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カレー包囲戦の序幕Sep.1346-Nov.1346

 8月27日の朝、のこのこ出遅れてクレシーに現れたロレーヌ公は、朝霧の中で不意打ちの騎兵突撃を受けて殺された。その後、レジナルド・コブハムとリチャード・スタッフォードはそれぞれ伝令官3人、書記2人を連れて死体の確認をする。発見されたボヘミア王の遺体は特別に帰国の途に着き、フランスの高名な貴族たちはヴァロワール近くの教会に埋葬され、その他は畑の傍に埋められた。

 騎士や従士を含む貴族の死者は1542名と書記に記録され、兵士たちの死者数は数えられなかった。死体の多くは黒太子の部隊の近くや彼らの退路で発見されたというから、死傷者は弓矢ではなく白兵戦とウェールズ兵の追撃で多かったのだろう。

 フランス側の貴族の死者は第一にボヘミア王ジャンと、ド・バゼイユを含む彼の家臣ほぼ全て。それからロレーヌ公ルドルフ、ブロワ伯ルイ2世、アランソン伯シャルル2世、フランドル伯ルイ1世、アルクール伯ジャン4世、ブラモン伯アンリ4世、サンセール伯ルイ2世、ブレーヌ伯ロベール2世、クシ男爵エンゲラン6世、ピュイ・ド・フー領主ジャン、シャバンヌ領主エバリュ、セシェル領主ジル2世、オセール伯家のジャン、グランプレ伯家のティボー、ポワ伯家のベルナール、ショーモン領主家のジャン。神聖ローマ諸侯のザルム伯ジーモン、その他検索すれば幾らでも出てくる位には死んだ。また極一部は捕虜となった。


 一方、フランス王の動きはと言うと、エギュイヨンからの途上にいる彼の息子ノルマンディー公ジャンの軍勢を待っていた。しかしノルマンディー公が騎兵隊のみで急行して辿り着いてからも、フランス王は募兵の必要を感じていたために、そしてガスコーニュの不安もあって反撃に出ることは無かった。先にエギュイヨン包囲からノルマンディー公を引き戻したために、そこでの攻守は逆転していた。


 8月28日、イングランド軍の行動方針について作戦会議が行われ、一つの目標が立てられた。この先にある城塞都市ベテューヌではなく、進路を変えて港町カレーを目指す。だがしかし、その目的はフランドルとのクレシー以前よりもより政治的な連携作戦である。

 カレーは確かにイングランドにとても近い港だったが、当時両海峡を繋ぐ役割を果たしていたのはヴィサントの港だったし、この地域の経済的中心地はブーローニュだった。つまり単純な掠奪という狙いは考えられなかった。むしろここを攻める理由は後述するようにフランドル側にある。


 さて、物資の尽きていたイングランド軍は沿岸を進軍し、毎日都市に立ち止まった。29日にはリュ、30日にモントルイユへの掠奪に失敗してエタプルに留まり、9月1日にヌーシャテル、2日には防備の強い豊かな都市ブーローニュを回避してヴィミル、3日にヴィサントを襲撃して滅ぼした。そして9月4日、少なくとも先遣隊はカレーに到着した。

 同行していたノルマン貴族ジョフロワ・ダルクールはここでイングランド軍を脱走し、彼個人はブルゴーニュ公を頼って、当初から求めていたノルマンディーの支配権を巡りフランス王との交渉を始める。クレシーにおける彼の兄弟アルクール伯ジャン4世の死は都合が良かった。だが、エドワード3世の不興を大いに買ったこの行動に対して、フランス王は結論を先送りにした。

 クレシーの敗北は間違いなくフランス側の多くの貴族にとって痛手だったが、フランス王自身はまだ失意の底に落ちていない。


 港町カレー。ブリテン島との距離は20km程度で、天気の良い日には対岸が見える。人口は4500から7000程度で、主な産業は漁業とその加工業、まだ羊毛貿易はほんの僅かだった。この町に繋がる交易路は無く、大抵は水運を利用して主にフランスの都市へと輸出されていた。

 北海沿岸の類型的な、四旬節の節制に根差したニシン漁はここでも重要だったが、この頃はフランドル沿岸の諸都市で行われた百隻以上の大船団による昼夜を問わない乱獲と、彼らによる国境を越えた圧倒的な市場席捲のために衰退しつつあった。漁業衰退の影響は、雇用と利益の減少を引き起こし、不法行為を増長させる。フランドルがカレーを敵視する理由としての、イングランド・フランドル間の交易路を脅かす海賊行為は彼ら漁師によって行われていたという。

 町の防御設備として市壁に三方を囲まれ、イギリス海峡に面する北部には低い堤防があった。北西部の断崖の上にはリスバン城があり、ここから海峡を通る船を監視することが出来る。壁の外側は水堀で囲まれていて、さらにその外側は広い湿地帯だったため、攻城兵器の設置は困難だった。

 町の守りを指揮するのは、ブルゴーニュの騎士ジャン・ド・ヴィエンヌと、地元の騎士アンゲラン・ド・ビューロー。彼らの防衛準備は、クレシーよりも前から始められていた。


 9月5日、ジョン・モントゴメリー指揮下のイングランドの船団が漸く到着する。予定より十日ほどの遅延は多分自然の影響による。ウィンチェルシーとサンドウィッチからの補給に加えて、10000-12000程度の増援が遣された。

 このときエドワード3世から包囲準備のための追加要請が行われた。カレーは目前にあったが、イングランド軍はこれまでの戦いと違い、入念な準備を始める。

 7日、カレーの指導者ジャン・ド・ヴィエンヌは、長期戦になることを察して食糧の温存を計画する。彼は食い扶持を減らそうとして、町に居る貧民を市壁の外に追い出した。そして1700人以上の老若男女が町の外に出され、包囲するイングランド軍と直面する。

 エドワード3世はここで騎士道的な寛容さを見せ、貧者の行進に道を空け、そして食料と2ペニーを配給した。つまり補給によって得られた潤沢な物資がイングランド軍の油断を招き、包囲が長期化する一端をなすことになる。

 しかし少なくとも年越しは予定されていた。


 9月13日のウェストミンスター議会では翌年の戦時予算が組み込まれ、ニューカッスルとブリストルでは王の命令書に基づいて物資購入の手続きが行われる。25隻からなるカレーへの輸送船団は編成された。

 イングランドの輸送船団はカレーではなくフランドルに向かう。虚を突くというわけではなく、カレーの城からの監視を避けるためと、彼らにとって慣れた航路が取るために。物資はフランドルのグラヴリーヌで荷降しされ、そこから輜重車と荷馬車でイングランド軍の軍営まで送られた。

 水夫たちは大抵元々漁師で──彼らは相当遠洋まで航海する──、イングランドで長く伝統となる強制徴募でかき集められた。彼らの給料は大体歩兵と同じくらいで、船長は弓騎兵程度だった。ブレティニの和平の後でより多くを要求するようになる弓兵と違って、彼らの賃金は中世の終わりまで維持されたという。

 船も、イングランド王の私有する50隻程度の船舶を除けば、カレーの包囲戦で用いられた総計738隻の船の大半は商船を徴発・接収したもので、こちらも時代を問わず行われるやり方だ。


 9月17日、包囲戦のために構築されたイングランド側の最初の補給船団は、沿岸付近で敵に遭遇した。敵の規模はガレー船30隻。彼らの武装はクロスボウ。

 手負いのカルロ・グリマルディ率いるジェノヴァ傭兵の船団である。彼らは、彼ら自身を踏みにじったフランス王と再契約し、先の戦いの報復をすべくフランドル沿岸付近で張っていた。

 海戦は始まった。

 戦いは大抵弓矢やクロスボウの撃ち合いで始まる。スロイス海戦ではイングランド優勢の位置取りと風向きのために、互いの船が衝突するまで接近しての戦いとなったのだが、このときはジェノヴァ傭兵が優勢の位置にいた。というよりもガレー船の機動性のために波が穏やかならばどうあっても優位になることが出来たし、射程も勝っていた。或いはこのとき弓兵や重装備の兵士が配備されていなかったとも言われる。

 ところで14世紀において大砲が積まれていた可能性が提案されることもあるが、それについての幾つかの記述は疑われている。

 ジェノヴァ傭兵たちはイングランドの船に乗り込み、彼らを皆殺しにして船を全て燃やした。この任務を終えると、ジェノヴァ傭兵はこれまでの任務の対価を受け取ると共に、彼らの船を全てフランス王に売った。

 カルロ・グリマルディはフローリン金貨18000枚を得ると、今後の任務を拒絶してフランスを去る。以来、ジェノヴァはフランスに対して非協力的になったという。


 9月19日には、フランドル軍がカレーの支援のために行動した。

 彼らはテルアンヌを攻め落とし、ブーローニュ付近まで攻め込んだ。10月になる前に彼らは帰国する。ベテューヌでの失策を取り返すよりも、彼らとイングランドを結ぶ補給線の安全確保が主題だったのだろう。


 10月7日に、クレシーの直後にフランス王と密約を結んだスコットランド王が、カンバーランドの国境を越えてイングランド北部に侵入した。イングランド軍の隙を突こうとしたこの作戦において、スコットランド軍は大きく南進することなく国境付近の掠奪に精を出した。そしてニューカッスルの要塞を突破してダーラムに到着した時点で、すでに十日が経っていた。

 17日、スコットランド軍は、ダーラム南のネヴィルスクロスで、ラルフ・ネヴィル率いるイングランド兵9000-15000による迎撃を受ける。この兵士たちはイングランド北部出身者で構成されていた。エドワード3世は、スコットランド軍がいつ攻めて来ても良いように、北部州からフランス遠征のための兵士を徴用しなかったのだ。

 同じくイングランド側の指揮官ウィリアム・ド・ゾウチにはスコットランドの動向を伺う任務が予め与えられており、スコットランド王とフランス王との密約が成立して間もなく、それを察して募兵と準備をすることが出来た。

 両者は朝に遭遇してから互いに出方を見ていたが、スコットランド軍の指揮官の一人ウィリアム・ダグラスの部隊は昼過ぎになって前進を決定した。彼らは弓矢の攻撃に対して伝統的な密集隊形によって身を守ったが、しかしそのために身動きが取れなくなる。

 そこに、彼らへの迎撃のためにイングランド軍の歩兵が前進してきた。危険を感じたスコットランド王は彼の部隊を急いで前進させるが、そこに弓矢の雨を受けて大きな損害を被ってしまう。

 両部隊の崩壊を受けて、後方に残っていたスコットランドの最後の部隊ロバート・ステュアート率いる補充兵部隊は機を見て戦線を退き、スコットランド王自身は顔に矢傷を受けて、ウィリアム・ダグラス共々イングランド軍の捕虜にされた。

 ところでフロサワールによればイングランド軍を率いたのが王妃フィリッパだとしたり、勝利を決定付けたのが、スコットランド軍を騎兵による迂回突撃で撃破したスコットランドの僭称王エドワード・ベイリャルだと言うが、正確ではない。

 エドワード3世がイングランドに帰国することを期待していたフランス王は期待を裏切られ、10月27日に折角集めていた軍隊を解散させた。彼は冬までにするつもりだったカレーの解囲を諦め、カレーへの年越しのための補給作戦を立ち上げることになる。

 他方、ノルマンディー公不在のガスコーニュでは、10月初頭にポワティエが陥落した。ここでノルマンディー公は、フランスの現状を察してカレーを後回しにして、ガスコーニュへの迎撃を望んだが、フランス王は認めなかった。

 10月末にはイングランド・ガスコーニュ指揮官ダービー伯が帰国し、イングランド軍の主力は守勢に回る。まだ攻勢を続けていたガスコーニュ出身の騎士たちは11月にトゥールでアルマニャック伯率いるフランス軍の分遣隊数千に包囲され、一ヶ月耐えた後に降伏するが、ガスコーニュの他の地域が脅かされることは無かった。

 フランス側のガスコーニュの貴族たちは冬の始まりと共に、イングランドの支持者として自らを切り替え始めた。


 10月、イングランド王はフランドルを訪れて、彼らとの同盟を公式に更新する。というのもフランドル伯ルイ1世はクレシーで戦死し、その一週間後に彼の息子ルイ2世が即位していたためだ。先の同盟が市民主導の同盟だったように、今回も市民の厳しい監視の中でルイ2世は調印を迫られた。

 10月29日には王妃フィリッパが渡海してエドワード3世の下を訪問し、全聖人の日の祝賀が行われている。つまりそれこそ彼女がネヴィルスクロスの戦いに参加してなかったという証拠とされる。


 11月中頃、フランス側からカレーへの補給作戦が決行される。冬越しに十分な補給は、アブヴィルとディエップで集められた。アブヴィルの海賊(とイングランドで看做される)ジャン・マランとミスティエルや、スロイスの海戦に参加した船長コリン・ハルディが、カレーへの輸送の指揮を受け持ち、その船団の中には、フランス王が買い取ったガレー船の姿もある。

 彼らは1隻を偵察として先行させ、大小50隻以上の船団はイングランド海軍の哨戒を掻い潜りつつカレーの水門へ滑り込んだ。

 そうして包囲戦は年明け以降も続く。

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