどまでに、ここは腕を磨く場所としては最適だ。
モンスターが多い。
そのモンスターがトリストン大陸で最も弱い。
自分達と似た境遇の冒険者が多い。
モンスターの取り合いになりそうなら、似た境遇の冒険者と協力し合えばいい。
時には助け合えばいい。
環境が冒険者を呼び込み、そして冒険者が足を運び、そのことがさらに冒険者を集める。スムルス平原はそういう場所だ。
「あんた、武器はどうするつもりなの? 剣だって、けっこう高いのよ」
「う、う~ん……。どうしよう?」
「まぁ、それもボチボチ考えればいいよ」
シャルロットが非常な現実を突きつける。
冒険者がモンスターと戦える理由は、肉体的に強く、戦技や魔法を使えること以外に、武器を扱えることとそれを所持していることが挙げられる。
いかに強力な、それこそアダマン製の武器を所有していようと、それを取り上げられれば冒険者もただの人に成り下がる。負けはしないだろうが勝てもしない。そんな状況に陥ってしまう。
冒険者ですら武器は必要だ。ドントンにはさらに必要と言える。しかし子供ゆえ、そんなものを持っているはずもない。それも含めて、これからのことを考えなければならない。
これから見せるモンスターとの戦闘はその第一歩だ。
「あれにしよう」
先頭を歩くイリックが指差すのは小さな丸い物体。プルプルと震えており、少し赤みがかった黄色をしている。球体というよりは、重力に潰されてやや平たくなっている。大きさは大小様々なのだが、目の前の固体は大人の肩幅くらいだろうか? やや大きいサイズと言える。
「それ知ってるー! リトルスライムって言うんでしょー?」
「ええ、そうよ。あれはちょっと大きいようだけど」
ドントンがテンションを高めてイリックに並ぶ。シャルロットもその後を続くが、イリック同様、警戒心は抱いていない。
リトルスライムはれっきとしたモンスターだが、イリックとシャルロットにとっては半分おもちゃのような存在でしかない。今更この程度のモンスターに攻撃されたところで、擦り傷すら負わない。気をつけなければならないことは、ドントンの挙動程度だ。
「じゃあ、モンスターと戦うってことがどういうことか見せてあげる」
「わーい!」
イリックが背中の片手剣を抜く。
ドントンが喜ぶ中、シャルロットはギョッとその光景に驚く。
「あんた……。本当にカッパーソードなんか装備してるんだ。もっとまともなの買いなさいよ」
「だってお金ないし」
仕方ないのだ。なぜか財政難ゆえ、これでがんばるしかない。
イリックはカッパーソードを構えたまま、じりじりとリトルスライムに近寄る。
「だぁー」
棒読みだがイリックは声をあげて黄土色の物体に斬りかかる。その斬撃は避けられ、すぐ近くの地面に突き刺さる。という演出。
途端、リトルスライムが体をぷるっと震わせ、ぴょんと跳ねるようにタックルをおみまいする。もちろん、これっぽっちも痛くないが、イリックは大げさに倒れこむ。
「が、がんばれー!」
応援されてしまった。純真な子供を欺いているようで気が引けるが、これも大人の務めだ。
「普通ならこれで大怪我だからなー」
「た、大変だー!」
自分の戦闘を自分で解説する。なんとも忙しい。せっせと立ち上がり、ゼリーのようにぷるぷるしている黄土色と向き合う。
ゆっくりとした動作で、再び斬りかかる。当然だがリトルスライムはもう一度体当たりで反撃してくる。その直撃を腹部に受け、イリックはこれまたゆっくりと倒れこむ。そして、ドントンにさっと顔を向ける。
「子供ならこれで死んじゃう」
「う、うわぁ……」
さすがにこの事実はドントンを怯ませる。下手くそなイリックの演技でも、競演相手がモンスターならいくらか迫真に迫れる。
「とまぁ、モンスターと戦うってことはこういうことなんだ」
さっと立ち上がり、涼しい顔でイリックはトンドンに歩み寄る。喧嘩を売られたリトルスライムは背後で体を揺らしながら困惑している。それもそうだろう。渾身の攻撃を二度与えたにも関わらず、その人間はケロリとしている。
「大変なんだね~」
「あぁ。とりわけ、一度の失敗で死んじゃうかもしれないってことが重要なんだ」
「う~ん……」
子供には重過ぎる事実ゆえ、ドントンはうつむく。
厳しい現実を突きつけるようで胸が痛むが、これもドントンのため、とイリックは心を鬼にして向き合う。
そんなイリックに、リトルスライムがぴょんぴょん跳ねながら接近する。いかに最弱なモンスターであろうと、一度戦いを挑まれれば決着がつくまで戦おうとする。
「シャルー」
「はいはい。フレイム」
イリックの合図で、シャルロットが小さな火の弾を指先から発射する。これでもかと魔力を抑えようと、リトルスライム相手なら十分だ。それを証明するように、黄土色の体は一瞬にして塵と化す。
そしてイリックは青ざめる。
(お、俺……、今のより大きな火の弾浴びせられたことあるんですけど……)
燃えカスと貸したリトルスライムと燃える自分を重ねる。恐怖でしかない。
「まぁ、ようするに、モ」
「すごーい! ねえねえ! お姉さん今の何ー?」
ドントンの感心がイリックからシャルロットへ移る。
「フレイムって魔法よ。ほら、この通り」
シャルロットの頭上に、ドントンよりも大きな火の剛球が発生する。これを浴びれば、人間などあっという間に蒸発する。それどころから、周囲一帯を焦土と化してしまう。
「かっこいい! 僕も使えるの?」
「どうかしらね~。こればっかりは才能によるから、今はひたすら特訓するしかないでしょうね」
「わ、わかったから……、はよそれしまえ。見てるだけでヒヤヒヤする……」
はしゃぐドントンと偉そうなシャルロットの頭上には、ごうごうと燃える巨大な火の玉が浮かんでいる。その光景は、イリックはおろか周囲の冒険者すら萎縮させる。
「フレイムか~。フレイム!」
ぼん。
「え?」
「え?」
しーん。
三人は奇妙な静寂に包まれる。それも当然だ。ドントンがフレイムらしきものを詠唱してみせたのだから。
「へ~。もうフレイム覚えてるじゃない。自覚なかったのかしら?」
「なん……だと……」
シャルロットが驚くのも無理はない。
イリックは愕然としているが、それはどうでもいい。
通常、生まれ持って魔法や戦技を覚えている場合、物心ついた頃には自然とそのことを理解する。極稀にそれができない子供もいるが、それは例外であり、まさに極小数と言える。
その一人が目の前にいるため、シャルロットは驚く。イリックは全く違う理由で驚いている。こんな子供が魔法を使えること自体に驚いているだけだ。
「あんたより百倍は魔法の才能ありそうね」
「さらりと俺をバカにしやがって……今度はパンツ晒すぞ、おい」
「ふん! やれるもんならやっ……、こっち来ないで!」
じりっと一歩を踏み出したイリックに、シャルロットは本気で怯える。トラウマになっているのだ。
そんな二人を他所に、ドントンは自分の右手をじっと見つめる。勢いよく突き出した右手から、煙のようなものが小さな音と共に発現した。これが魔法だと、マジックポイントの消費から子供心に理解する。
ドントンは後衛攻撃役で確定だ。フレイムを扱える適性がそれだけだからだ。
この状況はイリックを二つの意味で悩ませる。
ドントンには冒険者としての才能がありそうだ。フレイムを習得できていることがそれを裏付けている。
イリックには魔法の才能がないため、ドントンにアドバイスすることも、その才能を伸ばすこともできない。というかわからない。
「フレイム!」
ぼん。ドントンの右手から、もやっと煙が立ち込める。
「今はそれで十分でしょう。そうやって、ここで毎日訓練することね。わかってるでしょうけど、絶対に家や町の中で使ったらダメだからね? 怒られるどころじゃ済まないわよ」
「うん!」
シャルロットのアドバイスにドントンは力強く頭を振る。その表情からは満面の笑顔がこぼれており、イリックとしては複雑な気持ちになってしまう。
できれば冒険者を諦めて欲しかった。しかし、その道のりがくっきりと輪郭を顕わにしながら現れてしまう。ドントンにはうれしくてたまらないが、それは同時に、自ら危険な世界に飛び込むことでもある。
イリックはカッパーソードを地面に突き刺し、ふ~む、と一考する。
シャルロットがドントンに、攻撃魔法とはどういったものか、マジックポイントは何か、を丁寧に説明する。その様子を見ていると思わずにはいられない。
「シャルって、案外子供を相手にするの上手だな。良い嫁さんになれると思うぞ」
「なっ!?」
シャルロットの顔が一瞬にして真っ赤に染まる。その直後、特大のフレイムがイリックを襲う。死ぬかと思った。
◆
「兄上?」
「え! 何で怒ってらっしゃるの!?」
ドントンとマーニョに再開したその晩。
寝る準備は全て整っており、後はこくこくと時間が過ぎていくのを待つだけ。
ここは宿屋の四人部屋。夕食を個別に食べたため、言いそびれていた今日の出来事をネッテ達に報告する。
そして、ネッテのご機嫌が傾く。
「先日、研究区でイリックとシャルロットが立ち話してるのを見かけた際にも思ったのだけど、あなた達って妙に仲良いわよね?」
「そうですか?」
ロニアが何を言っているのか、イリックには飲み込めない。シャルロットとは犬猿の仲だと自覚しているからだ。
疑うのはロニアだけではないらしく、ネッテも今の話を聞いてそう思ってしまう。ゆえに、手をワキワキさせながら兄との距離を詰める。
ギャー! イリックの悲鳴が響く中、アジールはそっと口を開く。
「大丈夫そうでよかった」
言葉足らずだが、ジャイル森林で助けた親子のことを指している。
「そうね。ゴルドが根回ししてくれたんでしょう。そういうところはキッチリしてるから。しかしまぁ、冒険者になりたいなんてね~。ベタな話だけど、確かになやましいわ」
「なんでー?」
ロニアはふぅとため息のような息を吐く。
ネッテはイリックをベッドに押し倒し、急所を掴んでいる。
イリックは泣きながら許しを請う。
「や、やめて! それだけは本当に勘弁して! 生殖能力が失われちゃう!」
そんな悲鳴は誰にも届かない。
「そうね……。この状況でこの例えは微妙でしょうけど、イリックが一人でドラゴンを倒しに行くことになったらどう思うかしら?」
この状況とは、ネッテがイリックのあれをぎゅっと人質にとっていることを指す。それでもなお、ロニアはイリックを例えにあげて、ドントンが冒険者を目指すことの危うさを説明しようとする。
「一緒に倒す!」
「ぎゃー!」
ネッテがやる気をみなぎらせる。拍子に急所がぎゅっとされる。
「まじ、勘弁してください私が悪かったです! 悪いことなんかした覚えないけど! 完全に冤罪だけど!」
イリックの顔色がゆっくりと青くなる。
「く、さすがネッテちゃん。私の例えがあれだったわね。もし子供が生まれて、冒険者になりたいって言ったらどうする?」
「一緒にがんばる!」
「ぐわぁー!」
(ネッテさんや……。子供と一緒に冒険をしたいのなら、その子供を生むために必要になるかもしれないそれを離してくれませんか? いや、ネッテ相手に使う気は微塵もないのですが)
イリックはそろそろ限界だ。それでも妹はそれを離さない。許してくれない。
「ネッテ。冒険者になるってことはモンスターと戦うことであって、それはすなわち、モンスターに殺されちゃうかもしれない」
「な~るほど」
ロニアに代わり、アジールが根本的なことを説明する。頭の悪いネッテには、例え話は少々ハードルが高い。
「フレイムを習得しているノナラ、才覚はアリそうですネ」
「そうでしょうけど、母親としては複雑でしょうね~」
トゥルルの分析は間違ってはいないが、親心としては諦めてもらいたい。ロニアもまた、そう分析する。
イリックですら、ネッテに対しこのような心情を長年抱き続けてきた。結局折れて冒険者の世界に足を踏み入れてしまったのだが、イリックがそう思うのなら、世の親はそれ以上に強く思って当然だ。もっとも、応援したいという気持ちも少なからず持ち合わせているのだろうと容易に想像できてしまう。ゆえに、複雑な心境と言える。
「ロニアならどうする?」
「そうね~……。う~ん……」
イリックとネッテの低レベルな応酬が繰り広げられる中、アジールとロニアはドントンについて考える。
冒険者になりたいという夢を無理やり奪い取るのは確かに気が引ける。しかし、平和に暮らすためには、違う道を選ばせるのが本人のためでもあると両者は理解している。
「早々に挫折して、夢を諦めてもらうとか?」
「そう思う」
そして導き出す。
モンスターに勝てない。
鍛錬を積んでもフレイム以外の魔法を覚えない。
魔力が実用レベルまで高くない。
理由は何でもいい。とにかく、冒険者への道を諦めてもらえれば、本人も納得して別の道を選べる。ロニアとアジールはそう考える。
「トゥルルはどう思う?」
「ワカリマセン。なぜ悩ムのか、そもそも夢トハ何なのカ、理解できまセンデス」
ロニアの顔を見て、トゥルルは本心を打ち明ける。
わからない。まだ人間の考えることはわからない。
そのことがどこか悔しい。そう思うことはできる。その感情を以前のトゥルルは抱けなかった。そういう意味では、ゴルドの言った通り、成長しているのかもしれない。
トゥルルは観察する。
ドントンについて考えるアジールとロニアを。
イリックの急所を掴み、勝ち誇るネッテを。
泣き叫ぶイリックを。
こうして、トゥルルは少しずつ成長していく。
「マジ離してくれー!」
少なくとも、男の弱点を学習することはできた。
◆
その少年にとって、イリックは夢を見つけるための光となった。命を救ってくれた恩人でもあり、感謝と憧れの念を抱くのは自然なことだった。
その少年にとって、シャルロットは夢を叶えるための一歩となった。火の攻撃魔法、フレイム。自分にそのような才能があるとは思ってもおらず、あの出来事以降、毎日のように鍛錬に励んでいる。
その少年にとって、この男との出会いは何を意味するのか? それはまだ、誰にもわからない。
ドントンは今日も、スムルス平原でフレイムを撃ち続ける。シャルロットにそうしろと指導を受けたからだ。
敷地内で攻撃魔法の鍛錬などご法度であり、フレイムを撃つならスムルス平原でするしかない。
魔法はただ撃つだけでも研ぎ澄まされていく。もちろん、一度や二度詠唱しただけで魔法の威力が上がるようなことはない。
何百、何千と撃って、誤差程度の上昇を感じとることができる。
手っ取り早い方法は、モンスターと戦い勝つことだ。その原理は未だ解明されていないが、とにかくその方法が最速の鍛錬と言われている。
だからといって、ドントンにはまだ難しい。フレイムを撃ててはいるが、煙がポスンと発生する程度だ。
ゆえに、今はマジックポイントが尽きるまで素振りのごとく撃つしかない。魔力がそうであるように、マジックポイントもまだまだ貧弱だ。連続して四回しか撃つことができない。
魔法の鍛錬は最初が最も厳しいと言われている。挫折する者の多くが、ここに該当する。
なぜなら、圧倒的にマジックポイントが少ないからだ。
魔力は魔法を詠唱すればするほど高まる。しかし、最初はマジックポイントが少ないため、回数をこなせない。ゆえに、なかなか成長しない。
仮に、魔法百回で魔力が一パーセント上昇するとする。
フレイムを四回使えるドントンは、二十五セットを必要とする。
フレイムを二十回使える冒険者は、たったの五セットでいい。
そもそもの話、魔力が一パーセント上昇したからと言って、その程度は誤差でしかない。それでもそれを積み重ねるしかない。鍛錬とはそういうものだ。
魔法を詠唱して、魔力とマジックポイントを高め、そしてまた詠唱する。これの繰り返しだ。
魔法の鍛錬は歯がゆい。マジックポイントが枯れてしまったら、それ以上できないからだ。
やる気だけが空回りしてしまう。
ドントンがまさにその状態だ。あっという間にフレイムを四発撃ち終えてしまう。こうなってしまっては帰るしかない。
それでもまだ満足できていないため、ズボンが汚れることを覚悟してその場に座る。雑草が生えている場所を選べばいくらかマシだ。
背後にはガーウィンス連邦国を囲む巨大な石壁。少し歩けば、あっという間に帰れてしまう。
周囲を見渡すと、ドントンと同じように冒険者を夢見る若者でいっぱいだ。
ドントンが今いる場所はガーウィンス連邦国の西門付近だ。このまま真っ直ぐ歩けばサハハ遺跡に辿り着く。
東門の方がやや冒険者が多く、邪魔にならないよう西門を選んだ。
空を見上げると、大小様々な雲がゆっくりと同じ方向に流れている。
輪郭のぼやけた雲。
くっきりしている美味しそうな雲。
薄っぺらい雲。
これらを運ぶ風は地上にも届いており、草原を走るついでにドントンの黒い髪をわずかに撫でる。
(冒険者になるのって時間かかるんだなぁ)
ドントンは理解する。目指す場所は遥かに遠い、と。
シャルロットが見せたフレイムの威力を今でも忘れられない。それと比べて自分はいかにちっぽけなことか。天と地ほどの開きを埋めるためにどれだけの時間がかかるのか、想像すらできない。
だからと言ってドントンは諦めない。その精神力は同世代の子供とは比べ物にならないほどタフだ。
あの日、ドントンは破壊された自宅の瓦礫に母と二人で身を潜め続けた。
夜も更け、静まり返ったタイミングで上空のアーリマンに見つからないよう、片足を負傷している母を支えながらジャイル村から脱出してみせる。
その後、真っ暗なジャイル森林を南下し、数日かけてイリック達の元まで辿り着く。
こんなことは到底できることではない。それ以外に取れうる選択肢が無かったとは言え、母親を守りたいという強い意思があったからこそ、やり遂げられたと言える。
そして、イリックとガーウィンス連邦国によって新たな生活を与えられる。
この状況を失いたくない。
母親を守りたい。
イリックのような冒険者になりたい。
ゆえに、強い冒険者になって何もかもを守りたい。そう思わずにはいられない。
空を見上げてどれくらいの時間が経ったろうか。いつの間にかフレイム一回分のマジックポイントが回復していた。
ドントンは立ち上がり、尻をパンパンとはたく。
早く強くなりたい。その欲求がドントンを奮い立たせる。
前方にはピョンピョンと跳ねながら移動している小さな黄土色。リトルスライムだ。
大きさは前回イリックが戦った固体よりも随分小さい。子供の、すなわち、ドントンの頭くらいの大きさだろうか? ゆえに、弱く見えてしまう。
ゴクリ。喉を鳴らしてドントンは一歩を踏み出す。
武器はない。しかし、フレイムを一度だけ使える。一見すると手のひらから煙が出るだけだが、実はわずかながらに小さな火の粉が舞う。
それで倒せないだろうか? そんな淡い期待を胸に抱き、もう一歩近づく。
若干半透明なそれには、目や口、内臓と言った生物に必要な器官が何一つ見当たらない。茶色に近い黄色のゼリーが、潰れた形を維持して動くだけ。
リトルスライムはドントンの接近に気づき、跳ねることを止める。ぷるぷると体を震わせながら、その場でじっと様子をうかがう。
ドントンは手のひらをそれに近づけながらそっとつぶやく。
「フレイム」
途端、煙を振り払いリトルスライムが跳ねる。自身より圧倒的に大きなドントンの体をあっさりと吹き飛ばす。
「うぅ!」
腹部への強打。当たり所が悪かったのか、足に力が入らないため、立ち上がることもままならない。このまま追撃を受けたら、いよいよ命に関わる。
意識が朦朧とする。痛みのあまり、呼吸の仕方すら思い出せない。
最弱のモンスターと言えども、子供程度なら容易く殺せる。それを証明するため、リトルスライムはピョンとドントンに近寄る。
このままではまずい、逃げなくては。そう頭で理解していても、実行することができない。
くやしい。
情けない。
自分がバカだった。
どれだけ悔いても、もう遅い。
いかに弱く見えようと、モンスターはモンスター。まだ戦ってはいけないと身をもって痛感する。
しかし、もう手遅れだ。ガーウィンス連邦国の目の前で、最弱なモンスターに殺されるという事実は揺るがない。
受け入れたくはない。だからと言って、どうすることもできない。助けを求めようにも声が出ない。
今はただ、自分の死を受け入れなければならない。それくらいしかできない。
(お母さん……)
ピョンと耳障りな音のせいで、歩幅の広い足音の接近に気づくことができなかった。
グシャッ。何かが爆ぜる音。
「やれやれ。この程度に負けるとはな。遠目から見ている分には楽しい光景だったが……。ん? おまえ、なかなかの素質を持っているじゃないか」
少しかすれた男の声が、地に伏せている子供に向けられる。
その男の足元には、踏みつけられ、粉々に散ったリトルスライムの欠片が無残にも転がっている。
「なんだ? 声も出ないのか……。情けない。身の丈以上のことをしようとするからだ」
フード付きの黒いローブを着たその男の右手には、灰色のマジックバッグがぶらんと握られている。ゆえに、左手を突き出し、ドントンに魔力の塊を放出する。
「うぅ」
わずかに声が漏れてしまう。ドントンの体に何か起き始めたからだ。血液が沸騰するかのように熱くなり、開かれてはいけない穴がいくつも大きく開かれていく。
力ではないが、それに似た何かが湧き上がる。そう、魔力の上昇を感じる。それだけではない。それに比例して、マジックポイントの最大値もグングンと上昇する。
急激に増したそれらは、瞬く間にパッと停止する。しかし、自分の容量以上の能力を身に付けてしまったという実感は得られる。
それどころか、体の痛みもすっかり無くなっている。
ドントンは驚きながらも、先ほどまで痛んだ腹部を撫でつつ、すっと立ち上がる。
「あ、ありがとう……ございます」
何をしてくれたのかはわからない。リトルスライムを倒してくれたことは何となく理解できているが、それ以外が全くわからない。それでも、礼だけは欠かさない。
その態度を、黒いフードの男、ウーディは満足そうに見下ろす。
「こんなところで何をしていた? まさか、魔法の修行か?」
「う、うん……」
「そうか。だからと言って、モンスターにちょっかいを出すのは早計だったな」
「ごめんなさい……」
ウーディの言う通りだ。早道をしたかったとしても、まだリトルスライムに攻撃をしかけるべきではなかった。先ほどまでのドントンでは、かすり傷すら負わせられないのだから。
しかし、今は違う。
「火の魔力を注いだ。今なら倒せるはずだ」
ウーディによって、ドントンには火の大精霊の魔力が少量ながらも注入された。その結果、魔力、マジックポイントがグンと上昇する。今なら、フレイムを十回以上は使える。それだけでなく、リトルスライムすら倒せてしまう。
「どうして僕にここまでしてくれるの?」
「ふん。目の前で死なれたくなかっただけだ」
その返答は半分嘘だ。もう半分の理由は、ドントンから努力を惜しまないという強い意思が感じ取れたからだ。
ウーディは努力する人間だけは好きだ。
逆に、努力を怠る人間は大嫌いだ。
とは言え、この行動は単なる気まぐれでしかない。抱いている野望とは大きく矛盾する上に、軽率な行動ですらある。
しかし、ウーディも人間である以上、時にはこの程度の過ちを犯してしまう。自分に正直な性格がそうさせたのかもしれない。
ウーディはガーウィンス連邦国の敷地を目指す。そもそもここへは、食糧を買いに来ただけだ。
そのついでに、貧弱な子供を助けてみただけであり、こんなことは二度とするつもりはない。何より、目的が達成されれば、こんなことは二度とできない。
「あ、ありがとう、おじいさん!」
「まだ若いつもりだ」
背後から聞こえたドントンの声に、ウーディはたいして思ってもいないことを口にする。自分が年寄りなことは重々承知している。らしくないことをしたがゆえに、らしくないことを口走ってしまう。
ドントンは一人取り残される。高まった魔力がフレイムの威力向上を感じさせる。だからと言って、今は使う気になれない。
ひょんなことで手に入れてしまったこの力を、軽はずみに使っていいとは思えない。
ゆえに今はトボトボと帰宅する。考えなければならない。
この状況を。
この力を。
(あのおじいさんは誰なんだろう?)
ドントンは考える。しかし、わかるはずもなく、今はただ母親の元に一刻も早く帰りたい。
イリックに救われた命を、今度はウーディに救われた。
こんな短期間で二度も助けられたという事実が、ドントンを悩ます。
死の間際、母親のことを考えてしまった。自分が死ぬということは、母親を一人にすること。そういったことも含めて、今は考えなければならない。
自分のやろうとしていることは命を粗末にすることなのでは? ドントンはそう考え始める。
せっかく助けてもらえたにも関わらず、自分で放り投げようとしているこの状況がドシリと重く圧し掛かる。
一つだけ学ぶことができた。
冒険者とは、軽はずみに目指していいものではない。
相応の覚悟と人並み以上の才能とめぐり合わせが必要なようだ。
自分にはそれがあるのだろうか?
何より、母親を一人残していいのあろうか?
ドントンは帰り道を歩きながら、深く考える。




