長引く包囲 Nov.1346-Jul.1347
イングランド軍にとって冬越しは当初から予定されていて、その準備は11月までにほぼ終えられていた。
12月、カレーに程近いニウレにはイングランド軍数万人が滞在できる、一つの町が出来上がっていた。
その町は極めて安直に「新しい町」と呼ばれていた。道路は放射状に伸びていて、藁葺き屋根の木造小屋が各通りに並ぶ。
水曜日と土曜日には市場が開かれた。イングランドからの物資はフランドル経由で毎日届けられ、他方フランドルから供給される食料や衣服を含め、必要なものは全て買うことが出来た。
急拵えの町の豊かさを描くフロサワールの記述だが、病気の蔓延──ペストではないが──や脱走兵の続出を記録する資料もある。海を渡って逃げた脱走者は身元を調査され、下級役人によって出身地の町村を捜索されて捕らえられると投獄されて、それまでの賃金は回収された。
より良い食事とお祭り騒ぎの降誕祭が過ぎると、1346年は終わる。エドワード3世が好み、降誕祭に良く行っていた仮装大会は、この年には記録されていない。
庶民の降誕祭は、それぞれの共同体で寄り集まって騒ぐもので、この日にだけ節制は忘れられたように見える。しかしカレーの包囲を行う兵士たち、そして包囲されるカレー市民への恵みは期待ではなかった。
年明けすぐの1月1日、ハンディントン伯はイングランド南東部沿岸のあらゆる船舶を接収し、水夫と兵士を徴用するよう命じられた。さらに王の特例によって、牢獄からも労働力は引き摺り出される。
前年11月のフランス軍の補給作戦の後、1347年2月には、フランス側の提督ピエール・フロテ・ド・レヴェルの新たな補給計画により、再び大規模な船団が編成された。その物資は3月と4月にカレーへと無事に送り届けられ、2-3か月分の延命が為される。
その間、イングランド軍はどうにかして市壁を突破しようと試みていた。地形柄、攻城兵器が使えず、トンネル掘りも堀に遮られるというのに、市壁を登るための梯子は昨年11月に受注されていた。12月に6mから12m程度の──多分、市壁の高さと大差ない──長さの梯子が届き、そして梯子を立てる場所として小船が用意された。彼らはカレーの城壁の手前の堀に小船を固定して、そこから梯子で登ったのだという。
攻城用の梯子は普通木製梯子だが、折りたたみ式梯子や長槍によって掛けるフック付の革製またはロープ製梯子もあった。ロープ梯子は斧によって、木製の梯子は押すことで容易に撃退できたという。しかし高さ10m程度の梯子は、守備兵たちが油断すれば簡単に登りつめられてしまっただろう。
またカレーの町へと海上輸送された物資の中には、防衛のためにより有効なクロスボウや投石器も積載されていたという。
2月27日、冬の間試みられた攻城戦は成果を得られずに切り上げられる。イングランド軍は市壁の突破を諦め、より過酷な干殺しへと手段を戻した。
何よりも必要なのは海戦ではなく港湾の封鎖作戦である。
3月の中頃、フランドルの三都市の貴顕や、エドワード3世と包囲の間に身重になっていたフィリッパ王妃の立会いの下で、エドワード3世の娘14歳の我侭王女イザベラと15歳のフランドル伯ルイ2世は婚約する。ベルグの街で婚儀の準備は開始され、エドワード3世は再びカレーへと帰還した。
フランドル伯はこの妥協によって用を足すのにも不便な常時の監視からは解放されたが、1-2週間後には鷹狩りに託けて護衛を撒きフランスのアルトワ方面へと逃亡する。彼はブラバント公の娘マルグリットとの結婚を勧めるフランス王と合流し、その旗下に加わった。
4月、この事態に応じたのか、または春になったのを機会に、フランドル市民の軍隊はアルトワへと攻勢を始める。サントメールでの包囲はイングランド軍の派遣団と協力して行われ、ベテューヌでは周辺地方の襲撃が行われた。
前者はシャルル・デスパーニュ──多分後のアングレーム伯シャルル・ド・ラ・セーダ──に率いられた国境守備部隊によって各個撃破され、後者は少なくとも都市部についてはシャルル・ド・モンモランシー率いるリール守備隊によって防がれた。
またこの勢いに乗ったシャルル・デスパーニュの部隊は攻勢に出て、東のカッセルに向かうが、この町の回復は出来なかった。
互いの攻防は時々入れ替わりながら、泥沼の様相を見せはじめる。
他方カレーでは、イングランド軍によって占拠されたリスバン砦が、4月の終わりになってようやく改修作業を完了した。木造であることに変わりは無いが、屋上に大砲とカタパルトを設置できるようになった。
12門の大砲は設置され、王室の近侍によって集められた其々1000ポンド近い量の火薬の材料と共に、専門家集団によって運用された。その目標は硬いカレーの市壁ではなく、港から出入りする輸送船であり、少なくとも輸送船1隻を沈めたという。また砦自体の防備のために重装備の歩兵400と、弓兵200が配置された。そしてカレー自体の包囲は手薄になるどころか、4月以来、イングランド東南部から兵士たちが毎月のように送られてきて増強されていた。その第一陣の派兵は、ガスコーニュで戦いポワティエを攻め落としたダービー伯が率いていた。
5月、フランス軍への海上補給船団は、カレー付近に並べられたイングランドの船団を見て断念される。補給船団が直接損害を蒙る事は無く、そのために決定的な情勢の変化は気付かれなかった。
イングランド軍が補給阻害を狙うように、フランス軍も同様の動きを見せた。
フランス軍の指導者たるフランス王の戦意が冬眠から目覚めたのは、3月18日。
サンドニの旗と共に彼は再び出撃した。4月には軍の召集を命じ、当初の予定通り5月20日には集まりの悪い軍団を率いてアラスに進む。そして6月、彼自身は兵士を集めつつ、補給遮断のために動く別働隊の編成をさせる。その二つの部隊は騎兵のみによって構成されていて、フランドルからカレーに向かう補給線を目指した。
一つ目の部隊を率いる元帥エドゥアール・ド・ボージュは、サントメールでシャルル・デスパーニュと合流し、イングランドの補給拠点グラヴリーヌの前にある大きな障害であるカッセルへと再び駒を進める。
6月8日早朝、カッセルのフランドル軍は十全な準備でフランス軍を待ち構えていた。フランス軍の伝統的な騎兵突撃は防護柵の前に阻まれて役に立たず、正午まで歩兵のフランドル軍との格闘が続き、最後にはカッセルからの増援によって撃破された。彼らはサントメールに撤退し、フランス軍本隊との合流を図った。
二つ目の部隊は、元帥ロベール・ド・ウァウリンとラ・マルシェ伯ジャック・ド・ブルボンによって率いられ、ベテューヌ近郊のフランドル勢力を夜襲によって一掃する。しかし彼らの活躍は、カッセル攻略を失敗したために役に立たなかった。
6月23日、フランス王の軍隊はアラスからエスダンに移動する。つまり撃退し損ねたフランドル軍から自身の補給に対する妨害を受けずに進軍出来そうな沿岸沿いに進んだ。
6月25日、フランスの大規模な輸送船団はソンム川の河口付近で44隻のイングランド軍船団に捕捉された。彼らは散り散りに撤退したが多くが捕らえられ、カレーに辿り着いた船は一隻もなかった。
そして輸送作戦の繰り返される失敗の中、外洋の事態を察していないジャン・ド・ヴィエンヌはカレー側から連絡船を送ることにする。彼の手紙を携えた2隻の小船はカレーの港を出てすぐにイングランド軍に追跡され、そして座礁した。手紙はイングランド軍の手に渡り、然る後に本来の届け先であるフランス王へと丁重に送付された。
ジャン・ド・ヴィエンヌが苦境の中で送った手紙は、馬と犬と猫を食べ尽くし後は互いを食べる以外に生きる術はないと告げていた。勿論、少なくとも中世のフランスでは普通馬や犬や猫は食べない。しかし救援を求めるための方便ではないようだ。
7月、フランス王の差し向けた最後の貧弱な船団が鹵獲された後に、ジャン・ド・ヴィエンヌは再び貧民の追放を宣言する。このとき選ばれた500人の社会的弱者は、食い扶持を減らすために市壁の外へと突き出された。
エドワード3世は、彼らを通すことを許さなかった。先例を失策だったと判断したわけではなく、むしろ長い間抵抗していた彼らを素通りさせるつもりが無かったようだ。財産が無く捕虜となる価値のない彼らに選択肢は一つしかない。
イングランド軍に追い返された貧民は、カレーの市民からも拒絶され、日ごとに一人ひとり飢死していった。彼らの姿は両陣営から見て取ることが出来たという。
7月15日、エドワード3世から手紙を受け取ったフランス王は、長く留まっていたエスダンを出発し、カレーへと進軍する。進路が安全であることを前提として、先の守備隊や別働隊を軍の中に組み込み、兵力の不足は補われた。
このとき彼の軍勢の規模は1万5千から5万という推定であり、明らかにクレシーのときの戦力を下回っていたが、行軍はより穏やかで、敵対勢力からの妨害を受けることも無く、極端な疲弊もしていなかった。




